だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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「カリスマ派」 「ペンテコステ派」


このような単語をバプテスト派や、改革派、福音派の人たちは
「聖書的じゃない、経験主義、感覚主義に陥った人たち」
という意味で使っています。

床に転げまわったり、聖なる笑いと言っておさえられないほど(教会で)笑ったり、
癒しが起こったと言っても医学的に証明されなかったり(ベニー・ヒンなど)、
預言がはずれたり、、、

これらのことが多くの過激なペンテコステ派、カリスマ派で起こっていることは事実です。
そしてこれらは間違っていて、多くの人を聖書から遠ざけています。



しかし、聖書は聖霊の賜物が使徒の時代で終わったと書いているのでしょうか??



以下はジェイコブ・プラッシュの書いた記事の訳です。
聖霊の賜物は使徒たちの時代だけのものだったか

聖霊の賜物が使徒たちの時代で終わってしまったという間違った考えは、しばしばとても正しいとは言えないような1コリント13章の解釈から導き出されます(それはもはや解釈ではありません。なぜなら本文に書かれていないことを引き出しているからです。それはむしろ自己流の解釈であり―本文に書かれていないことを読み込んでしまっています)この議論はユダヤ人が“しるしを求める”ので最初の信者たちには異言が必要であって、私たちにはもはや必要ではないというものです。また、この章にある“完全なもの(1コリント13章10節)”が聖典としての新約聖書だと言い、新約聖書の最後の書が書かれたときに賜物は終わったと言います。

この議論の最初の間違いは、この書簡を紹介する1章7節の序章と13章の部分を切り離してしまっていることにあります。この手紙のはじまりの部分の文脈を読むと、1章7節は“完全なもの”とはキリストであって、新約聖書でないことが分かります(1章7節『その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています』)。したがって、賜物が終わったという人は、弁解をするために文脈から外れて主張しなければならないのです。彼らは実際にハイパー・カリスマの人たちと同じように危険で、愚かなことをしてしまっています。私たちはこれにも気をつける必要があります。これはサタンがイエスを誘惑したときに行ったことです。

二つ目の間違いは、その箇所自体の文脈を無視しているということです。「愛だけが永遠に残るものだから、“完全なもの”が来たときには私たちには信仰や希望が必要ではなくなります。なぜなら私たちはもうぼんやりと見ることがないからです。私たちは神に知られているように、完全に知るようになります」その人たちが「信仰が必要でないとか、希望が無くても良い」と言っているのをあなたは聞いたことがあるでしょうか?

三つ目の間違いは、“ユダヤ人はしるしを求める”と書いた同じパウロが、ローマ11章に書いていることに関してです。そこで彼は、今私たちの時代に著しく起こっているように、終わりの時代にユダヤ人が再びイエスを信じるようになると書いています。そうすると、異言はユダヤ人だけのものだったという彼らの議論は、ユダヤ人信者である私の妻と子どもたちがピグミー族のような存在だということでしょうか?もし異言がユダヤ人だけのためのしるしであって(私はそれが聖書の教えだと考えませんが)、またユダヤ人が預言的に終わりの日にメシアなるキリストに立ち返ることが定められているなら、彼らの議論は聖書の異言を擁護しているのであって、異言に反対する議論ではありません。

四つ目の間違いは、使徒2章にあるペンテコステの日のペテロがヨエル書から引用したケリグマに関するものです。その箇所ははっきりと、イエスが戻ってくる前に預言などの賜物が再び起こると主張しています。

五つ目の問題は、この手紙の中で異言や預言を禁じてはならないという特定の戒めがあることです。もしそのような戒めを無効にするなら、どのような根拠をもって極端なカリスマ派に反対できるのでしょうか。例えば、過激なカリスマ派は酔ったような状態は神の霊が働かれている証拠だと主張しますが、新約聖書では明らかに身を慎むことが命じられており、ガラテヤ書では“自制(エンクレテイア)”が御霊の実として書かれています。カリスマ派は聖書の戒めは現代にはもう通用しないと主張し、聖書に書かれたことを越えないようにとパウロが警告したのを無視しています(1コリント4章6節)。どちらも聖書の定めた範囲を越えてしまっています。

六つ目の問題は、ニケア会議以前の使徒たちの時代に近い教父たちが記している歴史の中で、奇跡や癒しなどのカリスマ的な現象が見られるということです。それは使徒たちの時代を越えて初代教会の中で続いていました。

私たちが注意しなければならないことは、サタンは、真実であり偽造する価値のあるものだけを偽造するということです。偽の賜物があるからといって賜物自体を否定してしまうことは、お金が偽造されてしまうから紙幣を燃やしてしまおうというのと同じです。多くの人が賜物を信じたのに、前の間違いに反応して新しい間違いに陥ってしまうのを見ることは、思慮のないことであり、悲しいことでもあります。

同じような考えでより穏健なものは、御霊の賜物をすべて否定はしないが異言だけを取り上げる考えです。それはパウロが“人の異言や、御使いの異言”と言っていたのはただおおげさに言っていただけだと主張します。確かにギリシア語の本文では、パウロが人の異言について誇張法を使っていたことが明らかです。(ギリシア語は「すべての人間の言葉を話すことができたとしても」という考えを伝えています)このようにこの人たちは、有効な異言とは人間の言葉だけであると主張しています。

確かに、まじない師やモルモン教徒、他のカルトも古代ギリシア人が“オートマティック・スピーチ”を持っていたように、異言というものを持っています。あるカリスマ派カトリック教徒も異言でマリアに祈ることがあります(もちろんこれは偶像礼拝です)。異言はただ悪霊からのものであるか、御霊の賜物どちらかです。また異言は身に付けたものか、人為的なものか、純粋に心理的なものであるかのどれかです。今日異言と呼ばれるもののほとんどが真実の異言ではないと私は確信しています。一方で聖書は、もし異言が聞こえるものでなければ、さばくことや見分けることは勧めていません。異言がある人にとっての外国語や解釈されていない限り、それは個人的になされるべきであって、集会の中でなされるべきではありません。もし異言が聞こえないようにされている場合は、祈っているのと同じで誰も気にすることではないでしょう。

聖霊の賜物が終わったと言う人、また聖霊のバプテスマがいつも救われた瞬間に起こるもので、救いの経験の後ではないと主張する人は、福音派教会のアルメニア説の創始者(ジョン・ウェスレー)と、改革派カルヴァン主義者たち(ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ウィットフィールド)のことを忘れてしまっています。彼らはどちらも現代私たちがカリスマ的な経験と呼ぶものを認めていました。確かに『キャッチ・ザ・ファイヤー』という本でガイ・チェブリューはそのような事実を曲解して、ウェスレーが「ヒステリックに陥って“悪魔的”である」と言い、ダニエル・ローランドとジョージ・ウィットフィールドが「神がなされることを混乱させようとする行き過ぎた行動」と考えていたもの、ジョナサン・エドワーズが『宗教的な愛に関する第四の説教』という本の中で経験は何も意味しないと書いていたことを大きく指摘しそこなっています。しかし、現代の定義でいうとこれらの人たちはみなカリスマ派であったのです。加えてD・L・ムーディーとR・A・トーレーはどちらも聖霊のバプテスマを証言しています。現代の形の“聖霊の賜物が終わった”とする考え方を本当に始めたのはB・B・ワーフィールドという人です。』



多くのカリスマ派・ペンテコステ派が聖書から離れてしまっているのは悲しいことです。
しかし、聖書をそのまままっすぐ信じることこそが、神さまの望んでいることではないでしょうか。

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