|
『いけにえに関する見解をシナゴーグと同じくする新約聖書 』
『いけにえに関する新約聖書の見解が、古代のシナゴーグの見解に完全に一致していたことを知るのは非常に興味深いことです。初めに私たちは次の原則に出会います。『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない』(ヘブル9章22節)この箇所と同じことを語っている引用をユダヤ人解釈者たちの元から引いてきましょう。ラシ(Rashi)は(レビ記17章11節について)「すべての造られたもののいのちは、人のいのちを贖うために与えられている――ひとつのいのちは人のいのちを贖うために来なければならない」と語り、同じようにイブン・エズラ(Aben Ezra)はひとつのいのちはもうひとついのちの代理のためにある」と書きました。またモーシェ・ベン・ナフマン(Moses ben Nachmann)は「私は祭壇の上であなたのためにそのいのちを与え、その動物のいのちは人のいのちを贖うものとなる」と語りました。このような引用は挙げていけば限りがないでしょう。同じようなラビたちの発言の中に聖書の真理の一面が現われているのが、手を置く儀式です。「言うなれば、ささげる者は彼自身から罪を取り去り、生きた動物の上にそれを移行させる」そして「自分のたましいをもってその人が罪を犯す度に、それが憎しみや悪意からであっても、自分の罪を自身から取り去り、それをいけにえの頭の上に置く。それが彼のための贖いである」と書いています。従って、この原則はアバルバネル(Abarbanel)によっても規定され「(手を置くことと関連した)告白の祈りの後、(贖いの日に)イスラエルの子らの罪はそのいけにえの上に置かれる」と言われています。マイモニデス(Maimonides)によると、これはなぜ贖いの日に、赤い雌牛か山羊のいけにえ、また似たようないけにえに触れる者は誰でも汚れを受けるかを説明していると言います。なぜなら、これらの動物は実際に罪を負っていると見なされていたからです。事実、ラビたちの言い回しを借りると、この罪を負った動物はそのために退けられ、忌むべきものとなることがはっきりと決まっていたのです。クリスチャンの読者なら、ここで聖書の主張を思い起こされるでしょう。『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』(2コリント5:21)
ですがもうひとつ、シナゴーグが強調点を置いていた側面があります。似たようなものがたくさんあるにせよ、次の引用を載せるのが最適だと考えられます。「正確に言えば、そのいけにえと同じように罪人の血が流され、罪人の体が焼かれなければならなかった。しかし聖なる方――彼に祝福あれ!――が私たちからの贖いと和解のいけにえを受け入れてくださった。主――彼に祝福あれ!――が人に示された完全な恵みを見よ。哀れみとその恵みの完全さをもって、主はその人のたましいの代わりに動物のたましいを受け入れ、それを通して、和解が成立するのである」従って、この原則と共に、次の質問への答えも重要なものとなってきます。果たして昔のイスラエル人はいけにえの意味を理解していただろうかということです。「いけにえをささげる者は、そのいけにえが自身の贖いであると知りながら来る必要がある」
ユダヤ教の礼典
これらの観点を踏まえると、シナゴーグで頻繁に述べられてきた深い欠乏の思いは非常に心を打つものです。贖いの日の礼典には次のようにあります。「まだ祭壇や聖所が元の場所にあった頃、私たちはくじによって決められた山羊によって贖われていた。しかし、今は私たちの咎のため、もし主が私たちを滅ぼすことを良しとされるのなら、私たちの手からは全焼のささげ物やいけにえを受け取られない」ユダヤ教の祈祷書の同じような箇所からもうひとつだけを付け加えておきましょう。「我々は暴虐と反抗を口にした。我々は正しくない道を歩んだ…見よ、我々の罪が我々の上にのしかかった。それらは重荷のように我々を圧迫する。それらは我々の頭の上を越えていった。我々はあなたの素晴らしい戒めを捨て去った。我々は全能の神であるあなたの前にどのようにして出て行って、我々の罪を贖い、我々のそむきを捨て去り、罪を取り除き、あなたの恵みをあがめることができるだろうか。いけにえとささげ物はもはや無く、罪とそむきのためのささげ物は止んだ。いけにえの血はもはや振りかけられない。あなたの聖なる家は破壊され、あなたの聖所の門は落ちた。あなたの聖なる町は荒廃している。あなたは殺し、(我々を)御前から投げ捨てた。人々は去り、あなたの御顔から追い立てられた、あなたのいけにえを運んでいた祭司たちが!」それゆえ嘆きが頻繁に繰り返されています。「我々のための仲裁者として立ち上がってください(これは真実でしょう)、私は身代金(贖い、また覆い)を見つけました」そして贖いの日に、他の場合に繰り返される内容について、彼らは祈ります。「ヨベルにあってシオン、あなたの町、そし昔エルサレムにあったような喜びをもって、あなたの聖なる家に我々を連れ戻してください!その後、我々はあなたの御顔の前で定められたいけにえをささげましょう」
贖いの日の前夜
誰が浮浪するユダのこの深い嘆きに答えることができるでしょう。彼らのいけにえの代価となる身代金はどこで見つかるのでしょう。その失望の中にあって、ある者は父祖たちの功績やその敬虔さをもって訴え、他の者は最後の罪滅ぼしとみなされる自分たちイスラエルの苦しみや死をもって訴えます。しかし最も深い憂鬱さを表している例は、おそらく、贖いの日前夜に信心深いイスラエル人が行ういけにえの真似事です。男性は白い雄鶏を取り、(ヘブライ語の「男」(ゲベル)はタルムード中において「雄鶏」として使われており、「白」はイザヤ1章18節から取られている)女性は雌鶏を取って、家のかしらが祈ります。「暗やみと死の影に住み、悲惨さと鉄につながれた人の子たち――彼はその者たちを暗やみと死の影から引き出し、その鎖を砕かれる。愚か者たちは彼らの罪と不正のために苦しんでいる。彼らのたましいはあらゆる種類の肉を忌み嫌い、死の門の近くに引き寄せられる。そして彼らはその苦しみの中にあって主に叫んだ、その苦悩から救い出されるために。彼はそのみことばを遣わし、彼らを癒し、彼らをその破滅から救われる。その後彼らは主の誠実さと、人の子らへの素晴らしい働きのためにほめたたえる。『もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」』(ヨブ33章23節−24節)」
次にその家のかしらはそのいけにえを頭の周りで揺らして言います、「これが私の身代わりである。これが私の引き換えとなるものであり、これが私の贖いである。この雄鶏は死に渡され、私は長く幸福な人生、平安へと入るように!」その後、彼はその祈りを三度繰り返し、今ほふられるいけにえの上に手を置きます。
その場所であれ、その方法であれ、律法により認められず、神に権威を与えられていない手によるこの動物のいけにえは、イスラエルの暗く、荒涼とした闇夜を表す悲惨な幻想ではないでしょうか?またこれは奇妙にも、雄鶏が三度鳴き、ペテロに『世の罪を取り除く神の小羊』を否んだ事実を実感させた、もうひとつの夜を思い出させないでしょうか?
そして未だにシナゴーグの嘆きは、過去の不信心と無知の多くの世紀を通して、私たちに届いています。「無実の者を連れてきて、咎ある者のために贖いをさせよ!」この呼び掛けに対して、使徒の出した応答の他は誰も決して答えることはできません。『このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です』!(ヘブル7章26節)』(訳:だいすけ)
(『The Temple : Alfred Edersheim(神殿:アルフレッド・エダーシェイム著 1874年)』p.118-122より)
完全ないけにえであるイエス・キリストを受け入れずに救われることは決してありません。
彼を受け入れた人は何と幸いなことでしょう! (ここで無料で視聴可(英語))
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年04月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]






