だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

日記

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みなさん、お久しぶりです。だいすけです。
最近は去年の関西で起きた大きな台風の時にパソコンがダウンしたのもあって、何も投稿できない状況になっていました。
またそれとともに、インターネットやブログを用いて何を伝えていくのかについても、疑問や方向性の不透明さがあり、また仕事、家族生活で忙しいのもあり、投稿していませんでした。

そうこうしていると、2019年12月にヤフーブログが終了すると書いているではあるじゃないですか!

まあ、終了してもそれほどこだわりも無いので良いのですが、思い出してみると僕がクリスチャンになってから、(大変未熟ながらも)長い間、いろいろな話題を書き、それを通して色々な実際の出会いがあったなあと思います。

最初、今からおよそ12年前にブログを書き始めた動機はクリスチャンになって、神さまのことをたくさん伝えたいというものでした。

それからモリエルの翻訳をするようになり、キリスト教界の中にある偽りや間違いに多く気付いてきました。それはそれで事実なのですが、多くの時、そうした間違った教え陥ってしまった人たちがそれからどう正しい教えや信仰生活立ち返るかという視点が自分には欠けていたかなあと今になって思わされます。

現在は教会にフィンランドからの宣教師たちが不思議なつながりで来て、共に祈るなかで、聖霊のちからを生活の中に求めることの重要性に気づかされてきました。
彼らは本当に熱心に神さまに祈って、本当に神さまが働いて下さるように祈っています。

聖書には穀物のささげ物をささげるときには、小麦粉と油を混ぜるようにと書かれていますが、み言葉の真理と聖霊の力が合わさってはじめて神さまに何かをささげることができるのは事実です。

その聖霊の臨在のもとに聖書の真理を説くということが欠けていたのじゃないかなあと思っています。

そしてその聖霊の臨在や力は実際に顔と顔を合わせてでないと伝わるみのではないと僕は考えています。

もちろん現代はインターネットが普及し、このようなブログやスカイプで礼拝ができたりしますが、それらは実際の交わりに勝るもにでは決してありません。

そのような理由からも、(もちろんネットでの配信良い面はありますが)ブログが終わってしまっても良いと思っています。

これからは人と実際に出会い神さまの賜物を分かち合いながら、いろいろ教わっていこうかなと思っています。

お近くにお住まいの方は教会でお会いできたら嬉しい限りです。

アドラム福音教会


最後になるとは思いますが、これまでありがとございました。

だいすけ

1月9日の路傍伝道

当日は休みだったので、フィンランドからの宣教師トミーとマリアまたリクと路傍伝道に行ってきました。
三人はとても宣教する心意気が強くあり、一緒にトラクトを配っているととても励まされます。
では、当日会った人たちの中で興味深い会話が出来た人たちを取り上げていきます。
 
 
神社で買った木の枝(玉串)を持っているおじさん
 
当日は19日ということもあり、近くのえびす神社(お金の神をまつる)では、木の枝を売っており、その木の枝(玉串というらしいですが)を持った人がたくさんいました。
その中で、玉串を持っているおじさんにトラクトを持って話しかけました。
「よかったら、これ読んでみませんか」
と言うと、返ってきた答えは神社からの玉串を持ちながら
「ああ、うちは無宗教だから、いいよ」
という答えでした。それですかさず
「いやでもそれを持ってるじゃないですか。何かの御利益があるから買っているんじゃないですか」
と聞くと、
「いや、これは商売のためだけだし」
という答えが返ってきました。
それで会話は終わったのですが、よくよく後で考えてみるとやっぱりその人が矛盾していることに気付きました。
それは宗教的な行為(玉串を買って、それを飾ること)をしているのに、自分が無宗教だと思っているからです。
そしてもし玉串が「宗教的」でないなら、ただの木の枝を何円かで買って商売的に何も利益にはなっていないからです。もちろん、そういうようには捉えていず、その玉串に何らかの宗教的、超自然的な力があるからその付加価値を、伝統に従っているかして買っているのでしょう。
僕もかつては同じようなことをしていましたが、誰かが来て、自分の今行っている宗教的伝統より優れたもの、真理があるということを人に伝えなければならないということを学びました。
 
 
「霊感が強い」2人
新大阪でリクの乗る新幹線を待っている間、少しでも伝道しようということになり、駅の近くで待っている人たちにトラクトを配っていきました。
その中でリクの話しかけた2人の人がいて、その人たちが特に変わっていました。
(フィンランドの宣教師たちが日本語がまだ伝わらないところがあるので)、僕が通訳に呼ばれていくと、2人の人(お年を召した方と、若い男性)がいて、何か熱心に話し合っていました。
僕も話しの輪に入ると、その2人は自分たちが「とても霊感の強い人たち」と言っていることが分かってきました。
そしてリクに何か悪霊か何かがついているというのです!
もちろん、僕たちはクリスチャンで信者に悪霊がつくということを信じませんが、僕は彼らが何を語っているのか知ろうと思い、話しを聞きました。
するとその人たちは、この世界には1万の神々がいて、日本には日本を統治する神、アメリカにはアメリカを統治する神、それぞれの国に神々がいるというのです。
そして、僕は
「その神々はどうやって生まれたのですか」
と聞くと、「人が生み出した」と言うではありませんか!
そう聞いて思ったのは、じゃあ人の下に神々がいるということ?でした。
そして「じゃあ、人の下に神々がいるということですか?」
と聞くとそうだと言っていました。
そこでこの質問を聞きました。
「じゃあ、人はどこから来たのですか」
そう聞くと、その人は「そんな難しいことは分からないけれど」と言っていました。
そして色々話しを聞きましたが、最終的に分かったことは聖書に基づいて考えると、その人たちは聖書が悪霊と呼ぶものを崇め、その声に聞き入り、とても危険な状態にいるということでした。
 
 
まとめ
トラクトを配っていると受け取っても、「聖書の話です」というと「結構です」という人が大勢います。そして「うちは無宗教だから」とか「宗教はちょっと」と人は言います。ですが当日もいましたが、お金の神さま(えびす)を崇めながら無宗教、先祖の霊を崇めながら無宗教と言う人たちがいます。
「宗教的でない」と言いながら、「宗教的」であるのが日本人だと思います。
このような現状があることは認めなければなりませんが、それでは真理に行きつくことができません。
聖書は始まりと終わりとはっきりと記しています。全ての始まりと終わりをはっきりと教えてくれるのが聖書です。
当日、「先祖さまを拝んでいるが、無宗教」という人に聞いた質問は、「先祖さまをずっとたどっていったらどこに行きつくのですか」というものでした。
純粋に進化論を信じているならアメーバや地球の岩石と言わざるをえません。またそれを否定すると何かの「宗教的な存在」に頼らざるをえません。
聖書は神がすべてを始め、すべてを終わらせると書いています。創造主であるためにすべての物事の終わりを知っています。まずすべて生きるもの、存在するものの始まり、僕たちの終わりがどうなるかを考えましょう。そして真理を求めれば、必ず神さまは私たちにご自身をあらわされます。
 

近況報告

みなさん、こんにちは。お久しぶりです。
 
この頃学んだこと、近況報告をしたいと思います。
 
■子育てとしつけ
 
子供が二人になって、もう下の子も1歳と7カ月になりました。(上の子は3歳)
日々の子育てで、妻と共にしつけのことについて考えることが多くなっているこの頃です。
特にクリスチャンとして証をするために、子供をしっかりとしつけていることは本当に大切だなと感じる日々です。
聖書には「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」(ルカ7:35)とあり、どんな生活を送っているかは子供を見れば分かると言っても過言ではないと思います。
そう考えると日々、神さまのみことばを聞き、神さまの価値観を知って、謙遜に実行していくことは本当に大事なんだなと思わされます。(失敗することが多々ありますが)
またクリスチャンではない人でも、独身時代には特に気にしなくても、「親」として子供にとって何が大切で、何が大切でないかと判断しないといけなくなるんだなと、この頃気付きました。その中で、この世の「しからない子育て」などから子育てを学んでも、ほんとうには上手くいかないことが親ならだんだんと分かってくるのではないでしょうか。
そこで僕たちクリスチャンが、本当の正しい価値観、聖書の価値観が実生活にうまく適用されるということを示せれば、大きな証になります。
最近、クリスチャンたちで集う「ホームスクーリング」のキャンプに参加させてもらって、きちんと親の言うことを聞けるように育った子供の証というのは本当に力強いなと学ばされました。
 
 
最近、仕事と子育てが生活の大半を占めていて、ネットで何かを発信することは少なくなりましたが、クリスチャンのみなさんから学びながら、一緒に親として、クリスチャンとして成長していけることは素晴らしいなと感じている次第です。
 
みなさん、お久しぶりです。
今日はある人からの質問にここで答えたいと思います。
 
 
「今日は質問があってやってきました。ご存知でしたら教えてください。
新約聖書の「ヘブル人への手紙」ですが、何とかいう教父がそのように名付けて以来そのように呼ばれているそうですが、なんで「ヘブル人」なのかということです。
内容は旧約聖書を多く引用していますが、ヘブル語聖書ではなくギリシャ語聖書、つまりギリシャ語がネイティブの人向けということです。
確かにユダヤ地方にいないからユダヤ人とは呼ばないにしても、内容にミドラッシュも見られないようだし、どこがヘブライ的かと疑問に思ったわけです。
よろしくお願いします。」
 
 
まず、ヘブル人への手紙の成立年代ですが、新改訳聖書についている解説によると、紀元65年から69年と考えられています。
その理由は分かりやすいものだと思います。ヘブル人の手紙が律法に関して多く引用しているにも関わらず、「神殿はもう建っていない」などの記述が無いためです。(もちろん紀元70年に神殿が破壊されました)
 
 
また著者ですが、ヘブル人への手紙自体に著者が記されていないので、誰も確かには分かりません。しかし本文に「私たちのために祈ってください」(ヘブル13:18)とあるように、手紙を受け取った側の人たちは著者が誰であるかはっきりと知っていたことになります。また「私たちの兄弟テモテ」(13:23)とあることからテモテと行動を主にしていたパウロが書いたのではないかと考える人も多くいます。
 
 
さて、この手紙がヘブライ的かどうかという点ですが、次の本のある箇所を引用してみます。
 
「特にヘブル人への手紙は、差し出し人もあて名人もあいさつもなしに始まる一種の論文です。しかも、それは単なる教理の講義論文ではなく、聖書を引用しては釈義し説教する、ラビの講解説教に近い型です。1−2章は詩篇2、8篇の講解、3−4章は詩篇95篇の講解、5−7章は詩篇110篇の講解といった形で流れており、しかも、例えば、詩篇110篇を講解するのに、「メルキゼデク」が最初に登場する創世記14章からヘブル7:1−10を、詩篇110:4「メルキゼデクの例(位)」についてヘブル7:11−19を、詩篇110:4「とこしえに」についてヘブル7:23−35を、詩篇110:4「祭司である」についてヘブル7:26以下を展開するというように、優れた聖書解釈(ミドラシュ)をしているのです。」(『新約聖書の生い立ちと成立』榊原康夫著 p.68-69)
 
一言でいうとヘブル人への手紙は、とてもヘブライ的です。
 
例えば、ヘブル人1章は「御使いたち」と「イエス」を比べていますが、旧約聖書では「主の御使い」(ハ・マルアク・アドナイ)としてイエスが登場しています(例えば士師記13章で、主の使いを見たことが神を見たと言われています)。そのように旧約聖書での神の肉体を取った現れを(すべてイエスさまですが)、ユダヤ教では「メタトロン」(王座の中央にいるもの)として特別に理解していました。
そのため、容易に起こりやすい議論は、「イエスはただの御使いであって、神ではないのではないか」というものです。それに反論するためにヘブル人への手紙1章は書かれてあると思います。
 
また5章にある、乳や堅い食物というのは、初歩の教えとミドラッシュのことです。著者はメルキゼデクのミドラッシュについて語りたかったけれども、受け取る側がそれを理解できないというように書いています。
 
また12章18節からでは、シナイ山でのことを「もうこれくらい知っているでしょう」といわんばかりに、読み手の基礎知識を知った上で書いています。
 
そのため、読み手、受け取り手が旧約聖書の基礎知識をかなり持っているという前提で書かれていることが分かります。
 
 
そこで、旧約聖書からの引用聖句がギリシア語の「七十人訳」が多いという話は僕もよく読んだことがあります。
 
 
ここからは単なる推測ですが、引用された旧約聖書がヘブライ語からではなく、ギリシア語七十人訳だったということは、当時ギリシア文化の一部であったエジプト・アレキサンドリアがユダヤ教研究の中心のひとつになっていたからではないかなと思います。または七十人訳が当時のユダヤ人にも正統な翻訳として認められていたといえるかもしれません。
確かにいえることは、七十人訳がすべて正しいとまではいかなくとも、「新約聖書の著者たちが引用した七十人訳は正しい」ということです。
 
 
僕のお答えできるのは、ここまでぐらいです(誰が名付けたのかは分かりません)。
何かのお役に立てたら幸いです。
 
 
※付け足しですが、ヘブライ語とギリシア語の言語的な違いも知っておくと役に立ちます。
ヘブライ語は一語で、何通りもの意味を持つ言語です。
一方、ギリシア語はある一語が主語で、現在進行形で、女性形で、2人称で、複数形で、というようにとても意味を厳密に厳格に表わせる言語です。
この違いは、ヘブライ語からギリシア語への翻訳の際に2、3通りある解釈の中でどれが正しいかという取捨選択をしなければならなかった、またはイエスから教えられた後にそれが出来たと言えると思います。
みなさん、お久しぶりです。だいすけです。
最近は仕事が忙しく、次の日曜日に1カ月ぶりくらいに教会に行けるような状態です。
やはり忙しくしすぎていると、聖書のことや、自分の霊的な状態に気付かなくなってしまうなと思いました。
今回は、「キリストのからだ」と「キリスト教界」というテーマで書いていきます。
この中で自分の気付いたことを分かち合えればと思います。
 
 
生い立ち
僕は日本の一般的な(無宗教、葬式仏教、ときどき神社参拝)の家で生まれたため、キリスト教とは全く縁がありませんでした。そして色々な出会いから大学生の時クリスチャンとなり、クリスチャンサークルに入って、「クリスチャンホーム」で育った人がいるという事実に直面しました。それまでは自分がそうでなかったために、そのような環境で育ったらどうなるのかということさえも初めは理解できませんでしたが、クリスチャンホームの友達はとても素晴らしい人たちで、確実に「聖さ」という面では聖書の語る通り、優れている人たちでした。
 
 
ノンクリスチャンホームとクリスチャンホーム
その友達と接する中で、クリスチャンになった経緯を僕が話していると、よく聞いた言葉「僕(私)はクリスチャンホームで育ったから立派な証がなくて」というものでした。確かに、一度罪にまみれて、そこから劇的な展開を通して出てこなかったら「すごい証」ではないと思うかもしれません。ですが、今言えるのは子供の頃から聖書に親しみ、大学のころまで信仰を失わずに来ているということだけで素晴らしいことなのです。自分の子育てを考えてみても、(できれば)罪にまみれることなしに信仰をもって成長していってほしいというのが親心です。
それはそうと、僕はその時期にクリスチャンホームの人たちと、後からクリスチャンになったノンクリスチャンホームの人たちの違いを見つけたように思います。どちらも良い点があり、どちらも悪い点があるのは自然です。ノンクリスチャンホームの人たちはエジプトを出たイスラエル第一世代のような人たちです。自分で決断してエジプトを脱出し、モーセの素晴らしい奇跡を目撃しました。一方、クリスチャンホームの人たちは途中の荒野で生まれたイスラエル第二世代のようです。ヤハウェに仕えるのが当然で、エジプトの汚れを見たことのない人たちです。
 
 
ノンクリスチャンホーム出身信者の良い点・悪い点
まずノンクリスチャンホーム出身のクリスチャンたちの良い点を挙げると、ひとつ目は「熱心であること」のように思います。自分がひどい悪や罪から救われたことを確信しているので、同じ悪や罪にまみれている人たちに同じ救いを経験してほしいと思うからです。人生で劇的な変化を経験したからこそ、その語る言葉に力があり、「ひとりでも多く救われてほしい」と思います。
逆に悪い点を挙げると、熱心なのはいいのですが、やり方が強引であるということが自分を振り返ってみてもあると思います。またエジプト(この世)に長らく浸っていたために、この世の悪い習慣から手を引くのが難しいのがノンクリスチャンホーム出身者の特徴です。生活習慣でもそうですし、性的なことにおいてもそうです。
ひとつ例を挙げると、この頃ネットの動画で「男性がデート中に他の女の人を見てしまうのはなぜなのか」というものがありました。その中である芸人が「科学的に男はより多くの子孫を残そうとしているから」と自論を展開していました。クリスチャンホームのみなさん、ノンクリスチャンの家庭はこのようなテレビを毎日見て、そう考えているんですよ。驚くべきことではないですか。もちろん、男性がデート中にでも他の女の人を見てしまうのは罪のためです。そして、当然人は猿から進化してきたものでもなく、生きる一番の目的が「子孫繁栄」でもありません。僕たちは動物ではないからです。
ここでクリスチャンホームの皆さんに理解してもらいたいと思ったのは、ノンクリスチャンホーム出身の信者はこのような影響から心理的に、また習慣的に離れるのに長い時間がかかるということです。このために新約聖書では異邦人信者に対して、次のような戒めがあります。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、」(1テサロニケ4:35
 
 
クリスチャンホーム出身信者の良い点・悪い点
まず良い点は先にあげたように「聖さ」です。次の聖句にあるようにです。
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです」(1コリント7:14
そして次はただ個人的な感想ですが、「やさしい」ということだといえると思います。
一方、あえて悪い点を挙げるなら、ひとつ目は「優しすぎる」ということがいえると思います。ロゴスミニストリーの明石さんも書いていましたが(http://www.logos-ministries.org/blog/?p=5310)、他の教会の牧師さんに会うと言葉遣いやいろいろなものが「優しすぎて」、この人は本当に本音で語っているのか?という疑問が沸いてくるというのが率直な感想でした。何が良いたいかというと、表面上の優しさで無理をしているのではないかということです。ずっとその優しさを継続できればいいのでしょうが、奉仕が終わった後に裏で愚痴になっていないかというのが心配になってきます。
そしてもうひとつ「長らくキリスト教界に浸っているために、常識が無くなってくる」という状態が見受けられると思います。特に世俗の職場で働いていなければなおさらです。次の箇所にこうある通りです。
「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので」(ルカ16:8
自分自身にあった間違いを思い出してみると、僕は大学生のはじめにクリスチャンになり、しばらくの間ちゃんと勉強をしませんでした。なぜかというと、クリスチャンになる前は自分の力だけを信じて勉強でも何事でもしていたけれども、それで良いのかという疑問が沸き上がり、「神さまに頼っていたら勉強しなくても上手くいくんじゃないか」と誤解してしまっていたからです。これは明らかに間違いで、未信者の努力に対して神さまが報いているなら、なおさら信者は努力をしないと報われることはないと僕は知るべきでした。
これと同じことがキリスト教界に浸っていると知らぬ間に起こってくることがあります。具体的にいえば「キリスト教界の大御所を優遇するようになる」や「奉仕でどうやって生計を立てていこうか心配するようになる」ということが挙げられます。前者を行ってしまうと聖書の教理をないがしろにし、人の数に目が向き、そして結局は世界で莫大な信者を抱えている「教皇のシステム」に目が自然と向いていきます。そしてエキュメニカルとなるのです。後者に行ってしまうと、聖書が語る「知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たち」(1テモテ6:5)となってしまいます。
特に牧師(指導者)とお金については、聖書の多くの箇所が警告を発しています。
「監督はこういう人でなければなりません金銭に無欲で」(1テモテ3:23
「執事もまたこういう人でなければなりません。不正な利をむさぼらず」(1テモテ3:8
「監督は神の家の管理者として不正な利を求めず」(テトス1:7
 
 
キリスト教界の大御所
日本でも幾人かキリスト教界の大御所といわれている人がいると思います。ですが、ノンクリスチャンホーム出身信者からすると「どうでもいい話」です。教会や集会場の外を出ればただのおじさんやおばちゃんです。僕自身もただのアラサーの(もうすぐ)おじさんです。なので僕たちが注目すべきなのは、「大御所や何か」ではなく、どれだけ未信者に福音が語れているかではないでしょうか。キリスト教界で有名になるのは比較的簡単かもしれません。ですが、神さまはそれを評価しているのでしょうか。
 
 
奉仕で生計を立てる
これは1コリント9章でパウロが肯定していることでもあります。ですがパウロの結論は何かというと、「私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです」(1コリント9:12)ということでした。他の使徒で献金をもらい生活していた者たちもいたことでしょう。ですが、神さまは模範としてパウロを選び、パウロを用いました。
この「キリストの福音の妨げ」という言葉は、分かりやすいことばだと思います。実感として、献金だけで生活していると聞くとふと皆の頭に浮かぶことといえば「楽してるな」ということだと思います。もちろん、全員が全員そうではないと思いますが、「あっこの人楽するために献金で生活してるな」と一度でも思われてしまうとそれは「キリストの福音の妨げ」となる可能性があります。特に「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするため」(1テサロニケ4:12)とあるように、未信者の人たちは頑張って働いて生活を成り立たせているため、「献金で生活している」となると「えっ」となります。僕の教会の牧師は自営の仕事をしているのでその点で尊敬できました。
これまで出会ったクリスチャンの中で「この人は本当の奉仕者だ。献金で生活していても説得力がある」と思った人が三人います。ひとりはオーストラリア人宣教師のマイケルという人、もうひとりはアメリカ人宣教師のミッチという人、そしてジェイコブです。最初の二人はフィリピンにいるのですが、ミッチはyoutubeで伝道している動画(https://www.youtube.com/user/gomitch2)を見てから尊敬し、実際にマニラで一緒に路傍伝道をしましたが、伝道のために全エネルギーを使っている人だなと実感しました(現地のタガログ語で彼は説教ができます)。ジェイコブは説教をする時もメモも何も無しで、聖書箇所を覚え、アウトラインも頭に入れて、それでいて日本なら日本での適用も考えて、聖書を教えています。その努力は膨大だと思います。このような人たちは献金をもらって生活していても納得できます。
 
●結論
ノンクリスチャンホーム出身信者と、クリスチャンホーム出身信者どちらもがキリストの体に必要です。ノンクリスチャンホーム出身信者はきよくなる必要があるし、クリスチャンホーム出身信者は伝道熱心になる必要があります。どちらもお互いから学ばなければならないことが沢山あると思います。
そしてキリストの体とキリスト教界は少し違うように思います。リベラルな信者たちはキリスト教界に入っていても、キリストの体の一部ではないと思います。それはみことばの根本を否定しているからです。
ですがその一方で、自分たちと違うからといってキリストの体を全部退けてしまうことも良くありません。バプテスト派教会でも、ペンテコステ派教会でも、改革派教会でも多くの救われている信者がいます。深いところまで立ち入った教理で賛成できなくても、根本的なイエスの十字架・復活・再臨に賛成できれば彼らもキリストの体です。
キリスト教界に入る必要はありません(キリストの名を使ったにせ宗教や商売)。ですが僕たちがどこに住んでいてもキリストの体につながっている必要があります。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」(1ヨハネ5:1

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