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山上の説教――「〜する人は幸いだ」という箇所に関してロイドジョンズ師のメッセージ
とても励ましを受けたので、ここに引用します。
『これらの描写は、はっきりと(おそらく聖書全体のどの個所よりもさらにはっきりと)、キリスト者と
非キリスト者の間の本質的な相違を指摘している。これは、私たちと重要な関係のある問題である。そし
てこれが、山上の説教の考察こそ何よりも重要であると私が言う理由である。山上の説教は、人間の行為
の単なる描写ではない。その核心は、キリスト者と非キリスト者との間のこの相違なのである。新約聖書
はこの点を、全く基礎的、根本的事柄であると見ている。現代の世相を見るとき、教会における第一の必
要は、この根本的な相違の明白な理解なのである。この相違は漠然とされてしまっている。世は教会の中
に入って来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この
区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も。教会の歴史における偉大な時期の
一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部
の人にも魅力的にすべきであり、できるだけ外部の人と似たようにするべきであるという考え方に接して
きた。第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き
合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろのことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ま
すためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来る
であろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。教会は絶対
的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会
を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。
これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分
はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たち
の希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていた
いと切望すべきである。私たちが切に願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに
似れば似るほど、望ましいことである。キリスト者は、キリストに似る者となればなるほど、ますます非
キリスト者とは似ない者になるのである。』(D・M・ロイドジョンズ著『山上の説教』p.50-51 幸福の使信への序文より)
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