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この頃、新しい仕事(といってもアルバイトですが)を始めて、日々ぐったり疲れているだいすけです。 某英会話スクールの営業職として、「営業は数字がすべてだ」と言われ、派遣の仕事も同時にしているので帰りが10時半になることもあり、多くのサラリーマンの気持ちが少しは分かってきました。 彼らが10時頃に酒臭い+汗臭いにおいを放ち、お酒に酔って帰ってくる姿。 その人たちもおそらく断るのが苦手なので、そうなっているんだということも。 そんなことしなくてもよかったら、誰もしませんもんね。 でもそんなことの原因は会社での異常なプレッシャー、プライベートと仕事のかい離があると考えています。 僕自身の仕事に対しての姿勢としては「仕事は家族のためであって、家族は仕事のためじゃない」です。 とはいえ、実社会を少し経験すると仕事は大変だということが分かってきました。 では、聖書は仕事についてどう語っているのでしょうか。 今日は「エルガゾマイ(ergazomai)」というギリシア語をたどって考えてみましょう。 (「エルガ」とは「行い」と訳される言葉です) ●『それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働き(エルガゾマイ)をやめる権利がないのでしょうか。』1コリント9:6 この箇所によるとパウロとバルナバは生活のための働きをやめなかったようです。 そしてこの箇所では忠実な伝道者(耕す者=地→人の心を耕す者)、忠実な教師(脱穀する者=食べやすいように麦を準備する者)はその働きによって生活が支えられる権利があるとしています。 ですがパウロらはそうしませんでした。それは『キリストの福音に少しの妨げも与えまいとして』(12節)の行為でした。僕の身近でも教会の「献金、献金、特別献金」という宣伝につまずいている人がいることを知っています。パウロはそのことを気にして働いていました。そしてそれは生活のための働きです。 ●『奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をする(エルガゾマイ)にも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。』コロサイ3:22−25 近代の奴隷と違って、当時の奴隷がもっぱら「労働者のよう」であったといわれていますが、それを考慮に入れると僕たち労働者と共通する点が多くあると思います。 僕たちは何の仕事をするにも主に対してします。そして、ここがとても励まされたのですが、「主から報いとして、御国を相続させていただく」とあるのです。そうですね、上司がいても人に仕えているのではなく、主キリストに僕たちは仕えています。一方でクリスチャンだからといって何か不正をしても見逃されることは無いよと聖書は警告しています。 ●『兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら(エルガゾマイ)、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。』1テサロニケ2:9 「エルガゾマイ」という単語がとても多く出てくる手紙はテサロニケへの手紙です。 彼らが再臨を待望する超宗教的な人たちであったことを考えるとそれは納得がいきます。「主イエスがすぐ帰ってくるのだから地上のことは問題じゃない。ただ上を見上げて主が帰ってくるのを待っていよう」と思ってしまうのは非常に簡単です。僕もそのような傾向がありました。 そのような人たちに対してパウロは(私たちとあるので少なくともパウロ、シルワノ、テモテは)「昼夜働いた」とあります。昼夜と書かれていて、朝が無いことが興味深いと個人的に思うのですが、使徒であるパウロも働いていました。僕たちと同じようにです。彼は宗教学者や大学の教授のように座って、教えをこう人からお金をもらっていたのではありませんでした。 ●『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい(エルガゾマイ)。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。』1テサロニケ4:11−12 ここから分かるのは、僕たちクリスチャンが働く理由は外の人(未信者)に対しての証と、乏しいことがないためであることです。とても実際的な勧めではないでしょうか。 ●『どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。』2テサロニケ3:7-12 この箇所だけで4回「エルガゾマイ」が登場しています。 ここで重要なのは使徒であるパウロは働かない権利をもっていたにもかかわらず、それをあえて使わなかったということです。僕は何度も人に「なんで神学校に行って牧師にならないの?」と言われたことがありますが、そういうことを言われるとふと「ああ、そうか。職が見つからなくても牧師になれば食っていけるわ」と思い始めてしまいます(もちろんすべての牧師さんがそうでなく、誠実な方もおられると思います)。ですが、この罠はとても巧妙じゃないでしょうか。霊的プライドにつけこんだ罠です。 そしてこの神学校に言ったら教団や教会に養ってもらうというシステムが悪い方向に使われているところは多くあると思います。「牧師の話がやたら眠い」「当たり障りのないことしか言わない」のはその牧師が雇い人になっている証拠であって、真実を語るために教壇に立っていない可能性があります。牧師がみことばを語っているならそれは両刃の剣よりも鋭く、人の魂と霊を刺し通し、人の考えを判別するものです。また説教は現実に世の中で起こっていることを聖書の観点から理解するべきものであると僕は考えます。先日のニュースで米のオバマ大統領が同性婚を支持する発言をしたという記事がありましたが、それは聖書のいう「終わりの時代はロトの時代のようになる」との箇所と合致します。それゆえ本当の信者ならそれに立ち上がって警告・反対すべきです。同性婚が認められると将来は見えています。同性婚をあからさまに禁じているローマ人への手紙1章が「差別文書」と呼ばれ、聖書の公での朗読が禁じられるでしょう。その中で立ち上がる者は妥協した信者たちから反対を受け、外からは迫害を受けるでしょう。 僕たちは今目の前でニュースになっているオバマ大統領の同性婚支持に反対できるでしょうか? 今、反対しなければいつ反対するのでしょう?(別に政治的な贖いを期待していませんが) そして、今妥協してしまうなら、最終的な反キリストが出てきたときにはどうなるでしょう? 牧師のメッセージは現実生活に影響を及ぼすものであるべきです。 今日は「エルガゾマイ」=「仕事」について見ていきました。 土曜日まで苦労して働いているクリスチャンを元気づけれたらなと考えています。 また自分自身への励ましのためにも書いています。 その働きには報いがあり、外の人に対して証ができ、乏しいことがなくなります。 生活のための働きをすることは使徒パウロのライフスタイルでした。 彼に働かない権利がなかったのではありません。福音に妨げを与えたくなかったのです。 アーメン
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2012年05月12日
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