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みなさん、お久しぶりです。だいすけです。
最近は仕事が忙しく、次の日曜日に1カ月ぶりくらいに教会に行けるような状態です。
やはり忙しくしすぎていると、聖書のことや、自分の霊的な状態に気付かなくなってしまうなと思いました。
今回は、「キリストのからだ」と「キリスト教界」というテーマで書いていきます。
この中で自分の気付いたことを分かち合えればと思います。
●生い立ち
僕は日本の一般的な(無宗教、葬式仏教、ときどき神社参拝)の家で生まれたため、キリスト教とは全く縁がありませんでした。そして色々な出会いから大学生の時クリスチャンとなり、クリスチャンサークルに入って、「クリスチャンホーム」で育った人がいるという事実に直面しました。それまでは自分がそうでなかったために、そのような環境で育ったらどうなるのかということさえも初めは理解できませんでしたが、クリスチャンホームの友達はとても素晴らしい人たちで、確実に「聖さ」という面では聖書の語る通り、優れている人たちでした。
●ノンクリスチャンホームとクリスチャンホーム
その友達と接する中で、クリスチャンになった経緯を僕が話していると、よく聞いた言葉「僕(私)はクリスチャンホームで育ったから立派な証がなくて」というものでした。確かに、一度罪にまみれて、そこから劇的な展開を通して出てこなかったら「すごい証」ではないと思うかもしれません。ですが、今言えるのは子供の頃から聖書に親しみ、大学のころまで信仰を失わずに来ているということだけで素晴らしいことなのです。自分の子育てを考えてみても、(できれば)罪にまみれることなしに信仰をもって成長していってほしいというのが親心です。
それはそうと、僕はその時期にクリスチャンホームの人たちと、後からクリスチャンになったノンクリスチャンホームの人たちの違いを見つけたように思います。どちらも良い点があり、どちらも悪い点があるのは自然です。ノンクリスチャンホームの人たちはエジプトを出たイスラエル第一世代のような人たちです。自分で決断してエジプトを脱出し、モーセの素晴らしい奇跡を目撃しました。一方、クリスチャンホームの人たちは途中の荒野で生まれたイスラエル第二世代のようです。ヤハウェに仕えるのが当然で、エジプトの汚れを見たことのない人たちです。
●ノンクリスチャンホーム出身信者の良い点・悪い点
まずノンクリスチャンホーム出身のクリスチャンたちの良い点を挙げると、ひとつ目は「熱心であること」のように思います。自分がひどい悪や罪から救われたことを確信しているので、同じ悪や罪にまみれている人たちに同じ救いを経験してほしいと思うからです。人生で劇的な変化を経験したからこそ、その語る言葉に力があり、「ひとりでも多く救われてほしい」と思います。
逆に悪い点を挙げると、熱心なのはいいのですが、やり方が強引であるということが自分を振り返ってみてもあると思います。またエジプト(この世)に長らく浸っていたために、この世の悪い習慣から手を引くのが難しいのがノンクリスチャンホーム出身者の特徴です。生活習慣でもそうですし、性的なことにおいてもそうです。
ひとつ例を挙げると、この頃ネットの動画で「男性がデート中に他の女の人を見てしまうのはなぜなのか」というものがありました。その中である芸人が「科学的に男はより多くの子孫を残そうとしているから」と自論を展開していました。クリスチャンホームのみなさん、ノンクリスチャンの家庭はこのようなテレビを毎日見て、そう考えているんですよ。驚くべきことではないですか。もちろん、男性がデート中にでも他の女の人を見てしまうのは罪のためです。そして、当然人は猿から進化してきたものでもなく、生きる一番の目的が「子孫繁栄」でもありません。僕たちは動物ではないからです。
ここでクリスチャンホームの皆さんに理解してもらいたいと思ったのは、ノンクリスチャンホーム出身の信者はこのような影響から心理的に、また習慣的に離れるのに長い時間がかかるということです。このために新約聖書では異邦人信者に対して、次のような戒めがあります。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、」(1テサロニケ4:3−5)
●クリスチャンホーム出身信者の良い点・悪い点
まず良い点は先にあげたように「聖さ」です。次の聖句にあるようにです。
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです」(1コリント7:14)
そして次はただ個人的な感想ですが、「やさしい」ということだといえると思います。
一方、あえて悪い点を挙げるなら、ひとつ目は「優しすぎる」ということがいえると思います。ロゴスミニストリーの明石さんも書いていましたが(http://www.logos-ministries.org/blog/?p=5310)、他の教会の牧師さんに会うと言葉遣いやいろいろなものが「優しすぎて」、この人は本当に本音で語っているのか?という疑問が沸いてくるというのが率直な感想でした。何が良いたいかというと、表面上の優しさで無理をしているのではないかということです。ずっとその優しさを継続できればいいのでしょうが、奉仕が終わった後に裏で愚痴になっていないかというのが心配になってきます。
そしてもうひとつ「長らくキリスト教界に浸っているために、常識が無くなってくる」という状態が見受けられると思います。特に世俗の職場で働いていなければなおさらです。次の箇所にこうある通りです。
「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので」(ルカ16:8)
自分自身にあった間違いを思い出してみると、僕は大学生のはじめにクリスチャンになり、しばらくの間ちゃんと勉強をしませんでした。なぜかというと、クリスチャンになる前は自分の力だけを信じて勉強でも何事でもしていたけれども、それで良いのかという疑問が沸き上がり、「神さまに頼っていたら勉強しなくても上手くいくんじゃないか」と誤解してしまっていたからです。これは明らかに間違いで、未信者の努力に対して神さまが報いているなら、なおさら信者は努力をしないと報われることはないと僕は知るべきでした。
これと同じことがキリスト教界に浸っていると知らぬ間に起こってくることがあります。具体的にいえば「キリスト教界の大御所を優遇するようになる」や「奉仕でどうやって生計を立てていこうか心配するようになる」ということが挙げられます。前者を行ってしまうと聖書の教理をないがしろにし、人の数に目が向き、そして結局は世界で莫大な信者を抱えている「教皇のシステム」に目が自然と向いていきます。そしてエキュメニカルとなるのです。後者に行ってしまうと、聖書が語る「知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たち」(1テモテ6:5)となってしまいます。
特に牧師(指導者)とお金については、聖書の多くの箇所が警告を発しています。
「監督はこういう人でなければなりません…金銭に無欲で」(1テモテ3:2−3)
「執事もまたこういう人でなければなりません。…不正な利をむさぼらず」(1テモテ3:8)
「監督は神の家の管理者として…不正な利を求めず」(テトス1:7)
●キリスト教界の大御所
日本でも幾人かキリスト教界の大御所といわれている人がいると思います。ですが、ノンクリスチャンホーム出身信者からすると「どうでもいい話」です。教会や集会場の外を出ればただのおじさんやおばちゃんです。僕自身もただのアラサーの(もうすぐ)おじさんです。なので僕たちが注目すべきなのは、「大御所や何か」ではなく、どれだけ未信者に福音が語れているかではないでしょうか。キリスト教界で有名になるのは比較的簡単かもしれません。ですが、神さまはそれを評価しているのでしょうか。
●奉仕で生計を立てる
これは1コリント9章でパウロが肯定していることでもあります。ですがパウロの結論は何かというと、「私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです」(1コリント9:12)ということでした。他の使徒で献金をもらい生活していた者たちもいたことでしょう。ですが、神さまは模範としてパウロを選び、パウロを用いました。
この「キリストの福音の妨げ」という言葉は、分かりやすいことばだと思います。実感として、献金だけで生活していると聞くとふと皆の頭に浮かぶことといえば「楽してるな」ということだと思います。もちろん、全員が全員そうではないと思いますが、「あっこの人楽するために献金で生活してるな」と一度でも思われてしまうとそれは「キリストの福音の妨げ」となる可能性があります。特に「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするため」(1テサロニケ4:12)とあるように、未信者の人たちは頑張って働いて生活を成り立たせているため、「献金で生活している」となると「えっ」となります。僕の教会の牧師は自営の仕事をしているのでその点で尊敬できました。
これまで出会ったクリスチャンの中で「この人は本当の奉仕者だ。献金で生活していても説得力がある」と思った人が三人います。ひとりはオーストラリア人宣教師のマイケルという人、もうひとりはアメリカ人宣教師のミッチという人、そしてジェイコブです。最初の二人はフィリピンにいるのですが、ミッチはyoutubeで伝道している動画(https://www.youtube.com/user/gomitch2)を見てから尊敬し、実際にマニラで一緒に路傍伝道をしましたが、伝道のために全エネルギーを使っている人だなと実感しました(現地のタガログ語で彼は説教ができます)。ジェイコブは説教をする時もメモも何も無しで、聖書箇所を覚え、アウトラインも頭に入れて、それでいて日本なら日本での適用も考えて、聖書を教えています。その努力は膨大だと思います。このような人たちは献金をもらって生活していても納得できます。
●結論
ノンクリスチャンホーム出身信者と、クリスチャンホーム出身信者どちらもがキリストの体に必要です。ノンクリスチャンホーム出身信者はきよくなる必要があるし、クリスチャンホーム出身信者は伝道熱心になる必要があります。どちらもお互いから学ばなければならないことが沢山あると思います。
そしてキリストの体とキリスト教界は少し違うように思います。リベラルな信者たちはキリスト教界に入っていても、キリストの体の一部ではないと思います。それはみことばの根本を否定しているからです。
ですがその一方で、自分たちと違うからといってキリストの体を全部退けてしまうことも良くありません。バプテスト派教会でも、ペンテコステ派教会でも、改革派教会でも多くの救われている信者がいます。深いところまで立ち入った教理で賛成できなくても、根本的なイエスの十字架・復活・再臨に賛成できれば彼らもキリストの体です。
キリスト教界に入る必要はありません(キリストの名を使ったにせ宗教や商売)。ですが僕たちがどこに住んでいてもキリストの体につながっている必要があります。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」(1ヨハネ5:1)
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2014年06月21日
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