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以前から、存在自体は知っていましたが、最近オメガバイブルスタディーのパンフレットを手に取りました。
スティーブンス栄子さんという方が、黙示録を教えているということは知っていましたが、
どんな内容を教えているのか、具体的なことは知りませんでした。
今回はそのオメガバイブルスタディーについて書いていきます。
オメガバイブルスタディーさんのニュースレターの今回のテーマは
「キリストの花嫁」でした。そして興味深いユダヤ人の婚礼のしきたりが書かれていました。
それ自体に特に異論はありません。
ですが、次のように書いてあったので、驚きました。
(以下『オメガバイブルスタディー ニュースレター 2014年1月号』より)
「婚礼
「御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った(黙示19:9)」と記されています。婚姻と婚宴は別です。
キリストと教会の婚宴は地上で行われます。婚姻は天国で行われ、その後、キリストはご再臨されます。その時、「……すべての聖徒たちも主とともに来る(ゼカリヤ14:5)」と書かれていますから、花嫁は主と共に地上に到来します。
またこの時、大戦争がありますが、聖徒たちは戦いません。
(省略)
これらの戦いが終わり、神殿と土地の清めが終わると、第一の復活があります。旧約の聖徒たち(ダニエル12:2)や、患難時代の聖徒たち(20:4)の復活があります、これは地上で起こる第一の復活で、教会の携挙とは時間も場所も違います。
(省略)
「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」と言っているのは、メシア王国(千年王国)に到達した者すべてが招かれるのではなく、花婿の友人が招かれるのです。それは第一の復活にあずかっている、旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たちです。」
文意からは、第一の復活にあずかるのは「旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たち」だけと読み取れます。
とすれば、大きな問題があります。
●新約時代の異邦人クリスチャンは第一の復活ではよみがえらない
現代に生きる日本人クリスチャンの皆さん、この教えによると第一の復活にあずかれないのですよ!
この教えは正しいのでしょうか?
それではここからは主に黙示録20章のからどのような人が、千年王国に入るかを見てみましょう。
「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな(makarios)者、聖なる(hagios)者である。この人々に対しては、第二の死(ho thanatos ho deuteros)は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司(hiereus)となり、キリストとともに、千年の間王となる(basileuo)。」黙示録20:1−6
ここに第一の復活にあずかり、千年王国に入る人たちについてヒントが与えられています。
その前に、このニュースレターの背後にあるのは、ディスペンセーション主義で、「ユダヤ人たちだけが患難時代を通るという」前提のもと書かれていることが分かります。
さて、オメガバイブルスタディーの教えでは、第一の復活にあずかるのが「旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たち」だとありますが、彼らだけでなく、新約の私たち異邦人クリスチャンも当然あずかります。それでは説明します。
●幸いな(makarios)
この言葉、マカリオスという言葉は有名な箇所で使われています。
○「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
○悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
○柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
○義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
○あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(マタイ5:3−7)
もうここまで来るとお気づきだと思いますが、これは山上の説教です。
ギリシア語では冒頭部分がいつも「マカリオイ ホイ」で始まります。
マカリオイはマカリオスの複数形です。ホイは定冠詞「ホ」の複数形です。
どなたか山上の説教は「ユダヤ人だけに対してものだ」と考える人はいますか??
マカリオスが使われている次の箇所はより明白です。
○ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」それでは、この幸い(makarismos)は、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。(ローマ4:6−9a)
もちろん、この答えは「この幸いは割礼をうけた者(ユダヤ人)だけに与えられるのではない」です。
異邦人信者も信仰によってユダヤ人と同じように義と認められます。
●聖なる(hagios)
この言葉は以前にも検証しましたが、この言葉は「聖徒」と同じで、ローマにいるクリスチャンにも、コリントにいるクリスチャンにも、エペソにいるクリスチャンにも、ピリピにいるクリスチャンにも、コロサイにいるクリスチャンにも、ヘブル人のクリスチャンに対しても使われています。
もちろん、異邦人クリスチャンをも含んでいる単語です。
●第二の死(ho thanatos ho deuteros)
本文には「この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない」とあります。ということは、第一の復活にあずからなかった人には第二の死が力を持っているということになります。ごくシンプルな論理です。
この同じ「第二の死」という言葉が次の二箇所で使われています。
○「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:11−15)
○「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」(黙示録21:8)
この箇所で分かることは、第二の死を受ける者はいのちの書に名が記されておらず、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者などであるということです。
とすると、第一の復活にあずからなければ助からない、言いかえると第二の死を受ければ助からないことが明らかではないでしょうか。そのため第一の復活にあずからない人は永遠に滅びます。
●祭司(hiereus)
ヒエルースと読みますが、第一の復活にあずかる者は千年王国で「祭司となった」とこの箇所にはあります。
それではここで質問ですが、千年王国で祭司となるのはユダヤ人だけなのでしょうか?
「それはそうだろう」「そうかもしれない」と思われた方は次の箇所をしっかり確認してください。
○彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9−10)
もちろん、この箇所の文脈はほふられた小羊、イエス・キリストについてです。
よく見てください、あらゆる部族、国語、民族、国民とあるではありませんか!
それゆえ、第一の復活にあずかり、千年王国において王・祭司となるのはユダヤ人信者だけでなく、異邦人信者も含まれていることが明確に分かります。
結論
以前、黙示録20章の千年王国の箇所を読んだ時に、僕も
「第一の復活にあずかるには、殉教するか、獣のしるしを拒む必要があるんだ」と思っていました。
ですが、それは究極的な信仰の証拠であって、すべての救われた信者を含んでいるのは当然です。
またもうひとつの問題は、
「大艱難時代を通り、獣の刻印に出会うのはユダヤ人信者だけだ」という教えです。
先に黙示録5章で、千年王国にて王となり祭司となるのはあらゆる人種の人たちだと見ました。
その同じ人たちに関して黙示録20章では、「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(黙示録20:4)と定義があります。それゆえ、ユダヤ人信者だけでなく、私たち異邦人信者も獣の刻印を目の当たりにするということが分かります。
僕は決して獣の刻印を見たい、患難を経験したいわけではありません。全くその反対です。
ですが、「来るべきものに自分たちは関係が無い」という教えがあるから心配なのです。
私たちはイスラエルに接ぎ木され、アブラハムの子となり、同じ第一の復活を味わいます。そして第二の死を逃れます。私たちも婚宴に招かれているのです。
終末論では、携挙のタイミングなど、細かな点について多くの意見の違いがあるでしょう。
ですが、「第一の復活」にあずかるのは「旧約の聖徒たちと患難時代の聖徒たち」だけというように表現するのはよくありません。あたかも僕たちが第一の復活にあずかれないようにです。
聖書解釈法に関していえば、多くのクリスチャンが同じことを語っている「関連個所(並行箇所)」に注目することなく、二つ、三つの箇所から神学を作り出してしまっています。「みことばのすべてはまことです」とあるように(詩篇119:160)、みことばの総体が真理です。
黙示録20:1−6の本文の解釈に関して、「間違っている」と思われる方はコメント欄にお書き下さい。
その際は、理由と根拠を(できればギリシア語本文から)示してください。
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