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この間ある友だちにたまたま会いました。
彼は大学のキャンパスに宣教に来ている、あるクリスチャンの団体に
よく来ている人です。
彼との出会いは、今でもはっきりと覚えています。
その団体に自分自身も伝道を一緒に出来るのなら、と
行動を共にしていたころに、
短期宣教のグループが日本にやってきました。
その中には、韓国系アメリカ人が多くいたのですが、
その中のChrisという人がたまたま出会ったM君(その友だち)に声をかけ
そのグループに連れてきました。
そして、Chrisと僕は彼に福音をまっすぐに伝えました。
(彼が英語で喋って、ぼくが通訳していたんですが)
そのような劇的な出会いだったのですが、彼には一向に聖書への興味がありませんでした。
聖書の話をしようとすると、「おれに聖書の話はしんといて」と言うのです。
しかし、彼はその団体にレギュラーと言って良いほど、いつも来ていました。
なぜでしょうか?
おそらく彼は韓国人やアメリカ人と喋るのが好きだっただけでしょう。
そのM君と、最近会ったときに、もうストレートにある質問をしてみようと思いました。
「なんでMはクリスチャンにならへんの?」
すると、彼は
「神さまはいると思うよ。でも、信仰を持つ必要はないと思う」
と言っていました。それを聞いてがっくりしましたが、
話していくうちに明らかになってきたのは、彼が全くクリスチャンになる気が無いということでした。
クリスチャンの団体に一年ちょっとくらい、いつも行っているのになぜでしょうか?
やはり問題点は、その団体が罪や神さまの聖・義、聖書について多くを語っていないというところに
あると思いました。
その団体はパーティーや遊びは多くあるのですが、聖書を必ずしも前面に出していません。
もし、聖書の言葉を前面に出していたら、クリスチャンになる気は無い人は、来なくなるのではないでしょうか。私はこのごろ確信しましたが、伝道するのは直接的には人を喜ばせるためではなく、神さまを喜ばせること・神さまの栄光を輝かせることであると。
人に「裁きが来る」と言うことで神さまの栄光・聖さを示すことが出来る機会は、私たちが思うより多いのではないのでしょうか。
わたしもよく、「聖書に興味がない」とか「別に神さまがいると思わない」といわれると、
「あ〜そうなんだ」で終わってしまいますが、本当に聖書、神の言葉に忠実でいるなら、
そう言って終わるのは本当に間違っています。
聖書はその書かれていること自体によって、私たちの心に語りかけ、本当の神であることを証明しています。さらに、多くの預言を与えることによって言い訳もできません。(旧約聖書には多く、イエスに関しての預言があります)
それらをもし、知っていて「聖書に興味が無い」
自分は罪人だと知っていて「裁きなんて無い」と言うひとは非常に危ない状態にいるのではないでしょうか。
私たちはクリスチャンとして、そういう人には神さまから、懲らしめが与えられることを祈るべきではないでしょうか。
彼が少しでも早く主を仰ぎ見、「私の神」と行って彼に頼るためです。
『あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。』ヘブル12:26
神は人が神なしでは、恵み無しでは生きることが出来ないことを示します。
神さまの御手が一旦取り去られると、私たちはそれを見ます。
『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』ヨハネ3:36
地獄、永遠の裁きは現実です!私たちは罪深さのために裁かれるに値します!わたしもその一人です!
しかし、『恵みのゆえに、信仰によって救われたのです』(エペソ2:8)
ハレルヤ!!
神さまの栄光を表わすことがクリスチャンの本質です!
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