だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

日記

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フィリピンレポート

みなさん、お久しぶりです。
先日、フィリピンから約3週間ぶりに帰って来ました。
今回は日記という形で、現地のクリスチャン、信仰の状況を書いていきたいと思います。
 
まず妻が第二子を出産するということがあり、妻と子供は先にフィリピンに帰っていました。そして4月10日、かわいい女の子が生れました。出産って本当に良いものですね。新しいひとりの人がこの世に生れてくるのですから。
 
そして今回、フィリピンのミンドロ島で二つの日曜日にメッセージを語りました。
 
最初のメッセージは「知恵、知識、悟り」、二つ目のメッセージは「立つ、つまずく、倒れる」というものです。
どちらのメッセージも理解してもらったみたいで、まずは目的達成でした。
 
フィリピンの霊的現状
 
現地は迷信が多く、クリスチャンでも間違ったことを簡単に信じてしまうところです。
最近は現地の教会の間で、「悔い改めは必要ない」新しい恵みという教えが流行して、それが教会間に分裂を引き起こしています。後にモリエルHPにも掲載すると思いますが、その原因となった本を書いたのがジョセフ・プリンス(Joseph Prince)という人です。その人の教えのために、クリスチャンが悔い改め無しに、罪に舞い戻って行ってしまっています。簡潔にどんな教えかというと、「イエスさまが十字架にかかり、私たちは恵みの下にいるのだから、自由だ。律法に縛られる必要は無い」というもので、ある牧師は浮気をし、ある牧師は酒に酔っているということです。本当に嘆かわしいものです。
おそらくどの発展途上国でも同じだと思いますが、西洋世界、特にアメリカから間違った教えでも大量に輸入しており、しかもフィリピンは英語の本が読めるということもあり、流行の速度がはやくなっています。未信者が救われることはそれほど難しくはないのですが、救われた後に正しい教理に触れず、間違った教えの波に惑わされている人が多くいると思います。僕たちは正しい教えを広めなければなりません。
 
フィリピンの家庭環境
 
アジアの他の国と同じく、フィリピンは家族や親戚を大事にし、いつも近所の人たちと(特に田舎は)交流があります。そして、今回も妻の実家に3週間ほど泊っていたのですが、家の中には仕切りやカーテンはあるものの、トイレ以外ドアがありません。日本人からすると、(また結婚したカップルからすると)プライベートな空間が無いと思うのですが、一方、家族間で隠し事が出来ないという利点もあります。日本はプライベートを大切にして、子供でも自分の部屋があったりしますが、そのために家族と一緒の時間を持たず、隠れて悪いことをするということが出来てしまうのだと思います。この点を考えると、フィリピンの子どもたちは家族によって守られているといえます。
 
フィリピンの気候とその影響
 
フィリピンは北部のバギオなどを除いてはとても暑い国です。そしてとても暑いために人は朝早く5時くらいに起きてすずしいうちに仕事をし、昼食後の真昼頃になるとシエスタのように仮眠を取ります。起きて仕事をしようにも暑過ぎて(特に農家の人たちにとっては)何も出来ないからです。何かしようと思ってもとても非効率になってしまうでしょう。また暑いために昼間勉強しようとしても集中できません(試してみましたが)。またフィリピン人は時間にルーズだと言われますが、それにも理由があります。大きな理由がその気候です。特にスコールや台風、天災が数多くあります。そして船でどこかへ行こうとしても台風が来ているから行けないなどの状況が多々あります。そのような環境で日本人のようにカリカリしていたらどうなるでしょう。もちろん、逐一怒っていてもしょうがないので、諦めるしかないのです。そのため「バハラナ(もういいや)」と言って、諦める気質を持っています。日本の気候や気温を比べると、先進国ということもあり、比較的何でもスケジュール通りにことが運びます。とても予定が立てやすいのです。しかしフィリピンとなるとそうはいきません。
 
カトリック教会
 
フィリピンに行った人なら分かると思いますが、カトリック教会があちこちにあります。そして「あなたはクリスチャンですか?」というと「はい」と言って、カトリックであることが多々あります。またマリア像も、日本の道端に仏像があるようにあちこちにあります。ですが本当のクリスチャンにカトリック信者について聞くと、酒に酔うし、タバコを吸うし、聖書を読まないといいます。そしてフィリピンには、フィエスタというカトリックに由来した祭りがあり、ブラック・ナザレンという祭りでは黒い肌をした(なぜ黒いか分かりませんが)幼子イエス(サント・ニニョ=聖なる子)を担いで、人々が練り歩きます。そしてその像に触ったらご利益があると信じていると聞きました。
 
聖書への尊敬
 
そのような間違ったキリスト教が広まっていることは事実ですが、その反面日本とは違う良い状況もあります。フィリピンでは宗教的な話がオープンに出来、聖書に対してある種の敬意を持っている人がたくさんいます。日本人や、西洋の無新論者のようにあしざまにけなすことはしないのです。そのため、伝道がうまくいっています。現地の教会がしていたのは、子供たちを平日教会に集め、サマースクールのようなものをして、子供の讃美歌を歌い、聖書の物語を話し、聖句を暗証させていました。そして近所のカトリックの親たちも、子供の教育に良いからと子どもたちを通わせているのです。神さまの恵みは今、発展途上国、第三世界に向けられています。
今日は、日記として最近あったことを分かち合いたいと思います。
 
 
この頃、税務署のアルバイトとして働いているのですが、その休憩時間に、「神さま、聖霊のバプテスマを与えてくださって、大胆に語らせてください」と祈っていたら、そのお昼休憩中、たまたまみんなの話題はカトリックのことに。
通っていた学校が「カトリック系」から始まり、シスターがどうとかいう話にみんなでなりました。
 
またある人の父親は、死ぬ直前まで自分がプロテスタントだということを隠していたということを話していました。
 
聖霊のバプテスマについて、ついさっき祈っていたので、「あっ、ここで自分がクリスチャンと言わなければ」と思い、自分がクリスチャンであることを話し、トラクトをみんなに見せると、みんな「あっ変わった人がいる」というような雰囲気になりました。また途中で入って来た人は「見なかったことにするわ」と半分馬鹿にしながら部屋を出て行ったのです。
 
 
僕がクリスチャンであるという話をすると、「何を信じてもいいねん。信じる者は救われるやから!」という人も。
 
ここで思ったのですが、確定申告に来る人で一番やっかいで、怒りだす人は、お金が還ってくると思っていたのに、払う計算結果になった人です。逆に、前々から「税金を払うことになる」と心の準備ができている人はとても素直で、納付の結果が出ても納得して帰られます。
 
では話を戻しますが、確定申告で、税金が戻って来ると「間違った情報」を信じていた人が、実際は税金を払うようなことになっても、人は気にしないんでしょうか?
 
まさに正反対です。
 
何を信じていても良いということは、全くのウソです。
 
 
福音について考えてみましょう。
 
間違ったことを信じて死後に報われると思っている人たちがいます。その「信仰」は間違った情報に基づいているので、死後に報いを受けるどころか、死後に罰の代価を自分の身をもって支払わなければならなくなります。そして、そのような人は裁きの日に激しく怒ることでしょう。
 
まさに聖書に書いてあるとおりです。
 
◆「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」箴言19:3
 
僕はこの出来事によって次の聖句を思い出しました。
 
◆「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」マルコ8:38
 
キリストが唯一の望みで、みことばを愛しているなら、死ぬ直前まで隠していることなんて出来るでしょうか?クリスチャンにとってはある人が死ぬ前に信仰告白をするのは素晴らしいことですが、未信者から見るとそのように見られています。みなさんが結婚されていて、奥さんを愛しているなら、結婚していることを隠したりはしないでしょう。
 
そしてみことばを未信者の人に伝えようとした時には、いつもこの箇所を思い出します。
 
◆「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」1ペテロ3:15
正直に言うと、今回上手く答えることができませんでした。
みんなが「信じれば何でもいいじゃん」と言っていたので、「聖書は信じる証拠がたくさんありますよ」と言いましたが、「じゃあ、どんなものがあるの?」と聞かれて、少し考え込み、休憩時間が無いのもあいまって、「今は時間が無いので」と言ってしまいました。なんて悪い例なのでしょう。
クリスチャンなら、このような場面にあったことが皆さん必ずあるはずです。
その時に素早く答えられるよう、知識と御霊に満たされて日々準備している必要があります。

今日は久しぶりに、思ったことを書いていこうと思います。


テーマは「なぜ聖書から出発しないのでしょう」です。


7年半前にクリスチャンになった者として、聖書からクリスチャンの理想像を取るのが正常なクリスチャンの生き方だと思ってきました。


ですが、クリスチャンと言っている人たちの中でも、他の人を恐れて、嫌われるのを恐れて聖書の語っていることをまっすぐそのまま語らない人たちが残念ながらいます。


もちろん、現実にはどちらでも良いような問題と信仰に揺るがす根本的な問題があります。


たとえばクリスチャンがテレビを見るかどうかは、どちらでも良い問題です(個人的には悪影響が大きいので見ませんが)。


ですが、クリスチャンが偶像(マリア像、イエス像、仏像)を許容しているというのは信仰を揺るがす根本的な問題です。


そして、偶像を拝んでいる人が地獄に行ってしまうというのは、聖書の根本的な教えです。


先日、ある人に問題提起をしただけで大きく批判されました。


http://ameblo.jp/kyokugeidou/entry-11523345171.html


そして、ある人からは「メサコン疑惑入っている」と非難されました。


http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3502


「メサコン」とは何かということをこれを読むまで知りませんでしたが、悪いことを意味していることは読み取れました。




ここで本題に触れますが、なぜ聖書から出発しないのでしょう。


僕が間違ったことを語ったのなら、なぜ聖書箇所を明示して指摘してくれないのでしょうか。

もちろん、僕は100パーセント間違いのない人間ではありません。

間違いがあるなら、信仰の基礎としている聖書から、「聖書はこう言っているじゃないか」と適切な批判をしてほしいのです。

そうしてほしいのに、僕が語ったことを批判する人たちは自分たちの考えを披露するのみです。



問題の本質は、聖書から出発していないことにあるのだと僕は考えます。


「信仰の基礎は何の上に立っているのか」


と問うことは非常に大切ではないでしょうか。


イエス・キリストこそが土台です(1コリント3:11)。そしてヨハネ1:1ではイエスが「ことば」と呼ばれています。イエスこそ、神さまがどんな方であるかを具体的に教えてくださる方です(コロサイ1:15)。


もし私たちが自分の信仰の基礎を人の上や、宗教団体などの上に置くと倒れます。
なぜなら私たちはただの堕落した人にしか過ぎないからです。


ですが、聖書を基礎とすると、その人の信仰は揺るぐことがありません。




今回の騒動(?)を受けて、見て取れたことは、僕を批判する人たちの中に「カトリック教徒」と思われる人が多くいたことです。


そしてその中のある人は「決して像を拝んでいるのではありません。十字架・マリアの像を見ることによってその方を考え・思い出し・祈る」のですと言っています。


しかし、出エジプト32章でイスラエル人が金の子牛を造った時に語ったことをご存じではないようです。
彼らは別の神を造ろうとは言いませんでした。

「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」出エジプト32:4

「あすは主(ヤハウェ)への祭りである」出エジプト32:5

彼らがしていたことは、本当の神であると言って子牛の像を拝んでいたことであり、本当の神(ヤハウェ)を間違った仕方で礼拝していたということです。

後にモーセがとりなしの祈りをした後、偶像礼拝者たちを殺せと言ったことが32章の後半部分に書かれてあります。

もちろん、新約聖書で私たちは恵の下にいるので人を殺すなんてことはしませんが、それでも深刻な問題であることに変わりはありません。



なので、神は偶像を拝む人たちに対して怒っておられます。

「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」ローマ1:18




ここまで読んで来られると、



「なんて過激なんだ」


と思われることかと思います。ですが僕はいつも思いますが、聖書自体「過激な」本です。

もちろん、愛は大事であって、それを言葉だけではなく行いで示すことは必要不可欠です。

ですが、聖書全体が提示している命題は、唯一なる神に従えということです。



聖書を開いてみましょう。



最初の節は「初めに、神が天と地を創造した」創世記1:1
とあって、ここでもうすでに

「神がいる」
「神は創造主=創造主以外は神ではない」

と少なくともこの2点が前提となっています。



真理は排他的なものです。何かが正しければ、その反対は間違ったものです。


ある時子供たちとアンパンマンのパズルで遊んでいると、ある子が言いました。

「このアンパンマンのキャラクター全部好き」

ですが、僕は言いました。

「アンパンマンが好きって言ったら、バイキンマンが怒っちゃうよ」


正義と悪がある限り、その両者は相いれません。


そのために聖書の最後(黙示録)の部分にはこうあります。

「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい」黙示録22:11


最初の頃、なぜ聖書がこう語っているか分かりませんでした。

ですが、聖書を読んで教えられるにつれて分かってきました。

神さまは正しい者と悪い者を分離しようとされています。

そして主の日にその分離がはっきりとなされます。




ともあれ本筋に戻ると、


聖書から出発しなければ、多くの惑わしが待っていると思います。


リベラルなクリスチャンが存在するのは、家族のつながりか何かで人が「キリスト教文化」から離れられないためです。

カトリックは聖書+聖伝を強調しますが、聖伝は人の作り出した考えにすぎないために、(たとえば聖職者の独身制は)ぼろが出てきて、聖職者の幼児性的虐待という形に行きつきます。



どちらもが「人」から出発してしまう点が共通しています。



聖書は全く正しく、信頼に値すべき書物です。何よりも人の手によって書かれた神の言葉です。




聖書を読みましょう。神さまから聞きましょう。





「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」1ペテロ1:24-25

信仰生活と仕事

この頃、新しい仕事(といってもアルバイトですが)を始めて、日々ぐったり疲れているだいすけです。

某英会話スクールの営業職として、「営業は数字がすべてだ」と言われ、派遣の仕事も同時にしているので帰りが10時半になることもあり、多くのサラリーマンの気持ちが少しは分かってきました。

彼らが10時頃に酒臭い+汗臭いにおいを放ち、お酒に酔って帰ってくる姿。
その人たちもおそらく断るのが苦手なので、そうなっているんだということも。
そんなことしなくてもよかったら、誰もしませんもんね。

でもそんなことの原因は会社での異常なプレッシャー、プライベートと仕事のかい離があると考えています。

僕自身の仕事に対しての姿勢としては「仕事は家族のためであって、家族は仕事のためじゃない」です。

とはいえ、実社会を少し経験すると仕事は大変だということが分かってきました。

では、聖書は仕事についてどう語っているのでしょうか。
今日は「エルガゾマイ(ergazomai)」というギリシア語をたどって考えてみましょう。
(「エルガ」とは「行い」と訳される言葉です)


●『それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働き(エルガゾマイ)をやめる権利がないのでしょうか。』1コリント9:6

この箇所によるとパウロとバルナバは生活のための働きをやめなかったようです。
そしてこの箇所では忠実な伝道者(耕す者=地→人の心を耕す者)、忠実な教師(脱穀する者=食べやすいように麦を準備する者)はその働きによって生活が支えられる権利があるとしています。
ですがパウロらはそうしませんでした。それは『キリストの福音に少しの妨げも与えまいとして』(12節)の行為でした。僕の身近でも教会の「献金、献金、特別献金」という宣伝につまずいている人がいることを知っています。パウロはそのことを気にして働いていました。そしてそれは生活のための働きです。


●『奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をする(エルガゾマイ)にも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。』コロサイ3:22−25

近代の奴隷と違って、当時の奴隷がもっぱら「労働者のよう」であったといわれていますが、それを考慮に入れると僕たち労働者と共通する点が多くあると思います。
僕たちは何の仕事をするにも主に対してします。そして、ここがとても励まされたのですが、「主から報いとして、御国を相続させていただく」とあるのです。そうですね、上司がいても人に仕えているのではなく、主キリストに僕たちは仕えています。一方でクリスチャンだからといって何か不正をしても見逃されることは無いよと聖書は警告しています。


●『兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら(エルガゾマイ)、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。』1テサロニケ2:9

「エルガゾマイ」という単語がとても多く出てくる手紙はテサロニケへの手紙です。
彼らが再臨を待望する超宗教的な人たちであったことを考えるとそれは納得がいきます。「主イエスがすぐ帰ってくるのだから地上のことは問題じゃない。ただ上を見上げて主が帰ってくるのを待っていよう」と思ってしまうのは非常に簡単です。僕もそのような傾向がありました。
そのような人たちに対してパウロは(私たちとあるので少なくともパウロ、シルワノ、テモテは)「昼夜働いた」とあります。昼夜と書かれていて、朝が無いことが興味深いと個人的に思うのですが、使徒であるパウロも働いていました。僕たちと同じようにです。彼は宗教学者や大学の教授のように座って、教えをこう人からお金をもらっていたのではありませんでした。


●『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい(エルガゾマイ)。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。』1テサロニケ4:11−12

ここから分かるのは、僕たちクリスチャンが働く理由は外の人(未信者)に対しての証と、乏しいことがないためであることです。とても実際的な勧めではないでしょうか。


●『どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。』2テサロニケ3:7-12

この箇所だけで4回「エルガゾマイ」が登場しています。
ここで重要なのは使徒であるパウロは働かない権利をもっていたにもかかわらず、それをあえて使わなかったということです。僕は何度も人に「なんで神学校に行って牧師にならないの?」と言われたことがありますが、そういうことを言われるとふと「ああ、そうか。職が見つからなくても牧師になれば食っていけるわ」と思い始めてしまいます(もちろんすべての牧師さんがそうでなく、誠実な方もおられると思います)。ですが、この罠はとても巧妙じゃないでしょうか。霊的プライドにつけこんだ罠です。

そしてこの神学校に言ったら教団や教会に養ってもらうというシステムが悪い方向に使われているところは多くあると思います。「牧師の話がやたら眠い」「当たり障りのないことしか言わない」のはその牧師が雇い人になっている証拠であって、真実を語るために教壇に立っていない可能性があります。牧師がみことばを語っているならそれは両刃の剣よりも鋭く、人の魂と霊を刺し通し、人の考えを判別するものです。また説教は現実に世の中で起こっていることを聖書の観点から理解するべきものであると僕は考えます。先日のニュースで米のオバマ大統領が同性婚を支持する発言をしたという記事がありましたが、それは聖書のいう「終わりの時代はロトの時代のようになる」との箇所と合致します。それゆえ本当の信者ならそれに立ち上がって警告・反対すべきです。同性婚が認められると将来は見えています。同性婚をあからさまに禁じているローマ人への手紙1章が「差別文書」と呼ばれ、聖書の公での朗読が禁じられるでしょう。その中で立ち上がる者は妥協した信者たちから反対を受け、外からは迫害を受けるでしょう。

僕たちは今目の前でニュースになっているオバマ大統領の同性婚支持に反対できるでしょうか?
今、反対しなければいつ反対するのでしょう?(別に政治的な贖いを期待していませんが)
そして、今妥協してしまうなら、最終的な反キリストが出てきたときにはどうなるでしょう?
牧師のメッセージは現実生活に影響を及ぼすものであるべきです。



今日は「エルガゾマイ」=「仕事」について見ていきました。

土曜日まで苦労して働いているクリスチャンを元気づけれたらなと考えています。

また自分自身への励ましのためにも書いています。

その働きには報いがあり、外の人に対して証ができ、乏しいことがなくなります。

生活のための働きをすることは使徒パウロのライフスタイルでした。

彼に働かない権利がなかったのではありません。福音に妨げを与えたくなかったのです。


アーメン

文脈とは

文脈とは、という質問を考えてみましょう。

もちろん、これは聖書の文脈という意味です。


聖書は色々な文脈(背景)で、色々な出来事が書かれてある本です。


そのために何かを聖書から説明したいと思うとき、適切な文脈で引用する必要が出てきます。
そうすると、逆に文脈を適切に引用しない場合が出てくるということです。


特に語られている文脈が本当に適切なのか、そうでないのかはよく落ち着いて考えると分かることです。


ですが、落ち着いて考えることの出来ないときがキリスト教の集会には存在します。


それはスピーカーが何か情熱に燃えて、語っているように見えるし、そう聞こえる時です。
その時はそれで盛り上がって良いのですが、後から考えると「あれは一体後に何を残したのだろう」となります。




ですが逆に語り方は静かであっても、文脈を外さず、適切に用いているスピーカーもいます。
その人の語った内容は後になって何度聞いてみても、深みが出てきます。
それはその人の語った内容が事実で、事実なら他の事柄にも適用できるからです。




具体的な例を出さずに申し訳ありませんが、

確実に文脈をつかむ方法を提示したいと思います。



それは



「同じ原語が登場する箇所はつながりがある」



というものです。

文脈という問題を考えるに当たって、これが第一の、また最善の方法であることは疑いがありません。

なぜなら、神がその原語においてその単語を選んだからです。

ですが、聖書の「翻訳」は霊感によるものではありません。

そのため、どう日本語に訳すかはその訳者次第であって、同じ原語が使われていても、違った日本語が割り当てられていることが多くあります。(そしてそれは翻訳上、避けられない問題です)



先に翻訳された

『大教会強盗』
http://www.moriel.org/Teaching/Online/Great_Church_Robbery/Great_Church_Robbery-Japanese.pdf



では、その原則が用いられ、ギリシア語の「ハルペーゾー」という単語が登場する箇所がすべて「携挙」について教えていると解説しています。


もちろんすべての単語が、このハルペーゾーのように全箇所で同じことを教えているとは思いませんが、これが標準的な方法であることはみなさんにも分かると思います。


私たちは聖書を説明するときや、メッセージするとき何気なく、「この箇所とこの箇所がつながっている」と言って引用するかもしれません。




しかし、どうしてそう言えるのでしょうか???




何をもって確証を得たら良いのでしょう???




そこで使われている原語の単語が同じならば、誰もが納得できます。

それゆえ、同じ文脈で語るためにこの方法は有効だといえます。
(またこれはラビ・ヒレルの作った7つのミドロットという解釈の原則の中にも登場します)



この方法を実践する上で役に立つのがコンコルダンスです。
お勧めするのは、



●Blue Letter Bible
http://www.blueletterbible.org/


●『聖書語句大辞典』教文館
(アマゾンで中古を購入すれば比較的安価)
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4764240017/ref=sr_1_1_olp?ie=UTF8&qid=1322063373&sr=8-1&condition=used


コンコルダンスを選ぶ場合は「(日本語別ではなく)原語別にまとめられていること」、
また「聖書全体を網羅していること」を条件に選びましょう。


英語の聖書で、英語で学べる方は、


●The Strongest NASB Exhaustive Concordance
http://www.amazon.co.jp/Strongest-NASB-Exhaustive-Concordance-Strongs/dp/0310262844


をお勧めします。


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