だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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クリスチャンなら誰しも、

「主が喜びを与えてくださった」とか

「主が悲しんでいる私をなぐさめてくれた」とか

主が働かれていることの「主観的な証明」があると思います。
そして、それは人に別に説明できなくても、神さまと自分との間のことにしておいて良いと思います。


しかし、その「客観的な証明」と「主観的な証明」の順序はどちらのほうがいいんでしょうか。


簡単に言うと、「霊的に正しいと感じる」から正しいのか、
それとも、「これこれの証拠で信じる価値があるから、霊的に正しいと感じ始めるのか」という違いです。

もちろん、二つ目のほうが正しいと分かると思います。


「客観的な証明」があるから「主観的な証明」があります。


聖書を信じるに至る過程では、どちらが先でもあり得ると思います。
(例えば、急に何故かわからないけど、イエスについて知りたくなったなど)


でも、人に自分の信仰を説明する場合、また何かを教える場合
主観的なこと「こう感じませんか」とか「これが霊的だと思いませんか」とかから始めると
話はあてどもなくさまよいます。


また日本の宗教や他の宗教でも、「霊的だと思うから」という理由で偶像礼拝がなされています。
だから、最初に主観的なことは証明になりにくいと思います。
なぜなら、「(いいと感じているのに)どうして自分の宗教を変えて、聖書の神を信じないといけないのか」という疑問に答えられないからです。


パウロや使徒たちは使徒の働きで、客観的な証明から入りました。


ユダヤ人にはイエスが預言されていたメシアであること。
また異邦人には聖書の神が真の創造主であって、人間の心に律法を書きこんだか方であること。

私たちがモデルにすべき、使徒の働きの宣べ伝え方はほぼ「客観的」です。




今日こんなことを書いたのは、「生命の光」というパンフレットを出している

「キリストの幕屋」

というところのイスラエルに関する上映会に行ってきたからです。



そこに属しておられる僕の知り合いの方は、イエスをキリストと受け入れ、聖書も新約・旧約と受け入れていて、彼自身クリスチャンだと思いますが、

その団体は日本の宗教を愛し、イスラエルに行ってもユダヤ人にメシアであるイェシュア(イエス)を伝えないと言っていたので、この点がこの団体はおかしいなと思いました。

本当に聖書に基づいて考えるなら、日本の宗教は偶像礼拝であって、すべて真の神を信じていない人は永遠の地獄に行き、イエスをメシアと受け入れないユダヤ人は罪を贖う方法を彼以外に持っていないため、メシアなしでは救われることはありません。

イスラエルに行っても、尊い魂に福音を語らないなら、どんな意味があるでしょう。
今は仲良くしていても、永遠の行き先が違う人たちを見捨てておくんでしょうか、と僕は思いました。

なので、当然団体(教会やモリエル)としては「キリストの幕屋」に賛成できないなと思いました。
個人的なクリスチャンとの交わりはできると思いますが。



世間で「宗教は危険だ」と言われるゆえんは何でしょうか。



僕はそれは、客観的な証明無しに、主観的な証明に頼りすぎているからだと思っています。



僕は聖書の正しさが客観的に証明されていなかったら信じません。


なぜなら、なぜ正しいと客観的に分からないものを信じて、家族から離れて、「あいつは宗教にはまってる」と思われなくてはならないんでしょうか。
聖書でさえ、正しいと分からなかったら信じる必要はないと思います。

福音について語り出したパウロは書きました

『もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。』1コリント15:2



よく考えもしないで宗教を信じるために、宗教には悲劇が伴います。


オウム真理教、イスラム教の過激派、メシアニックジューを迫害するユダヤ教超正統派たち。


よく考えるということは「客観的な証明」を検証するということじゃないでしょうか。



たとえば、「車のブレーキがきかない」という客観的な事実があったとして
その客観的な事実を信じずに、「事故に合わない気がする」と言って運転しだしたらすぐに事故に遭うでしょう。

当たり前なことですが、宗教ではそのような信じられないことを人に信じさせます。

「教祖さまが言ったから」

でも「聖書にこう書いてあるから」といって客観的に証明できることなら、神さまから見て安全です。

なぜなら、聖書を信じる信仰は盲目的な信仰ではないからです。

また書きますが、聖書には信じるに足る証拠が数限りなくあります。聖書は客観的に証明できます。



いったん、その客観的な事実を無視しだしてしまうとその「宗教」は止まることなく、さまよい始めます。


そのような宗教に気をつけましょう。
そして、僕たちがそのようにならないように気をつけましょう。



生まれつきクリスチャンの家庭で育った人にはこの点で危険が伴うと僕は思います。

「客観的な証明」の前に「主観的な証明」が来てしまって、ただの宗教になってしまう。
その環境にいることの方が楽だから、「正しいか」「間違っているか」は考えなくなってしまう。

判断がつかない子どもの頃は親の責任だと思いますが、
判断がつく頃になると、自分で何が正しいかを探す責任がでてくるんじゃないでしょうか。


「なぜうちの家はキリスト教なのか」


「どういう土台に立って、信じているのか」


「なぜ聖書は正しいと言えるのか」


正しくなかったら信じないほうがましです。正しいものを信じましょう。


「そんなん、人間が判断できることじゃない」


と言われる方があるかもしれません。

そうしたら、正しいことを判断しなくていいのでしょうか?

善悪はあやふやなものなのでしょうか?



もし生まれつき善悪が判断できるように造られていなかったなら、僕たちに責任はありません。


物を盗まれたら「悪いことだ」と分かるように、僕たちの心には神さまの律法が書かれています。
そして、すべての人が正しいことを信じる義務があります。

ルカにはこうあります
『アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』』ルカ16:31


モーセ五書に書かれてある内容、

神さまがこの世を創造されたこと。律法が与えられたこと。

それを否定すると、どんな奇跡を見ても聞き入れはしません。



神さまの創造と、心の中に書かれた律法を否定すると、死人がよみがえっても信じないと書いてあるのです!!


正しい義なる神についていきたいですね。

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