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みなさん、こんにちは。
今回は、日曜日に聖書の通読箇所の時間に教会で分かち合った内容を書きたいと思います。
その前に、最近僕たち家族はみな嘔吐と下痢をともなう急性胃腸炎にかかっていました。初めに長男がかかり、その世話をしているうちに僕たち父親、母親に移り、とても大変でした(幸いもう回復しました)。
何か悪い物食べたかなぁと考えてみると、スーパーで売っている「手作りハンバーグ」が思い当りました。やっぱり加熱されていない肉、または冷凍されていない肉を置いておくのは駄目なんですね。今日の話はこれにも関連しています。
最近は、教会で黙示録を通読していっているのですが、今回の箇所は黙示録3章14節から22節のラオデキヤ教会の箇所でした。
特に学ばされたのが、3章15節−16節からです。
『また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たく(プスホロス)もなく、熱く(ゼストス)もない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』黙示録3:14−16
冷たい、熱い、またなまぬるいとはもちろん、信者の信仰を語っています。そして、その原語(またはそれに関連した言葉)が登場するところはこの箇所と同じ文脈を持っていることが多々あります。
まず熱い(ゼストス=形容詞)から見てみると、その派生語「ゼオー」(動詞)という言葉が使徒18章25節に登場します。
『この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて(ゼオー)、イエスのことを正確に語り』
この人というのは主の教えを受け、弁証論に優れていた弟子アポロのことです。
信仰が「熱い」人はアポロのように大胆にイエスを証できます。
それに対して、「冷たい」とはどのようなことなのでしょうか。
「プスホロス」の派生語「プスホス」という言葉がヨハネの福音書18章18節に登場します。
『寒かった(プスホス)ので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。』
もちろんこの箇所はイエスさまが捕らえられた箇所で、「気温が寒かった」という意味ですが、それ以上に信仰が「寒かった」または「冷たかった」人のことを語っています。それは誰でしょう?
この前の節を見ると分かります。
「すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。」(使徒18:17)
もちろん、イエスさまを否定してしまったペテロです!
ペテロはイエスさまとの関係を三度否定してしまうほど、信仰が冷たくなっていました。そして、信仰が冷たくなったペテロは最後どうなったでしょうか。
「しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:60−62)
そうです、激しく泣きました!信仰が冷たくなってしまっている人は、自分が冷たいという自覚があります。
ですが、なまぬるい信仰の人はどうでしょう?
「うーん、信者の家で生れた二世で、信じているんですけど…(何もしていない)」や、キリスト教の文化の中で生れて何となく「キリスト教信者」と答える人によくあると思いますが、自分がまず何を信じているのか、どのくらい信じているのか、どれくらい従っているのかが分かりません。要するにどれくらいなまぬるいのかが分からないのです!
僕は名ばかりの仏教の家で生れ、育ちましたが同じことでした。まず自分が仏様の前で手を合わせてはいるけれども何を信じているのか、仏教が何を教えているのか、どう従ったら良いのか何も知りませんでした!本当に熱心な仏教徒さんがいれば、「なまぬるい」仏教徒と呼ばれていたことでしょう。
熱い信仰を持つ人は当然自分で自覚があります。そして神やキリストをあからさまに否定する冷たい信仰を持つ人も同じく自覚があります。ですが、なまぬるい信仰を持つ人には(適度に信仰を持っているように感じるため)自覚症状がありません。
これが一番恐い状態です。なぜならそのままではキリストの言われる通り、キリストの体からいつか吐き出されてしまうからです。嘔吐をする時(汚い話ですが)、自分では嘔吐をしたくないと思っていても急に嘔吐の感覚が来て、吐いてしまいます。キリストの体も同じです。キリストが信者を手放したくないと思っていても、時が来てしまうとなまぬるい信者たちはキリストの体からバビロン捕囚やアッシリア捕囚、ローマによる侵攻のように吐き出されてしまいます。
キリストはそのような結末を望んでいる訳ではありません。
キリストが望まれているのはその逆です。
『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(黙示録3:20)
吐き出されるどころか、一緒に食事をし、交わりを保たれること、それがキリストの御心です。
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2016年12月05日
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