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今日は久しぶりに、思ったことを書いていこうと思います。
テーマは「なぜ聖書から出発しないのでしょう」です。
7年半前にクリスチャンになった者として、聖書からクリスチャンの理想像を取るのが正常なクリスチャンの生き方だと思ってきました。
ですが、クリスチャンと言っている人たちの中でも、他の人を恐れて、嫌われるのを恐れて聖書の語っていることをまっすぐそのまま語らない人たちが残念ながらいます。
もちろん、現実にはどちらでも良いような問題と信仰に揺るがす根本的な問題があります。
たとえばクリスチャンがテレビを見るかどうかは、どちらでも良い問題です(個人的には悪影響が大きいので見ませんが)。
ですが、クリスチャンが偶像(マリア像、イエス像、仏像)を許容しているというのは信仰を揺るがす根本的な問題です。
そして、偶像を拝んでいる人が地獄に行ってしまうというのは、聖書の根本的な教えです。
先日、ある人に問題提起をしただけで大きく批判されました。
http://ameblo.jp/kyokugeidou/entry-11523345171.html
そして、ある人からは「メサコン疑惑入っている」と非難されました。
http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3502
「メサコン」とは何かということをこれを読むまで知りませんでしたが、悪いことを意味していることは読み取れました。
ここで本題に触れますが、なぜ聖書から出発しないのでしょう。
僕が間違ったことを語ったのなら、なぜ聖書箇所を明示して指摘してくれないのでしょうか。
もちろん、僕は100パーセント間違いのない人間ではありません。
間違いがあるなら、信仰の基礎としている聖書から、「聖書はこう言っているじゃないか」と適切な批判をしてほしいのです。
そうしてほしいのに、僕が語ったことを批判する人たちは自分たちの考えを披露するのみです。
問題の本質は、聖書から出発していないことにあるのだと僕は考えます。
「信仰の基礎は何の上に立っているのか」
と問うことは非常に大切ではないでしょうか。
イエス・キリストこそが土台です(1コリント3:11)。そしてヨハネ1:1ではイエスが「ことば」と呼ばれています。イエスこそ、神さまがどんな方であるかを具体的に教えてくださる方です(コロサイ1:15)。
もし私たちが自分の信仰の基礎を人の上や、宗教団体などの上に置くと倒れます。
なぜなら私たちはただの堕落した人にしか過ぎないからです。
ですが、聖書を基礎とすると、その人の信仰は揺るぐことがありません。
今回の騒動(?)を受けて、見て取れたことは、僕を批判する人たちの中に「カトリック教徒」と思われる人が多くいたことです。
そしてその中のある人は「決して像を拝んでいるのではありません。十字架・マリアの像を見ることによってその方を考え・思い出し・祈る」のですと言っています。
しかし、出エジプト32章でイスラエル人が金の子牛を造った時に語ったことをご存じではないようです。
彼らは別の神を造ろうとは言いませんでした。
「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」出エジプト32:4
「あすは主(ヤハウェ)への祭りである」出エジプト32:5
彼らがしていたことは、本当の神であると言って子牛の像を拝んでいたことであり、本当の神(ヤハウェ)を間違った仕方で礼拝していたということです。
後にモーセがとりなしの祈りをした後、偶像礼拝者たちを殺せと言ったことが32章の後半部分に書かれてあります。
もちろん、新約聖書で私たちは恵の下にいるので人を殺すなんてことはしませんが、それでも深刻な問題であることに変わりはありません。
なので、神は偶像を拝む人たちに対して怒っておられます。
「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」ローマ1:18
ここまで読んで来られると、
「なんて過激なんだ」
と思われることかと思います。ですが僕はいつも思いますが、聖書自体「過激な」本です。
もちろん、愛は大事であって、それを言葉だけではなく行いで示すことは必要不可欠です。
ですが、聖書全体が提示している命題は、唯一なる神に従えということです。
聖書を開いてみましょう。
最初の節は「初めに、神が天と地を創造した」創世記1:1
とあって、ここでもうすでに
「神がいる」
「神は創造主=創造主以外は神ではない」
と少なくともこの2点が前提となっています。
真理は排他的なものです。何かが正しければ、その反対は間違ったものです。
ある時子供たちとアンパンマンのパズルで遊んでいると、ある子が言いました。
「このアンパンマンのキャラクター全部好き」
ですが、僕は言いました。
「アンパンマンが好きって言ったら、バイキンマンが怒っちゃうよ」
正義と悪がある限り、その両者は相いれません。
そのために聖書の最後(黙示録)の部分にはこうあります。
「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい」黙示録22:11
最初の頃、なぜ聖書がこう語っているか分かりませんでした。
ですが、聖書を読んで教えられるにつれて分かってきました。
神さまは正しい者と悪い者を分離しようとされています。
そして主の日にその分離がはっきりとなされます。
ともあれ本筋に戻ると、
聖書から出発しなければ、多くの惑わしが待っていると思います。
リベラルなクリスチャンが存在するのは、家族のつながりか何かで人が「キリスト教文化」から離れられないためです。
カトリックは聖書+聖伝を強調しますが、聖伝は人の作り出した考えにすぎないために、(たとえば聖職者の独身制は)ぼろが出てきて、聖職者の幼児性的虐待という形に行きつきます。
どちらもが「人」から出発してしまう点が共通しています。
聖書は全く正しく、信頼に値すべき書物です。何よりも人の手によって書かれた神の言葉です。
聖書を読みましょう。神さまから聞きましょう。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」1ペテロ1:24-25
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