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みなさん、こんにちは。だいすけです。
今回は、教会で少しシェアさせてもらった「主の日」について書いていきます。聖書箇所は第二テサロニケ2章です。
まず、第二テサロニケにはこうあります。
『さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること(parousia)と、私たちが主のみもとに集められること(episunagoge)に関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。』2テサロニケ2:1-2
最初に分かることは、テサロニケの、また新約聖書の時代の信者にとって主の日というのは「主イエス・キリストが再び来られること(parousia)」と「主のみもとに集められること(episunagoge)」だということです。すなわちこの世からの救いです。
その次の節にはこうあります。
『だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子(ho huios tes apoleias)が現われなければ、主の日は来ないからです。』2テサロニケ2:3
ここから分かることは、不法の人(=反キリスト)が現れるまでは、再び来られること(再臨)と主のみもとに集められること(携挙)が起きないということです。
ですが、不法の人とは実際どのような人のことなのでしょうか。その言葉自体は、「ルール(や律法)が無い」という意味です。その人のもうひとつの呼び名は、滅びの子(ho huios tes apoleias)です。実はこの全く同じ言葉がヨハネ17章12節に出てきます。
『わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子(ho huios tes apoleias)が滅びました。それは、聖書が成就するためです。』ヨハネ17:12
この文脈を知っている方は、この箇所での滅びの子が誰を指しているかご存じだと思います。
そう、イスカリオテのユダです。
2テサロニケ2章で同じギリシャ語が使われていることを考えると、終わりに現れる反キリストはイスカリオテのユダの性質を持っていることが分かります。
そしてその順序は ユダの裏切り → イエスの十字架
となること、また
これと同じで主の日も 反キリストの出現 → 主の日
となることが分かります。
この対比を見ると主の日とイエスの十字架が関連していることが分かります。
次の表を見てみてください。
この対照表を見ると、旧約聖書の主の日の記述が(部分的で、全体的ではありませんが)主イエスの十字架で成就したことが分かります。
私たちは自分が犯した罪のために罰せられるべきでしたが、イエスがその罪を十字架上で負われました。そのために救われることができます。
また言いかえると、主の日は神の怒りの日です。
私たち、クリスチャンは主の日を経験するのでしょうか?
主の日の怒りがイエスの十字架に注がれたことが分かると、僕たちがその主の日を経験することがないことが分かるでしょう。
私たちは患難(サタンの怒り)を経験しますが、主の日(主の怒り)を経験することはありません。
では、ここでこの記事の最初に載せた図、三つの山の絵について説明します。
(元のアイデアは故高木実さんの本からです)
聖書の預言はパターンで、複数の成就があり、最終的な成就で人間の歴史は完結します。主の日に関してもそうです。
上の対照表で触れたイザヤ13章は、第一の、文字通りの文脈はバビロン捕囚についてです。ですが、預言者はバビロン捕囚について預言しながらも、イエスさまの第一の到来、第二の到来に成就することまで語っています。
つまり、三重の未来を見ています。
僕たちはひとつの預言に、ひとつの成就と思いがちですが、そう見ていると聖書の大部分が意味を成しません。そしてその結果は、旧約聖書から考えず、黙示録の終末の箇所だけを考えて、あれこれ考えてしまうということです。黙示録は主に旧約聖書の引用または暗示から出来ていて、氷山の一角のようなものです。表面に出てきている最終的な成就の下の水中には、膨大な過去のパターンが隠されています。僕たちはその表面、最終的な成就だけを見て何か結論を下すべきではありません。
そして付け加えとしてですが、三重の未来を見ているといっても、個々の成就に細かい違いはもちろん、あります。
例えばイエスさまの第一の到来と、第二の到来(再臨)です。
多くの旧約聖書の箇所でふたつの到来がおなじように書かれています。しかし新約聖書はメシアが二度到来すると明らかにしました。
そのひとつが次の箇所です。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』ヘブル9:28
結論として、僕たちが覚えておくべき二つの点があると思います。
ひとつは、イエス・キリストが私たちのために「主の日」を経験されたということです。私たちが自分の犯した罪のために罰されるべきだったのに、イエスが罰せられました。神の燃える怒りを身に負って、私たちがしたことの結果が十字架上に注がれました。僕たちは何と罪深いことでしょう。何度同じ失敗を犯してしまうのでしょう。自分がしたように自分にもされるなら、僕たちはまともに生きていくことができません。
ですが、憐れみ深い神は、自分たちがしたようにされることを多くの場合許されていません。何とイエスの十字架は僕たちにとって恵みであることでしょう。
二つ目は、イエスの十字架を受け入れなければ主の日を経験しなければならないということです。イザヤ13章、ヨエル書、オバデヤ書、ゼパニヤ書を読めば主の日は恐ろしい日だと分かります。
イエスを信じている者にとっては主の日は喜ばしいイエスの到来であり、主と共にいることになる携挙です。
ですが、イエスを信じていない者にとって主の日は厳しい清算の日であり、自分が人にしたことはそのまま自分に返ってくる怒りの日です。
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2016年04月18日
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