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ユダヤ人のミドラッシュを通して聖書を読む上で、 意外と大切だと思うのが、 「聖書は歴史書じゃない」 (もちろん、聖書の歴史性は全く否定していません) ということだと思います。 ジェイコブが面白いことを言ってました。 「聖書は歴史書ではなく、正確な歴史の神学的解釈だ」(Bible is not the history book, but it is a theological interpretation of the right history.) 僕たちはよく聖書を「歴史書」のように読んで、マタイとルカの系図の矛盾とか、 福音書同士の矛盾であったり、いろいろな問題に突き当たります。 ですが、例えば系図をとって考えてみれば、マタイとルカにあるイエスの系図ですが、歴代誌やエズラとかと比べてみるとその詳細が違います。 それは、「神学的に大切な祖先を記述した」ということじゃないでしょうか。 聖書はひとつひとつの歴史を細かく記述するより、神学的に大切なことを神さまが選んで、聖書に載せています。 なぜそうする必要があったのでしょうか? 『この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』ヨハネ20:30−31 このヨハネの箇所と同じ理由です。 なので、聖書記者たちが書いたことは歴史の全貌ではなく、正しい歴史の神学的解釈です。 そういう観点で聖書を読むと、すべての箇所に意味があるということが分かります。 なぜなら、神学的に大切でなければ、聖書には記されていないからです。 もちろんその意味は最初の文脈的、歴史的、文法的に書かれていること、つまり 当時の人にとっての意味が第一です。 しかし、聖書はそれだけではありません。 『モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。』1コリント9:10 ジェイコブ・プラッシュの説教を聞いていて驚いたのが、 旧約聖書の今まで気づかなかった象徴の意味を確実につかんで、(もちろん象徴は教理に矛盾しません)しかもそれを日常生活の適用までもって行っているということです。 話を戻すと、 「聖書が歴史書」だと思っていると、どんな問題があるのでしょう。 上の箇所をもじると 「※(ちょっと変更すると)モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。いいえ、私たちのためではありません。」 となってしまいます。 何が言いたいかというと、 過去のことは過去のことで終わってしまうのです。 自分たちには箱舟の設計とか、神殿の横の部屋が何キュビトだろうが、アロンの服の素材が何であろうが、関係無くなってしまいます。 もちろん、そんなことがありませんよね。 多くのものに象徴が含まれていて、新約聖書はそのような読み方をしていました。 旧約聖書という古代の書物と現代をつなげるものが「ミドラッシュ」で、 新約聖書が用いている「ミドラッシュ」が私たちに必要な聖書の読み方です。 そこから、教理、信仰生活の指針が与えられて、神さまのみこころをより正しく知って、
みことばを食べ、成長していくことができると僕は考えています。 |
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2010年02月13日
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