|
このごろ考えてたこと。 テーマは 「文脈に力ありき」 何のことかというと、これも聖書に関して。 聖書は他の本と変わらず、文字が並んでいる本。 では、他の本と違う点を作っているのは何かというと、聖書の文脈(内容)です。 別に今さら言う必要も無いようなことなのですが、このことは真実でまた、深みがある真実だと思います。 文脈とは辞書で調べると 1 文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「―で語の意味も変わる」「―をたどる」 2 一般に、物事の筋道。また、物事の背景。「政治改革の―でながめると」 (大辞泉より) このようにあります。 「文と文の論理的関係」「語と語の意味的関連」 聖書を聖書にならしめているのがこの文脈。 英語のcontextは背景という意味も持っていて、背景と文脈は似た関係にあるようです。 さて、この「文脈に力ありき」というテーマで何を言いたいかというと 聖書の読み方について、僕なりの意見を書こうと思います。 イエスがサタンに誘惑を受けに荒野に導かれたとき サタンがしたことは「文脈からみことばを離す」という行為でした。 『さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。 そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。 その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。 「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。』(ルカ4:1−13)
●神の子であれば石をパンにする●悪魔を拝むならこの世を与えられる ●神殿から飛び降りれば、御使いたちが守る ひとつ目ならできそうなこと。 またふたつ目の「私に任されている」ことをイエスは否定することをしませんでした。 事実この世はサタンの下にあると他の箇所にあります。 三つ目は聖書に書かれている箇所を悪魔が引用。 しかし、イエスはそれより優先する箇所を示しました。 さて、文脈という問題を考えてみると、次のことが分かります ●聖書全体の文脈が大切 ひとつの聖書箇所があっても、それが聖書全体の文脈にそって語られなければ、悪魔でも使えるものとなるということです。 『『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです』 という箇所は確か詩篇からですが、イエスがその時に神の力を使ってそのようなことをするのは、聖書の文脈(背景)から外れていました。 なぜならダニエル9章にあるように、イエスは死ぬため、犠牲をささげるためにこの世に来たのであって、神の栄光と力を示すのは再臨のときだからです。 これは聖書全体でつらぬかれているテーマであり、イエスは「ヨセフの子」としてこの世に来ました。 「ダビデの子」として世を力をもって治めるのは、再臨の後です。 だから、ただサタンの引用した箇所だけを知っていて、他の個所、聖書全体を知らなければ多くのことを間違ってしまうということは確かでしょう。 だから聖書全体の文脈を知るためには、やはり ●聖書全体を通して読む という基本的なことが大切なことですよね。 だから、聖書を部分的に読むことほど危険なことは無いと言って間違いないでしょう。 エホバの証人や末日聖徒キリスト教(モルモン教)などは、部分的に正しいことを言い、部分的に聖書的なことを教えていますが、それが聖書全体の文脈にかなっていないから、偽キリスト教と定義されます。 聖書を読んでいると何度も出てくるテーマがあります。 たとえば「主の日」、「バビロン」、「メシアの到来(ダビデの子)」など他にもあるでしょうけこのようなテーマは繰り返し出てきます。 「文脈に力ありき」ということが正しければ、そこから導き出せる結論は ●聖書に何度も出てくるテーマは大切 だということでしょう。何事でもふたりの証人によって確認されるという律法があったように 「ふたつの箇所」「みっつの箇所」によって支えられたテーマははっきりとした聖書のメッセージとなるります。 これはヘブライ語では 「ビンヤン・アブ・ムシュネ・ケトゥビーム」(ふたつ以上の箇所から論拠を作る) といい、これはパウロの先生ガマリエルの祖父ヒレルが考案した聖書の読み方です。 これは七つの基準という中のひとつのルールです。 書簡で使徒たちもこの論理の組み立て方をしています。 「文脈に力ありき」というテーマ まだまだ書くべきことがありそうな感じがしますが、今日は夜も遅いのでここらへんで
|
日記
[ リスト | 詳細 ]
|
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、 神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。 あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから…』ヘブル5:11-6:1 このごろいろいろなことがあったので、神さまから教えられたことを書きたいと思います。 この箇所は手紙の著者が読み手を叱責している箇所です。 「神のことばの初歩」また「乳」とはこの箇所を読み進めていけば分かる通り、 ●死んだ行ないからの回心 ●神に対する信仰 ●きよめの洗いについての教え ●手を置く儀式 ●死者の復活 ●とこしえのさばきなど (ヘブル6:1-2) です。 年数からすれば教師になっていていなければならないのに。 この言葉が私たちに教えてくれていることは、クリスチャンは年数が経てば成長するべきだということです。 赤ちゃんは10年も寝転がって、ミルクを飲んでいるだけではなくて、ハイハイすることを覚えて、生えてきた歯を使ってかんで食べることを覚えないといけません。 同じようにクリスチャンも新生を経験してから、乳から堅い食物を食べれるようになれないといけないと教えられています。 でもそれにはしっかりとした順番があって、まず上に挙げた神のことばの初歩をしっかり学んだ後に、堅い食物に挑戦するべきなのでしょう。 では堅い食物とは何なのでしょうか? それはこの箇所を読むと 『おとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物』 とあります。 これについてこのごろ痛烈に教えられたので、分かち合いたいと思います。 まず、僕はどんな人間であるかというと、 もちろん、クリスチャンになる前は希望も目的もなく生きていたのですが、 クリスチャンになってからは、絶対聖書に従った人生を送りたいと願っていました。 だから、聖書を読んで読んでクリスチャンになると決めたときには半年ほどで聖書を一回通読していました。 今では救われて3年半くらいたっているのですが、聖書通読できた回数は5回です。 特に回数を重ねたからどうということはありませんが、(またそれを誇ってもいけないんですが、誇るほどにも多くないのかもしれませんが)聖書に妥協した人にはなりたくないというのが一番の願いでした。 そういう人間なので、不器用で、まっすぐにしか進めませんでした。 大学では商学部に入ったのですが、聖書的にどうやってビジネスをしたら良いのかを結構悩み、初めのほうはこんなん学んでもしょうがないんじゃないのかとか思い、授業を多くさぼっていました。(それは間違っていたと後になって気付いたのですが) またどうやってこの世のものとならずに、この世で生きていけば良いのかがさっぱりと言って良いほど、わかりませんでした。 近づきすぎたら染まってしまいそうだし、遠すぎればこの世から出ないといけなくなるし。 イエスがヨハネの福音書で 『彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします』(ヨハネ17:15) と祈った言葉は僕にはとても大切な言葉だと受け取れたのですが、同時に不可思議なことばでもありました。 そうこうしているうちに日本人が「就職活動」と呼ぶものに直面しました。 しかし、その時期になってもどうやって人のしもべにならずに、神さまのしもべとして日本の社会の中で生きていけるのかという疑問でいっぱいでした。 どの人の言葉を聞くべきなのか。 クリスチャンでない人の意見はどこまで信用できるのか。 なぜ神さまを信じていず、本当に大切なことに目を向けている人がこの世をうまく渡っていけるのか。 これらの疑問で僕の頭はいっぱいでした。 しかし、やはり答えは聖書の中にありました。 『堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です』(ヘブル5:14) 今でも僕が確信を持って言えることは、神さまの福音や聖書を受け入れない人、唯一の救いの道を退ける人は死後に救われないということです。 それこそ、回心と信仰がなければどんな人であってもとこしえのさばきに遭います。 これは世がどう言おうとも絶対に譲れないことです。 しかし、この世にものとならずに、この世で生きていくために知恵が必要だということに気付かされました。 その知恵をどこで得るのでしょうか? まず第一に神のことばである聖書でしょう。 次にその基礎の上に、未信者であっても、いろいろな周りの人からこの世のことを教わるべきだと思いました。 もし、聖書の基礎なしに世の人に教わってしまったら、どんなクリスチャンになってしまうでしょう。 「あ〜聖書はそう言ってるけど、こういう風にしたほうが要領がいいよ」 とか 「聖書の言うことは分かるけど、そのままばかみたいに信じてもいけないでしょう」 というようになってしまうことが想像できます。 なので、物事(確実にたましいの救いはその中に含まれませんが)を学ぶときに、 どれが良い物で、どれが悪い物かを見分ける力が必要になってこないでしょうか。 聖書の中で食べることは信じることと同じです。 なので乳を飲むということは、初歩の教えを信じること。 堅い食物を食べるとは、堅い食物のようなものを信じることです。 何を信じていいのでしょうか。 子どもに細かい骨のいっぱいある魚をあげないように、 まだ「食べれないもの」と食べれるものを区別して、選別できるようになるまでは 子どもにそれをあげるのは虐待であり、時にかなっていないことでしょう。 また、ステーキは体力がつくからといって赤ちゃんにあげても、 それを噛んでやわらかくする力がないうちは、意味のないというよりか、害のあることではないでしょうか。 でも成長したら、乳ばかり飲んでいるのは異常なことです。 だから同じようにクリスチャンも、良い物と悪い物が分かるようになったら、それに気をつけながら世のことを学ぶべきだと教えられました。 例えばこのごろ父親に渡された本の著者はダーウィンは最大の賢者だと言っていました。 でも、聖書から見ると彼のように無神論を広め、人を創造主から遠ざけるのに貢献した人はいないでしょう。 だから、神さまの目から見るとその罪は大きなものだと思います。 それだからといって、その本を退けていいのかというふうに僕は考えました。 この世に偽りの教えがどこを向いても存在するからといって、この世から出ることは明らかに神さまのみこころではないことが分かります。 ならどう生きていくかというと、良い物と悪い物を経験によって見分ける感覚を身に付けることではないでしょうか。 まだまだクリスチャンの幼子ですが、その感覚を身に付けて、世において鳩のように素直に、蛇のようにさとく生きていきたいです。 不器用でも、神さまは見放されないということも気付きました。 他の人からの忠告、たとえそれが未信者であっても、神さまはその人たちを使って忠告を与えられることを学びました。 このごろそういうことがあり、自分の小ささがわかり、何かを書くのも恥ずかしいくらいです。 でも、僕の失敗を読んで、誰かが僕と同じ失敗を避けれるといいなと思うので、こういうことを書きます。 誰かの役に立てれば幸いです。
|
|
このごろの日記 |
|
『イスラエル人は彼らに言った。 |
|
今日の朝、泊まりのバイトがあったのでそこから家に帰っていると、 |



