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みなさん、お久しぶりです。
今日は、教会で毎週読んでいる聖書通読から教えられたことがあったので、分かち合ってみたいと思います。
箇所は第一テサロニケ5章です。
特に1節と2節、
『兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。』1テサロニケ5:1−2
ここでひとつの問いが出てきます。
Q. なぜテサロニケの人たちは主の日がいつか、またはどういう時かについて書いてもらう必要がなかったのだろうか?
まず始めに、「主の日」とは詳しくは2テサロニケ2章にありますが、「主が再び来られること(parousia)」と「私たちが主のみもとに集められること(episunagoge)」です。
さて、テサロニケの人たちが終末論に特に詳しかったから、もう主の日の時を知っていて、そのために「書いてもらう必要がない」とあるのでしょうか。
僕はそうであるとは思いません。そうではなく2節を見ると、彼らは主の日が夜の盗人のようにやってくると「よく」知っていたとあります。
それは学校での抜き打ちテストに例えることができます。
良い生徒はいつも勉強し、先生に言われなくても自主的に勉強し、いきなり抜き打ちテストをされても、驚きはするけれども準備していたためにテストに合格できます。
一方、悪い生徒は勉強は全くせず、先生に言われないと自分から勉強せず、してもいやいやで、そのような状況の中、抜き打ちテストが来るとひどく驚き、もちろんテストに合格することができません。
テサロニケの人たちはこのうち良い生徒のようでした。
3節に「それを逃れることはできません」とあるように、すべての人に主の日は臨みます。それは誰も逃れることのできない死のようです。誰も自分の死の時がいつかは分かりません。
イエスさまが言われたように、私たちは「その日、その時」を知りません(マタイ25:13)。ですが、主の日に自分を備えておくことはできます。そしてイエスさまが最初に来られた時に用意が出来ていた者たちのようになることができます。
その意味で、聖書中で最初の「抜き打ちテスト」は創世記3章のアダムとエバに対するものだったのではないでしょうか。
『そよ風(ruach)の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』創世記3:8−9
アダムとエバはいきなり来られた神に驚き、身を隠しました。あたかも黙示録で書かれているようにです。『地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」』黙示録6:15−17
そして僕たちが罪を犯す時にも同じことが起きます。そよ風と訳されている言葉はruach、聖霊とも訳される言葉です。そして主の声があります。罪を犯すと聖霊により、良心が咎められ、主の声が僕たちをいさめます。そこで、主の前に自分の罪をさらけ出せるかどうかが分かれ道なりますが、アダムたちは木の間に身を隠しました。
僕たちはどうでしょうか。主にいつ会っても良いように備えができているでしょうか。
主の日がいつ来るかは誰にもわかりません。
『神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。』(1テサロニケ5:9)
次回、ブログ記事を書くことがあれば、主の日が来る前に「不法の人、滅びの子が現れる」とある意味について、第二テサロニケ2章から書きたいと思います。
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2016年03月27日
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