だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

日記

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そういえば、ジェイコブ・プラッシュのことをまだちゃんと紹介したことがなかったなと思うので、自分で書いた似顔絵とともに紹介します。


以下はモリエルミニストリーズにあるジェイコブの紹介です
http://www.moriel.org/About_Moriel/About_Moriel-Jacob.html


モリエルミニストリーズ代表 ジェイムズ・ジェイコブ・プラッシュ


『アメリカのニューヨーク近郊に生まれる。大学で科学を勉強していた頃に科学と歴史、考古学をもって聖書の誤りを立証しようとした結果、1972年2月信仰を持つに至る。イエスと聖書の主張を裏付ける証拠の多さを実感し、信じる他は無いと確信した。

ヒッピーたちの世代がより良い世界を作ることに失敗したのに落胆し、自ら支持していたマルクス主義にも幻滅し、友人と自分自身の命を奪おうとしていた麻薬の習慣にも別れを告げて、イエスを信じた。

彼の家族はローマカトリックとユダヤ人の組み合わせだ(彼は青年期にカトリック系の学校に行かされていて、同時にユダヤ人コミュニティーセンターにも通っていた)。彼の妻パビアもホロコーストを経験した親を持つルーマニア生まれのユダヤ人クリスチャンであり、科学の分野にも理解があった。パビアは無神論者であり、彼は不可知論者だった。共に信仰を与えられた後、イスラエルとイギリスにおいて、ふたりは科学の分野から神学へとその研究を切り替えた。彼らはガラリヤでふたりの子どもに恵まれた。

彼はヘブライ語を話すユダヤ人への伝道者であり、初代ユダヤ人信者の背景と新約聖書解釈学を詳細に解説する教師である。また彼は教会を建て上げることと宣教に重きを置いている。彼とモリエルミニストリーズは、穏健なペンテコステ派とカリスマ派の中にあって、聖書に基づいた保守的なメッセージを発信している。特にエキュメニズム(教会統一)運動や金目当ての説教、手の込んだ偽りの教え、カリスマ主義、今日の教会で流行っている気の狂ったような偽りの異言などに惑わされないように警告を発している。

彼とモリエルミニストリーズは、今はキリストの再臨が間近に迫った終わりの時代であると確信を持っている。中近東での最近の出来事や社会に蔓延する道徳の退廃、環境破壊、世界経済のグローバル化、偽りの民主主義であるヨーロッパ連邦の台頭、その中でも現代の教会の中での背教。それらはすべて終末論的な預言に関して重要な要因である。』




ジェイコブはアドラム福音教会(僕の行っている教会)の牧師ジェフとも知り合いで
先日アメリカのモリエルミニトリーズを運営しているデイビッドという人が、
日本のモリエルを立ち上げる準備にうちの教会へ来てくれました。

モリエル日本のHPもしばらくしたら出来上がるので、楽しみに待っていてください。

いつも知り合いのクリスチャンにミドラッシュのことを
話しているといくつかの決まった反応がある。



「ユダヤ教が正しいっていうの?」

「イスラエル人が正しいっていうの?」

「聖書を象徴的に読みすぎるのはいけないよ」


上の2つの反応に対して、僕は聖書から「いいえ」と言えます。

ユダヤ教特に紀元70年にエルサレムの神殿が崩壊してから、モーセの律法は文字通り実行できなくなった。だから、ラビ・ヨハナン・ベンザッカイがラビや会堂を中心とした新しいユダヤ教を始めた。

今のユダヤ教の問題は直接的にはメシアを受け入れないことではなく、モーセの言ったことを受け入れていないところにある。(モーセは私のような預言者が現れると言い、イエスはそれを成就したから 『モーセのような預言者』http://www.moriel.org/articles/sermons/prophet_like_unto_moses_jap.pdf

また、パレスチナ問題で揺れるイスラエルの国。そこに国を作ったイスラエルが悪い?
僕はその国を作る方法が悪かったのではないかと思っています。
けど、イスラエル人が約束の地に集められることは何度も聖書で預言されていること(エレミヤ23章など)。
自分の知恵や力で物事をなそうとするヤコブの性格が、イスラエルも持っていると思う。
けど、それは神の主権のうちに定められていた。(一方、律法ののろいのためにホロコーストやスペインの異端審問があったけど)

「イスラエルが特別」なのは、アブラハムと結ばれた神の契約のため。
「あなたを祝福するものはわたしは祝福し、のろうものをわたしはのろう」と言われたため(これは後にイサク、ヤコブへと受け継がれる)。

だから「イスラエル人は正しいか」と言われると、正しい場合もあり正しくない場合もあるというのが正しいでしょうか。「日本人は正しいか?」と聞かれてもそうとしか答えられないでしょう。
(ただし自分たちのメシアであるイエスを受け入れていないことは正しくない)

次の問題は聖書の読み方。

クリスチャンなら誰もが読むのがおっくうになりがちな旧約聖書。
なぜそうなってしまうのか?
教会が新約聖書や福音書だけしか教えないからというのも理由のひとつだと思います。
けど、もっと大きな問題は、旧約聖書を歴史的な事実だという風にしか見ていないこと。

もちろん、聖書の内容は歴史的事実であり、アダムとエバが実在し、アブラハムも実在していたが、
その聖書の伝えたいことは、神さまから見た歴史を書いているということ。
そして、それは象徴として表されているということ。

それは象徴を教えの基礎とせずに、教えを深く理解するためにあるといった考え方。

ユダヤ人が書いた旧約・新約聖書を日本人の価値観や、西洋の価値観で読むのは間違っていませんか。

それはパウロがローマ人への手紙で語っている、イスラエルという「根」を見失うことではないでしょうか。


「今日は雨だなぁ」

これを聞いた日本人はどんよりした気分になり、

一方でユダヤ人は

「神の祝福だ」ということでしょう。


風土や文化を考慮しないとやっぱり聖書は読めない。


だったら、どこにその「ユダヤ性」を求めていけばいいのか。


ユダヤ教の会堂に行ってラビに話を聞く?


いやそれをしなくても、もうすでに1世紀のユダヤ人的解釈を学んでいるクリスチャンがいます!!


それがジェイコブ・プラッシュであり、他の主にある教師たちです。


だから、僕は翻訳をして聖書の詠み方を(1世紀ユダヤの聖書の読み方)広めようと思ったわけです。
(まだまだ翻訳は稚拙ですが)

「そんなんしなくても大きな図書館に行けば、そういう本があるんじゃない?」


と思う人もいそう。

けど、関西で一番大きいって言われてるキリスト教系の大学の図書館で、

そういう本を探してもあるのはリベラルで、聖書自体、イエス・キリストの十字架自体を信じてない学者の本ばかり。

ヨセフスやエウセビオスの「教会史」という素晴らしい本を訳した秦剛平という学者も、本当にイエスの十字架の贖いを歴史的な事実として認めていないみたい。


だから、聖書について学びすぎるとリベラルになってしまう。ある程度にしとかないといけないという風潮が出てきてしまう。


なんてことなんだ!と僕は思います。聖書が神のことばなら何にも負けないはず。
たとえそれが世界でナンバーワンの学者に反対していても。

信仰はどこにあるのですか?とイエスさまに聞かれていそう。


また教会が預言について注目しないのも、人を元気付けていない要因だと思う。

イエスさまに関して書いてある預言を読めば、それが神さまの力によってしかならないってことが分かる。

けど、リック・ウォレンという人は預言に注目するなって言っている。

僕は聖書だけを読んでいれば十分だと思います。

あれだけ騒がれていたリック・ウォレンの本も、今はブームが過ぎ去ったみたい。


でも聖書はすたれることがない。


また新しい流行が来るかもしれない。


けど聖書は最初から変わらない。


聖書全体を通して何度も読んでみたら、ミドラッシュという読み方の本当の価値が分かりますよ!

僕も聖書を読みます!

聖書箇所を読んでから『アブラハムの旅』をお読みください


『主はアブラムに仰せられた。

(彼の名はまだアブラハムではなく、アブラムでした)


『「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、

あなたをのろう者をわたしはのろう。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』


 『アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハラ

ンを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、』

サライとはヘブライ語で“わが王妃”という意味です

 『おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうと

して出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モ

レの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そ

して「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった

主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西

にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それか

ら、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。』


 『さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下っ

て行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、

妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト

人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろ

う。どうか、私の妹だと言ってくれ。』


実際にサラはアブラハムと異母兄妹でした


 『そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」ア

ブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼

女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブ

ラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだ

を所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛

めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたの

か。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だ

から、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パ

ロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出し

た。』


 『それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、

ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、

ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。そこは彼が以前に築いた

祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトも

また、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかっ

た。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブ

ラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカ

ナン人とペリジ人が住んでいた。』


 『そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者た

ちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるでは

ないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行け

ば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼさ

れる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のよう

に、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移

動した。こうして彼らは互いに別れた。』(創世記12章1節−13章11節)

哀歌

 
  
  『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
   主のあわれみは尽きないからだ。
   それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。』哀歌3:22−23

「主のまことはくしきかな」英語ではGreat is Thy Faithfulness
みんなに知られた賛美歌。

僕はこの歌が大好きです。主のまことはすばらしい。

この歌は元々ヘブライ語から訳されたものだって。「マネーマネタ、マネーマネタ」

そうこの歌は哀歌から取られている。ユダヤ人の会堂で今でも神殿が破壊されたアブの月9日に朗読されます。
南のユダが神さまに背ききって、その裁きとして来たバビロンによって神殿は破壊され、民は捕囚された。

その裁きは偶像礼拝のため。子どもをモレクに捧げたため。偽りの預言のため。

それを読んだら、「自分ならそんなに悪くない」って思ってしまう。

けど、今日気づかされた。


神さまに背いて、バビロンに連れて行かれたのは他の誰でもなく自分のことだと。


僕はユダと何の変わりもしない者です!


このごろは聖書を読むことが少なくなって、ゆっくり神さまとの関係について考えることもなくなって。
しかし、神さまのまことは朝ごとに新しかった。



『たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。』3:32-33


すべてのことが神さまから出ていること。


『地上のすべての捕らわれ人を足の下に踏みにじり、
人の権利を、いと高き方の前で曲げ、
人がそのさばきをゆがめることを、主は見ておられないだろうか。
主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、
このようなことを起こしえようか。
わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。』3:34−38


わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る。


ああ、このことがもっと心に迫ってくれば、何も偶然がないということを真に知ることができれば。

悪口を言われても、無視されても、それが神さまが許されたことだと分かれば。


なんて、何も分かっていなかったんだろう。


『生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。』3:39−41


ああ、神さまがいつもそばにいてくださって、御霊で満たされていれたなら。

ブログ

このごろ考えてたこと

ブログでは見えて来ないこと。

以前あるブログで、クリスチャンに関して書いている人がいて、その人が言うには「ブログと現実の姿は違うことが多い」ということでした。
その言葉がそれから気になっていて、僕自身についてもそれが真実だなと感じました。
ブログで「あれをした、これをした」と書いても、その動機が何なのか、実際に言行が一致しているのか。
ブログでは分りかねないところです。

また、自分の目に梁が入っていてもブログでは気づかれないので、他人の目のほこりを「取ってあげよう」と容易に言えます。

はっきり言って僕はそのような人間なので、実際に僕のことを知っている人がこれを読んだらどう思うんだろうと考えてしまいます。

実際に会って顔を見て、その人の感情に触れて、その人の奥にある霊に触れないと本当にその人を知ったことにはならないのではないでしょうか。

でもブログでもある部分は伝わるのは確か。その部分が何かを分かって有効に使っていけたらとても良いことなのでしょう。


まあ何事もはまりすぎたらいけないってことなのかなぁと。。


ブログの知り合いから実際に会って、福音を伝えれたり、クリスチャンとして交わりを取れたりすることってあるんでしょうか?だれかそんなことってありました?


そんなことがあったとしたら、とても良い手段だと思います。


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