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この頃、朝に聖書読む習慣つけてます。
するとすると、とても多くのことを教えられています。 びっくりするほどです。 今まで意味が分からなかった聖書箇所が突然明らかになって
驚いてます。
今日だって、いつも知ってた箇所を見た途端、その意味が明確に分かりました。
この記事では少し前に教えられたことを載せたいと思います。
『わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。』マタイ23:16−22
この箇所です。
みなさんはこれを読んで何を考えますか?
僕は当時の宗教的な偽善者は変なことをしていたんだなぁ、くらいにしか思いませんでした。
ですが、聖書に質問してみたのです。
「なんでこんなことをしたんだろう?」
「今のクリスチャンにとっての意味は?」
そうすると、神さまが教えてくれました。
私たち教会が神殿だと聖書は何度も書いています。
そして祭壇はいつも十字架の象徴です。
なぜなら祭壇は罪を贖うところであり、十字架と”本質が同じ”だからです。
そうするとこの箇所の語ろうとしていることが見えてきます。
これはミドラッシュです。
(以下代入します)
「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、”教会”をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、”教会”の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする”教会”と、どちらがたいせつなのか。また、言う。『だれでも、”十字架”をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、”十字架”の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする”十字架”と、どちらがたいせつなのか。だから、”十字架”をさして誓う者は、”十字架”をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。また、”教会”をさして誓う者は、”教会”をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」
イエスは現代の教会に対しても強烈に語りかけています。
「愚かで、目の見えぬ者たち。黄金(いわば富、お金)と黄金を聖いものにする教会と、どちらが大切なのか?」
「目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする十字架と、どちらがたいせつなのか?」
もうお分かりでしょうか?
聖書は「献金、献金」と教会よりもお金を大事にする教会、
「奉仕、奉仕」と十字架に頼るよりも、”供え物”に頼っている教会に警告を出しています。
ある教会のセミナーでそこの牧師が言っていました。
「献金を頑張らなかったら、あなたたちは一体何を頑張っているのですか?」
「献金で献身の度合いが測られるのです!」
それを聞いていた僕たちは愕然としました。
そこの教会の名前は覚えていませんが、「ガジマ」という黒人説教者を迎えていた教会です(「死人がよみがえった」という話をする人)。
そのような人たちは十字架よりも、その上の供え物、
教会よりもその外側についている黄金に興味があるのです。
悲しいことです。
いつもこう書いていると悲しいことばかり出てきます。
でもとりわけ、そういうことを書こうとしているんではないんですよ。
僕が見る現実に、そのようなことが多すぎるから書かずにはいられないのです。
なにはともあれ、本当に聖書を通しての啓示が溢れています。
ピーター・ダンジーの語ったことばは真実です。
「今啓示を受けている人はさらに受けるようになる」
僕たちは今日、聖書を読んで教えられているでしょうか?
今日、神さまと交わってその麗しさを味わっているでしょうか?
聖書は僕たちが理解するために書かれました。
その内容を悟らずに、ただ声に出して読んでいれば”恵まれる”ものではありません。
僕たちは考える必要があります。
考えることを止めてしまったとき、教会の礼拝はただ「立って、歌って、座って」を繰り返す”宗教”になります。
ただの宗教となっている教会を見分ける秘訣があります。
牧師が信心深さを表すために説教のときだけ声色を変えて、それに信徒が慣れてしまっている教会は「ただの宗教」です。
真理がそこにないために、「信心深さ」を何とかして出さなければいけないからです。
みなさんの教会がそうではないことを願います。
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