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遅ればせながら、フィリピンに行った報告をしたいと思います。
現地のこと、特に発展途上国のことを知ってもらうのは有益だと思うんでこれを書きます。
現地のパパイヤ(甘くておいしかったです)
僕たちは5月に結婚式をするので、その話を詰めようと思って今回行ってきました。
日本より大分暑いと思っていくと、今回はすずしい気候でした。おそらく13、4度くらい。
あっちの人は20度を下回ると寒いと感じるらしく、寒いさむいとよく言っていました。
僕のいつも滞在している場所では今は雨季で、ずっと雨。僕は雨に濡れて体を冷やした時に体調をくずしてしまいました。
またフィリピンから帰った後も数日してから、熱や風邪っぽい症状が出て、しばらくしんどい思いをしました。
(やっぱりそういうとこに行くと、大分日本と衛生環境が違うから適応するのが難しいんでしょうか)
何はともあれ、またそこに行ったことで少し学んできました。
バナナの”ハート”と呼ばれるもの
この上に載せた画像はバナナの心臓と呼ばれるものです。この黒い部分を料理したものを頂きました。
みなさん、バナナってどうやってバナナになるか知ってましたか。
この黒い部分が開いて、そこからバナナになる部分が出てきて(そしてたぶん受粉し)、外側に広がりながらバナナが出来上がります。
ということは、これ全体がバナナの巨大な花なんですね。(僕は驚きました)
現地ではなんでもないことだと思いますが、自然に接しているのと接していないのでは大きな違いがあると思いました。
そこで教えられたのがこれです。
神さまの被造物を見ながら育つのと、人の作ったものを見ながら育つのでは大きな違いがあるということです。
聖書を読んでいくとよく出てくるのが、「〜は何々のようだ」とあるものを象徴する表現です。
花のよう、木のよう、草のようなどなど
自然にあるものを使って神さまは多くのことを教えようとしています。
また自然界には神さまのミドラッシュが溢れています。
そして自然を見るとき、そこに神さまの知恵を見出します。
ですが人の作ったものには限界があります。そこには本当にわずかなミドラッシュ(象徴)しかありません。
多くの植物は花ができて、花が枯れてから、実がなります。
聖書を読みながら、これらのことを考えるととても面白いです。(私たちの栄華が衰えてから実がなる)
あっちの兄弟たちが木を切っている様子
今回行ったときに、あっちの兄弟たちは木をみんなで切っていました。
僕は横で「おもしろいな〜」と思って見ていましたが、僕は木なんて切ったことが数回しかないんで
「きっとあんな作業やったら筋肉痛になる」と思ってただ見ているだけにしました。
聖書の多くの箇所で木は人を象徴しています。そして木を切り、神殿の柱とすることは、人に伝道して教会の一部とすることを象徴しています。(→「神殿の象徴」の説教に詳細)
そういうことを考えながら見ていると、大変面白いんです。
彼らは大きな刀で木を切っていたのですが、この角度からあの角度からというように、何度も何度も刀を振り下ろします。その度に木の破片が飛び散って、とても力のいる作業です。
そしてしばらくすると、ギギギと音を立てて、木は倒れます。
その木はおそらくその後はただ燃やされるために使うんだろうけど、もちろん家を作る時にも同じように切り倒すでしょう。
これを見て学びました。(詳細はまとまってから説教にしますが)
私たちの伝道は木を切り倒すように、人をみことばの剣で切り倒すことです。
この角度から、あの角度から、あの問題、進化論、社会問題、その人のプライド、趣味、その日のニュースから、「聖書はこう言っていますよ。これが真実じゃないですか」
そうやって切り倒していきますが、もちろん時間がかかります。力もいります。
使徒たちは伝道するとき「説得」という言葉を使いました。私たちの伝道は真理による説得です。
そしていずれ木は倒れます。
その木の行き先はふたつあります。
神の家に組み込まれるか、ただ火にくべられ燃やされるかのどちらかです。
神さまは簡単なことを通して真理を教えようとしています。でも問題はそれに僕たちが気付けるかどうかです。
今キリスト教書店に並んでいるトラクトの多くがこの「木を切り倒す」ようなものではありません。(この頃行ってがっかりしました)
ただ「愛している」だけ言って、なぜ救われなければならないのか、なぜ罪深いのか、なぜ根本的に間違っているのかを説明していません。木はどちらにしろ倒される必要があります。
なので福音を伝えたときの反応は「喜んで受け入れるか、怒って出て行くかのどちらかだ」という考えは正しいものです。
(まだまだ学びたい人はこのミドラッシュを考えながら2列王記6:1−7を読んでみてください。聖書は神学的に大切なことだけ載せていて、神さまはどの箇所でも私たちに教えようとしています)
何はともあれ、そのようなことを学びました。
聖書はある面で発展途上国で単純な暮らしをしている人にこそ、分かりやすいものなんだなと思いました。
フィリピンの田舎の人たちは種まきがどんなことか知っているし、木の切り方を知っているし、自然がどう神の知恵であふれているかを実感しながら生きています。
(日本のコンクリートに囲まれた都会と比べてみてください。といっても移住を薦めているわけではありませんが)
前にも撮った鳥は大きくなりました
(七面鳥らしい)
といろいろ書いてきましたが、あっちにいたときに良い出来事がありました。
ある場所からバンに乗って帰っているとき、後ろのおじさんが「バイブル、バイブル」と言って何か話していたので、「聖書のこと話してるん?」と英語で聞きました。
彼はそうだと言って、カトリックの批判をし(これは正しかった)、いろいろ早口で語りはじめました。
大方僕は同意できましたが、結局何を言いたいんだと聞いてみました。
すると、「マヤのカレンダーはイエスが戻ってくるときを予言している」というのです。
「おかしい」と思いました。それで聖書に何か加えてはならないと書いてあると説明していると、
「わたしが真理だ(I am the truth)」と言いはじめました。イエスだけがその定冠詞がついた真理です。
それに反論していると、横にいた婚約者のジーンが「ヨハネ14章6節にわたしが道であり、真理であり、いのちであるって書いてあるじゃない」と箇所を引用して言ってくれました。
一緒に間違った教えと戦い、真理を守れたことを嬉しく思いました。
真理を擁護していると、真理に歩むのがより簡単になります。
今度は4月にあっちに行きます。
帰ってきたときにはもう結婚しています。何か早いですね。
いろいろ期待と不安はあまりないですが、聖書の神に頼っていきたいと思います。
あっちの教会で話した説教も時間があれば、ここに載せたいと思います。
あと、フィリピンのキリスト教の現状を書いて終わりたいと思います。
フィリピンのペンテコステ派の教会は全体的に終末論について知っています。
反キリストや千年王国のことなど。
ですが、学問的な学びは日本と比べれば残念なことに全然です。
牧師でもヘブライ語、ギリシア語の基本を知りません。
また僕の行っている島にはキリスト教書店がひとつもなく、船でルソン島に渡って買いに行くしかありません。
インターネットカフェは至るところにありますが、それで情報収集をする習慣は無いようです。
またキリスト教書店でも流行りの「繁栄の福音」の本がたくさんあるだけです。
そのような現状なので、きちんとした聖書的な本をプレゼントするととても喜ばれます。
英語で話せ、基本的な聖書の神学を知っている日本人クリスチャンなら、あっちで活躍できると僕は考えます。
僕たち日本人は多くの面で恵まれています。
外に出ないとこれは分からないかもしれませんが、富んでいたイエスが人となって貧しい人たちに仕えたように、富んでいる僕たちが何かフィリピンのために、聖書の教育、文書の配布、伝道など出来ることがあるのではないでしょうか。
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日記
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『また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」』マルコ4:24−25 この箇所を今日読んでいました。 なぜ持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っているものまでも取り上げられるのか。 聖書の理解についても、また神さまに与えられる啓示にしても、これは真実です。 マタイにある十人の乙女の話しで、油を持っていない乙女たちは持っている乙女たちに分けてもらえませんでした。光を放つための聖霊の照明を持っていなかったのです。 なぜ持っている人は与えられ、持たない人は持っているものまでも取り上げられるのか、考えていました。 そこで達した結論は、聖書理解は方程式のようなものであるというものです。 これを説明します。 僕は数学が苦手です。 今でも覚えている、苦手になったきっかけは高校の最初に十日ほど学校を休んだことでした。 そこまで特に数学が嫌いでもなく二次方程式(?)まではできていました。 ですが、高校に入って三次方程式をするようになり、少し難しくなりだしました。 そこで体調が悪くなり、十日ほど学校を休んでしまったのです。 体調が回復し授業に復帰すると、全然授業が分からなくなっていました。 なぜかというと、方程式はそれまで習ったことを前提にして、次々と進んでいっていたからです。 基本的なルールを知らないのに、応用にいける訳がありません。 そこから残念ながら、数学が苦手になってしまいました。 まさに持たない者は持っているものまで取り上げられることの分かりやすい例です。 信仰生活、また聖書の理解もこのようだと僕は思います。 ただ聖書の理解は、神さまのみことば(啓示)に基づいた方程式だという点が違います。 『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。』1コリント2:14 まず方程式を始めるには、新生する必要があります。 それがなければ、まず信仰の理解は何も得られません。 そして、次に初歩的な教えを理解する必要があります。 『この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』ヘブル5:11−14 ここはメルキゼデクのミドラッシュについて、著者は語りたいと主張しています。 メルキゼデクがどうキリストを象徴していたか。 それを理解するためには、基本的な聖書の教え(教理)を知る必要があります。 象徴を根拠に教え(教理)を作ることはできません。 聖書の明らかな箇所、歴史的な箇所をもとに教えは作られるべきであり、 象徴またミドラッシュは教えを深く説明し、彩るものです。 そしてここで明確にしておきたいのが、聖書の教えはただ単なる頭の理解にとどまらないということです。 ジェイコブ・プラッシュからミドラッシュの読み方を学んで、多くのことを教えられました。 僕自身、真実だと思っているのが、聖書の理解は聖霊と共に歩む生活を送っていないと進むことが無いということです。 これも説明します。 たとえば、みなさんモリエルの説教を読んでいる方は出エジプトの象徴を何回も読まれたと思います。 アブラハムはエジプトを出、イスラエルの民も富を携えエジプトを出、邪悪な王パロが裁かれ、1コリント10章では私たちもエジプト(世)を出たことが明示されていて、サタンが裁かれ、紅海を通ったように洗礼を受け、乳と蜜の流れる約束の地を目指しています。またイエスも幼子の時にエジプトを出、邪悪な王ヘロデが裁かれ、イスラエルの地に戻りました。そして出エジプトの最終的な成就は教会の復活と携挙であること。 とてもきれいなミドラッシュですよね。 ですが、これが真実だと分かるのは、実は私たちがそれを信仰生活で経験したからではないでしょうか。 この世ではパロの奴隷のように意味の無い苦役を強いられ、「クリスチャンになる」と言ったときにはパロの軍隊が追って来たように家族から反対を受け、今神を頼りながら荒野を行くように信仰生活を送っています。 なので、御霊によって実生活で見せられたことが私たちの聖書理解につながっているのです! これは方程式のようなものではありませんか。 またこれだけにとどまりません。 エジプトがこの世の象徴だと分かるとさらに多くのことが分かります。 まさに方程式です。x=エジプト ガラテヤ書でアブラハムの妻サラと奴隷のハガイが二つの契約にたとえられています。 約束による福音と、肉による律法です。 そして「女奴隷の子は肉によって生まれ」とあります(4:23)。 アブラハムは神の約束を疑ってしまい、肉によってイシュマエルを生みました。 そして後にイシュマエルはイスラエルの敵となったのです。 ここでハガイが何人であったかを、確認してみましょう。 『アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』創世記16:1 そう、エジプト人です! なのでアブラハムのその行為は、この世を頼って「実」を生みだそうとするクリスチャンのことを象徴しています。 これも僕たちが犯してしまいがちなことではないでしょうか。 教会に世を持ちこんで改宗者を得ようとすること。 みことばの約束を守らずに自分の努力によって行ってしまうこと。 ともあれ、ミドラッシュ、そして聖書理解は方程式のようなものです。 そしてそれは信仰生活と密接に関連があります。 また違う側面ですが、 この頃、神の国は今というものと、婚前交渉のつながりを理解しつつあります。 神の国は今という教えは今、ここが神の国であり、今繁栄すべき時だというものです。 そしてこれは結婚前に性的な関係を持とうとする欲望とまさに同じです。 今得たい、今楽しみたい、今栄光を受けたい、今誉れを受けたい。 キリストは地上でどのように生きたでしょうか。 人々からのけものにされ、馬鹿にされ、侮辱され、王に祭り上げられることを拒み、 鞭打たれ、十字架につけられ、死なれました。 私たちも同じように生きるべきではないでしょうか。 旧約の律法のもとでは、神殿の至聖所に入れるのは一年に一度、ただ選ばれた大祭司だけでした。 その他の日に、また他の誰かが至聖所に入ったなら、それは反キリストを象徴するものです。 人間の性的な関係も同じです。 聖められていない人が、定められた時以外に、女性の中に「入る」ならそれは反キリストと同じことをしています。 そしてさまざまなアダルトサイトでは、その「反キリストの行動」が良いものであるかのように宣伝されています。 これを知ると、「できちゃった婚」がどれほど悲惨なものか分かるでしょう。(もちろん、その罪の後にも神さまの恵みはありますが) またそのような性的な関係を誘惑する人が、まさに聖書の描く「偽りの宗教」と似ているかが理解できます。 偽りの宗教は派手で、見た目が良く、強調するのは「今」です。 もうすぐでアップされる『未来の教会史』に詳細がありますが、箴言7章は悪い、姦淫を行う女についての箇所です。文字通りのぺシャットは「淫婦」ですが、深い霊的な意味ぺシェルは「偽りの宗教」大バビロンです。 『この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。それで私はあなたに会いに出て来たのです。あなたを捜して、やっとあなたを見つけました。私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、没薬、アロエ、肉桂で、私の床をにおわせました。さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。』箴言7:13−18 またエジプトが出てきました。お分かりでしょうか。 なので、結婚外での性交渉は、まさに反キリストの行い、大淫婦バビロンの行いです。 大バビロンは最後にどうなるでしょうか。 『それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。』黙示18:8 ここまでのことをまとめると、 実生活がみことばと大きく外れているなら、聖書の理解は得られないし、得たくはないと思うはずだということです。僕も含め、大いにこれは気を付けることだと思います。 聖書のミドラッシュを理解するにつれ、聖書のみことばと現実の生活がおどろくほど密接に関連するようになってきました。 マナが朝に降り、昼には溶けていたことを読み、朝にみことばを読み、祈るようになりました。イエスさまはまことのパン(レヘム)です。 性的な罪は反キリストの霊に導かれたものだと実感しました。 今はまだ約束の地に至る前の荒野だと分かりました。 神さまのみことばと、いつも絶えることのない恵みのゆえに、もっともっと進むことができます。 数学の方程式は嫌いですが、聖書の方程式は大好きです。愛しています。 そして方程式を解くことをやめてしまうと また基礎的なことを理解しないまま放っておいてしまうと、 僕が最後の数学のテストで9点を取ったように、永遠における報酬はとても少なくなります。 学び続けること、 聖書の啓示を受け取り続けること、 いつも神さまから「聞く」こと、 それが大事なのではないでしょうか。 恵みによって 『持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます』
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過去に訳した説教ですが、 クリスマスシーズンが到来する前にもう一度紹介しておきます。 『クリスマスがやって来る』ジェイコブ・プラッシュ著 クリスマスを伝道用に用いるだけじゃなくて(それも有効な手段だと思いますが)、 クリスチャンがもう一度、「自分は本当にキリストの到来を望んでいるのか」 という問題を考えるきっかけとしてほしい。それが僕の願いです。 僕自身も真剣に考える必要があります。 「自分は本当に心からイエスの到来を望んでいるだろうか?」
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今回、8月31日〜9月7日までフィリピンに行ってきました。
今回はセミナーがあるとか、何か宣教目的とかで行ったのではなく、あっちにいる彼女(もちろんクリスチャンです)に会いにいきました。
その滞在の中で、日曜日の礼拝で行ったメッセージが前に載せたものです。
今回、フィリピンの目的地まで(首都マニラから6、7時間)初めてひとりで行きました。
その中で、フィリピンのことをより理解できた感じがします。
まずはフィリピンでの常識から書くと
●多くのトイレには紙が無く、手おけとバケツがある
●人が至るところにプラスチックなどのゴミを捨てる
●よく立ち小便をしている人を見かける
●田舎では手で衣服を洗う方法を知っているのが普通
●ベッドに甘いものを置いていたら、すぐ大勢のアリがやって来る
●夜中には「クエッ、クエッ」とか「ゲッコー、ゲッコー」というヤモリの声がする
●朝4時か5時くらいには鶏が複数で「コケコッコー」と鳴き始める
●ホテルの朝食のサービスの開始時間は「朝4時」から
●床屋で髪を切ると60円か80円ほど
●田舎の人の月収は2万円あれば良いほう
●ジュースはビンや缶に入れて飲まず、店の人がビニール袋にストローを刺してくれる
●誕生日には誕生日を迎える本人が周りの人をもてなす
●フィリピン人は朝にシャワーを浴びる(そして濡れた髪のまま学校などへ)
●洗濯機は無いけど、ケータイを持っている家庭は多い
●ジプニー(よく使う交通機関)の中で周りを気にせずにケータイで音楽をかける(イヤホン無し)
●経済的な理由で学校を途中で停学する人も多数 などなど
前にも書いたものもありますが、興味深いと思いませんか?
僕はこういう違いを見つけて、自分の常識が現地の人の常識じゃないと知るのが好きです。
また自分たちの状況を外から、他の視点から見ることはとても為になります。
そして、フィリピンという貧しい国から、私たち「富んでいる」と言われる国に住んでいる人が教えられることはとても多いと思います。
あそこに行くと気付くのが私たち日本人が知っていることは多いんだなということ。
また一方で、あっちの人のほうが明るく、日々を楽しく過ごしているように見えました。(まだ言語を習得していないので勘違いかもしれませんが)
私たち日本の教会は確実に「ラオデキヤの教会」であるということを思い知らされます。
やはりそこへ行くと、日本でも「お金が無い」と言っている人がいて、フィリピンでも「お金が無い」と言っている人たちがいます。
もちろん、比率で考えてもフィリピンのほうがお金がありません。
ですが、思うのがどの状況であっても人はお金が無いと言うということです。
なので、状況がどうあるかということは大した問題でないように思います。
今与えられている状況に満足しているか、置かれている状況に満足しているかが大事なのではないでしょうか。
と言っても、フィリピンの状況は貧困です。
フィリピンを象徴するようなある出来事がありました。
皆さんも知っているかもしれませんが、フィリピンでは賄賂や汚職がはびこっています。
新聞を見れば、そのようなことが経済欄に出てきていて、ある記事には賄賂が嫌になった日本企業が
フィリピンから撤退している、というようことが書いてありました。
フィリピンの大きな問題です。
今回の帰り道、あっちの家族は僕にたくさんの果物を持って帰れ、と言ってくれました。
僕は「日本に持って入れるかどうか分からない」と言いましたが、そんなん大丈夫だと
言われたので、スーツケースに詰め込みました。(結構たくさんの量)
そしてマニラの国際空港でのこと。
荷物チェックのゲートを通ると、「ちょっと来い」と検査官に呼ばれ、
やっぱり果物が持って出れないと言われました。
「あ〜それじゃあここで食べるか、捨てるしかないんだ」
とか言っていると、検査官が
「私はノーとも言えるし、イエスとも言えるぞ」
と言ってきたのです。もちろん、言いかえれば
「それ相応のお金を渡してくれれば、通してやっても良い」
ということでした。僕はその時思わず「ザッツ、フィリピーノ・スタイル!」
と言ってしまったのですが 笑
もちろん聖書で賄賂は悪いと書いてあるので、賄賂を渡さずに果物をあきらめました。
後で分かったのが結局日本に持って来れても、日本の関税でひっかかるということでした。
正義は国を高めます。
逆に不義は国を貶めると言えると思います。
あんなに果物などの資源が多い国で、あんなに貧しい原因のひとつは
「賄賂」だと思います。
もちろん、これは政治的な運動で改善されるものじゃなくて
真実の福音が宣べ伝えられる時に、改善されるものだと思います。
(社会が改善されうる最も効果的な方法は、社会が真理の福音を受けれることによって始まると僕は確信しています)
(道端に落ちた種を鳥が食べないように、耕しましょう)
以前、ある人に僕は尋ねました。
「福音とは何ですか?」
その人は「聖書全体だ」と答えました。うん、そうだなと思いました。
聖書のテーマに反することをしながら、「私たちは福音を信じているから」というのは矛盾していると思います。
モリエルがやっている奉仕はそのためだと僕は思います。
聖書全体を理解し、聖書全体を貫くパターンを確認し、終わりの時代(新約時代)に示された福音を正しく伝え、理解することは本当に大事です。
ジェイコブがよく警告しているのは「この世での繁栄だけを約束する説教者たち」です。
この頃次の箇所を読んでいました。
『兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。』ピリピ3:17−20
この通りだと思います。
彼らの思いがこの地上のことだけになっているのは、十字架の敵となっている証拠です。
パウロが涙をもって言うのなら、当時でも相当大きな問題だったのでしょう。
聖書全体を知ると、すべてが十字架につながっています。
そして十字架が必要なのは罪があるからです。
その「事実」、罪があるということを忘れてしまうと、私たちは簡単に十字架の敵になってしまいます。
フィリピンの空港内の本屋を興味を持って見ていると、
そこにはキリスト教のコーナーがありました。
ですが、本の著者たちはジョイス・マイヤーやジョエル・オスティーンなどで
「あなたはお金持ちになれる」「あなたならできる」など
聖書の十字架とは違うメッセージを伝えている人ばかりでした。
どのような人が「あなたはお金持ちになれる」というクリスチャンの本を買うのでしょう???
お金は悪くはありませんが、お金への愛・金持ちになろうとする欲は聖書の中で何度も警告されています。
売れる本がそういう本だから、一般の本屋にも並べてあるのでしょう。
ともあれ、僕は特別悲しいことや、悪いことを書きたいのではありません。
知ってほしいなと思ったからです。
今回特に面白かったことがあります。
行きの飛行機の中でのことです。
僕は英語の説教を読み、フィリピンのタガログ語を勉強していました。
隣には中年のおじさんがいて、少しずつ喋るようになりました。
そうすると、そのおじさんが、
「君、日本語勉強してるんですか?」
と尋ねてきたので、
「いや、違いますよ」と言いました。何か変だなとその時思っていました。
そして少し話していると、
「日本へは遊びでやって来たの?」
と聞かれたので、
「いや、僕日本出身ですよ」と答えました 笑
彼の目にはフィリピン人か、フィリピンと日本人とのハーフに見えていたようです。
まあ、僕は日本に住んでいても日本人らしくないので、大して気にはしませんでしたが…笑
また聖書には僕たちはこの世において放浪者、一時的な滞在者だと書いてあるので
その意味でもよかったのかなと勝手に思っています。
何にせよ、現地の家族とたくさん喋れたので、今回の旅は満足でした。
珍しい現状報告となりましたが、他国のことを知って私たちが自国を省みられるようになれば幸いです。
また世界は日本だけじゃないということも、このストレス社会日本で住んでいる人にとっては
慰めになると思います。ここはときに息苦しい国です。
福音の宣教によって、神が日本を、僕たちの周りの状況から変えて行ってくださるように!
しかし、何にもまして大事なのは、私たちの国籍が天にあると確信することだと思います。
この堕落した世は私たちクリスチャンの目的とする場所ではありません。
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『ゼデキヤ王は人をやって彼を召し寄せた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った。「主から、みことばがあったか。」エレミヤは、「ありました」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。』エレミヤ37:17 退廃したイスラエル人、ユダに向かって 「バビロンがやって来て、あなたを攻める」 「降伏しなさい」 と主からの言葉を伝えていたエレミヤは投獄されました。 この時に言った言葉が上のものです。 王:「主から、みことばがあったか」 エレミヤ:「ありました」 エレミヤ:「あなたはバビロンの王の手に渡されます」 なんと大胆なのでしょう!!! そして私たち日本のクリスチャンが抱く、クリスチャンの理想像とどんなに違うことでしょう。 事を荒立てないのが僕たち日本人の特徴ですが、神さまはクリスチャンにご自分の基準を知ってほしいと確実に思っています。 エレミヤはイエスの象徴でした。 事実、イエスはエレミヤと同一視されていました。 『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」 』マタイ16:13−14 私たちはイエスさまのようになるべきです。 そしてイエスさまがエレミヤのようであったように、 エレミヤのようになるべきです。 未信者の人:「聖書は私について何か書いていますか」 僕たち:「はい、書いてあります」 僕たち:「悔い改めないと滅びると書いています」 そして、どのように神さまを信じない人は、神さまに逆らっているかを説明すべきではないでしょうか。 ちょうど僕たちが以前そうであったように。 嘘、不品行、ギャンブル、酒に酔うこと、神さまを知らない人生、陰口、怒り、そしり、見せかけだけの人生、経済力だけに頼る人生、滅びゆく人にだけ頼る人生… 退廃した世に啓示されている神さまの言葉は 「私のところに返りなさい」 です。 そして天から御怒りが啓示されています。
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