だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

聖書ってどんな本?

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「あなたは罪人です!」

上の言葉を聞いてみなさんはどう思うでしょうか?

「そうだ、本当に自分は罪深くてだれにも許してもらう資格なんてない」
または、
「なんてことを言うんだ!私はあんなことやこんな善いことを行ってきたのだから、罪人のわけがない」
と言うかもしれません。
あるいは、
「そんなこと考えたことがない」
と言う人もいるでしょう。

聖書はどのように言っているのでしょうか。

『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』

そうです神の前に義(正しい)と認められるものはいないのです。わたしもそのひとりです。

人の前ではあなたの善い行いは非常にもてはやされ、好評を受けるかもしれません。

しかし、すべてを知っておられて、あなたの心のうちを知っておられえる神に対してはどうですか?

神さまの前に出て「私は潔白だ!」と言えますか。

あなたの隠れた行いを思い出してください。だれも見ていないところでしたあなたの悪行は、神にはしっかっかり見えています。

『わたしは近くにいれば、神なのか。−主の御告げ−
遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れた所に身を隠したら、
私は彼を見ることができないのか。−主の御告げ−
天にも地にも、私は満ちているではないか。−主の御告げ−』エレミヤ書23:23−24

あなたの犯した多くの罪はあなたの善行で、あなたの正しさで償うことは出来ません。

『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。』イザヤ書64:6

あなたの義(正しさ)は神の前には不潔な着物のようなのです。(原語は女の生理の時の着物のことです)
そのようなものを頼ることは到底できません。あなたにはそれが輝いた、金や銀の着物かもしれません。

わたしもそのことを実感させられました。わたしは信じる前は自分の行いによって、天国に行こうとしていました。
今日こそは悪いことをひとつもしないでおこう、と思っても出来ないのです。
物を盗みます。人を傷つけます。陰口を言います。心がよこしまです。
表にあらわれたものは私の内に何があるかを示します。

『また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 』マルコ7:20−23

なんて私たちは汚れているのでしょうか。
そして、神はなんと見事にそのことを言い表しているのでしょうか。
これらのことは私たちがひとりひとり考えていることではないですか?

このような汚れたものが、神さまによって天国に入れるわけがありません。
なぜなら天国にはもはや、死も涙も苦しみもないからです。

しかし、神は義なる神であると同時に、恵み深い神なのです。
どうのように恵み深いのでしょうか?
「こんなふうにおれを罪定めして何が恵み深いんだ」
と思う方があるかもしれません。

しかし、もし、恵み深い王様がいたとして、
「わたしは恵み深いから、すべての殺人犯を釈放してやろう」
と言ったとします。果たしてそれは恵み深いのでしょうか?
解き放たれた殺人犯たちは何をするのでしょうか?

神さまはまず、正しいことは正しい。悪いことは悪いと言わなければなりません。
しかし、それで終わりではありません。

神は私たちが自分の罪深さのために、滅びるのをよしとせず、救いの道を与えたのです。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』ローマ人への手紙3:23−24

イエス・キリストとは神であり、人である方でした。
私たちの創造主がその造ったもののために苦しんで死んだのです。
「神なら痛みを感じないんじゃない」
という方がいるかもしれません。あいにくそうではなかったようです。
なぜなら、
『このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。』1ペテロ4:1
とあるからです。神が人となってこの世界に来たのです。
それも自分の力を自慢する、裁くためにではなく、苦しんで死ぬためにです。
それもあなたの罪のためにです。
あなたがその罪の裁きを受けないためにです。

あなたはこの救いを受取りますか?信じますか?

『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』ヨハネ3:36

わたしたちは神さまについてどんな印象を持っているのでしょうか。

ある人はサンタクロースのような「のほほん」として、人間のしていることに干渉しない神さま、
あるいは、いつも厳しくどんなことでも赦さない神さまを想像するかもしれません。

しかし、聖書の神さまはどんな神さまでしょうか。

まず第一に、創造主なる神です。
神は世界すべて、人間を含むすべてを創りました。
あなたもわたしも造られたのです。
次のような聖書の箇所があります。

『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。』使徒17:26−28

私たちは神に造られたもので、神の中に生きているのです。
そして、あなたが神を探り求めることでもあれば、神を見出すこともあるというのです。

驚くべき言葉じゃないですか?

天地を創られた神を見つけることができるのです。
もちろん神さまは私たちに見つけてほしいと思っています。

それでは、なぜ神さま自身が現れて、信じろと言わないのでしょうか?

神は見えないと聖書は言っています。
他の箇所では、神を見てしまうと死んでしまうといっている人もいました。

次に、神さまはあなたの自由意志を大変尊重します。
あなたが神さまを知りたくない、見つけたくないと思っているなら神さまはそのようになさるでしょう。
しかし、自分を愛してくださっている神さまって、どんな方だろうと知りたがっている人には、神さまは自分を現します。そして、あなたはこの方こそ本当の神だと知るのです。

神さまは自分の造ったものを苦しむまま放っておかれるのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。

しかし、あなたは神さまを知りたいと思っていますか?

不品行(性的にみだらなこと)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊(酒に酔うこと)、遊興などを嫌われて、

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を愛してやまない神さまを知りたいと思いますか?

不品行は多くの問題をこの社会に引き起こしています。
妊娠中絶、みだらな性行為、欲望だけを追い求める関係、テレビを見ているとそのようなもので溢れかえっています。
そのようなものから何か良いものは得たでしょうか?
いつも後味が悪く後悔をうむだけではないでしょうか?
神さまは人間にとって何が最適かをだれよりも知っておられるので、警告しているのです。

「わたしのところに来て、わたしの言葉を聞きなさい」と

なぜなら彼は人間を造ったからです。彼はどこをいじったらどうなるかを全て知っています。

次に、偶像礼拝とは何でしょうか。
本当の神さま以外の創られたものを拝むことです。
実際の仏像などは言うにおよびません。

聖書は次のように言っています。

『あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。
貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。
あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。』イザヤ40:28−21

神さまは自分の手で造れるものでしょうか?
もし造ったと自分で思っていても、それはただ単なる金や銀や鉄、石や木にすぎません。
神さまをそのようなやがては朽ちるものとすることは出来ません。

しかし、仏像のような像は造っていなくてもあなたの心の中にある偶像はどうですか?
あなたは好きなアイドルがいますか?
英語でidolは偶像という意味です。
あなたがいつも心に抱いて、あがめている物、人それが偶像です。
あなたの偶像は何ですか?
ある人は仕事、ある人は趣味、ある人は恋愛、またある人は夢かもしれません。

そのようなものが永遠に続けばいいのですが、どれも一時的なものです。
私たちは裸でこの世に生まれ、裸で去らなければいけません。
それらはあなたが死んだあとも持っていけますか?
それらは絶対的な正しさを持っていますか?

誰もだまされてはいけません。
永遠に存在し、この世界を創った方である神さまこそ私たちは崇めるべきであり、
私たちと永遠の関係を持ってくださる方なのです。

しかし、あなたがこれを読んだのに続けて、その不品行や偶像礼拝の罪を愛していくと決めたらどうなるでしょうか?
神さまはその人に対してどのようなことが出来るのでしょうか。
神さまは悲しみながら、あなたをあなたの罪のゆえに裁くしかありません。

神さまに喜ばれる人とはどのような人でしょうか。
今まで、何も罪を犯したことがなく、汚れを知らない人でしょうか?
そんな人はだれもいません。
なぜなら聖書にはこうあるからです。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』 ローマ3:23

すべての人が罪を犯しました。
それは隠れた罪でも、明らかな罪でも変わりはありません。

神さまはいつでもこう呼びかけています。

『(そういうわけですから、)あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。』 使徒3:19

そして、どんな重い罪を犯していた人でも、もしその人が悔い改め(神さまが正しくその方の言われる通りに生きていきたいと心に決め)るなら、神さまはその人を受け入れ、あなたは神さまとの関係を持ちます。

神さまはあなたを愛したいと思っています。実は、日々太陽を注ぎ、雨を降らせ、季節を変え、私たちが生きるのに必要なものを与えてくれていますが、
それは一般的な恵みです。
しかし、きよい神さまはあなたの罪のゆえにあなたに近づくことが出来ません。

じゃあ私たちはどうしたら良いのでしょうか?

先の箇所でもあったとおり、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

キリスト・イエスによる贖い(あがない)とは何でしょうか。
贖いは買い戻すという意味です。
あなたがこの世に、悪魔、罪の奴隷として売られていたのを神さまは買い戻し、自分のものとなさる
という意味です。
何かを買うときには必ず代価がひつようです。何かを払わなければなりません。

神さまは何を払ってくれたのでしょうか?

そのひとり子であるイエス・キリストです。
イエスが十字架で死ぬという代価があったからこそ、私たちは価なしに義(正しい)と認められるのです。
あなたのためにイエスは十字架上で苦しんで死にました。

あなたは神さまのなさったことを自分の罪深さのためだと認めますか?

それとも、彼の流した血をなにもなかったように無視し続けますか?

あなたを溢れんばかりの愛で愛してくださる方がいます。
その方の差し伸べている手をとりませんか?

この救いをうけ入れる人は次のように祈ってみてください。

「神さま、驚くほど罪深く、汚れた私を赦してください。
私は今まで偽りの偶像により頼んできました。
あなたが真実の神です。なぜならこんな罪深い私のためにひとり子を死に渡されたからです。
どうか私をきよめてください。あなたの救いを受取ります。
神のひとり子、イエス・キリストの名前によって祈ります。アーメン。」

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現代の日本ではこの質問を考えて、考えて、悩んでいる人が多いのではないのでしょうか。

まず何をするにも目的があるのに比べて、自分自身の目的がはっきりとしない。

目は見るという目的があり、耳は聞くという目的があり、鼻はかぐという目的があるのに、
自分全体の目的は何なのでしょうか?

目的を考えるときに一番大事なのは、はじまりと終わりです。

それが何であっても、どうやって始まったかどのように終わるかを知れば、その目的が分かります。

もし、わたしが土からコップを作るとします。
まずそのはじまりは、わたしがコップをほしいと思うことから始まります。
そして、その思いに従って、順をおってコップをつくりあげていくのです。

まず底をつけるかもしれません。次に上のほうにコップの側面を作っていくかもしれません。
そして、最後に取っ手をつくるでしょう。

私はなぜ、底の部分を作るのでしょうか。
それは水を入れても、もれないためです。
私はなぜ取っ手をつくるのでしょうか。
私が持つときに持ちやすいためです。

最後に焼いて、それを完成させるでしょう。

それはわたしがそのコップを使って飲むためです。
それが最終的な目的です。

それでは、私たち人間はどうなのでしょうか?

まず世間一般に言われていることから考えていきましょう。

なぜか何も無いところから、爆発が起こり宇宙が誕生しました。
そして、その爆発によって生まれた秩序が、地球を偶然作り出し、
その地球の「原始スープ」なるものからはじめの単細胞生物が偶然に生まれたと言うのです。
そして、その偶然によって生まれた生物はさらに偶然を重ねて、人間まで何前万年をかけて進化したのです。

これを見てみなさん気づいたことはありませんか?
もしこの世界観が正しければ、偶然によって始まり、物質に過ぎない人間は死んだらもう終わりなのです。

その過去を目撃した者はいません。

しかし、聖書は神のことばであると自らを証言している通り、みごとにこの世界を説明しています。

「はじめに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

これが聖書の始まりのことばです。神は六日間ですべてを創造したと書かれています。
人間も創造されました。神が私たちの始まりの原因です。偶然ではありません。

しかし、造られた人間は神に反抗しました。
「神のようになりたい」と思い、悪魔の誘惑に落ちたのです。

これが始めの人間(アダム)の罪です。

これが今の人間のいつも考えていることではないでしょうか。
「あの子よりかわいくなりたい」「みんなからすごいと言われたい」「他人を悪く言って、その人をおとしめたい」
要するに、自分が神になりたいのです。

そのことによって神が造った世界に罪が入りました。
人々は憎しみ合うようになり、善意で何かをしていると思ってもそこには何かしらの「自分の利益」が入り込んでいます。
そうです。私たちは「自分の利益」がないと物事をしないのです。

しかし、そんな人間たちを見て神はかわいそうに思いました。こんなに神に反抗して歩んでいる人間に対して、神は憐れみの心を持ったのです。
そして、神はそのひとり子であるイエス・キリストをこの世におくりだしたのです。
私たちの罪はその人の永遠の死によってしかつぐなうことはできません。
私たちは死後にこの人生で行った罪の裁きを受けなければならないのです。
しかし神はそんな罪深い人間を救うために、ひとり子にその裁きを負わせたのです。

そのひとり子を十字架の死にまで追いやるほどに神は世を愛したのです。

私たちの目的は神と共に歩むことです。そして、イエス・キリストの十字架を自分の罪のためだと信じて、永遠の命を持つことです。

神はあなたのために、永遠の命、救いを用意しています。
あなたの罪深い生活を悔い改めて、神にたちかえりませんか?

すべてこの世で起こる問題の原因は人の罪です。
あなたは自分を自分の罪で悩ませています。
その罪を、あなたが悔い改めると、清めてくださる方がいます。

私たちは神に造られたコップなのに、自分勝手な使い方をしたいと思っていました。
私たちは夢や名声という花をそのコップにいけようとしていました。
しかし、そのために造られたのではないので、もちろんぴったり合いません。

神はそのコップに新しい命と、神の聖霊を入れてくださいます。
もちろんこれはあなたの選択です。

永遠に続く神の目的のために生きてみませんか?

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聖書ってはじめて読むと難しいですよね。

それは誰もが感じることだと思います。
 
聖書の中に出てくる人もそう感じました。

『ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。
彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。 』使徒8:26−31

この宦官(去勢された召使)は旧約聖書のイザヤ書を読んでいたのですが、導く人がなければわからないと言ったのです。
まさに私が聖書を始めて読もうとしたときと同じでした。

私には幸いにも導いてくれる人がいたのですが、その人に教えてもらわなければ多くのことを誤解していました。

あなたも「聖書を読んでみたい!でも何か難しそう」と思われているならコメントにでも書き込んでいただければ、説明できるところは喜んでしたいと思います。

さて、この宦官は次のような箇所を読んでいました。

『彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。
彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」 』使徒8:32−33

この箇所を読んで宦官は次のように疑問を持ちました。

『宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」』

あなたはだれのことを話していると思われますか?

これはまさにイエス・キリストのことです。

彼は偽りの訴えによって、裁判にかけられたときも『ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開』きませんでした。
なぜ口を開かなかったのでしょうか?
彼は何か悪いことをして捕まったからでしょうか?

いいえそんなことはありません。

ねたみに燃えた宗教指導者たちによって、不正に罪を被せられたのです。
それはイエスが多くの奇跡を行い、多くの人を宗教指導者たちの偽りに気付かせていたからです。
それに多くの人が彼を預言者(神から言葉を預かる者)であり、キリスト(旧約聖書で予告された救い主)だと認めていました。

彼は神のひとり子でありながら、そのような偽りの訴えに耐えられたのです。

それは何のためにでしょうか?

それは彼自身が十字架という刑にかかり、その血を流し、死ぬためでした。
彼は、この世の罪を赦しに来たのです。

私たちの多くの極悪な罪の裁きをご自身が受けたのです。
本来なら、私がしたわるい事の裁き、報いは私が受けるべきです。
私の罪は私が死ぬことによってしか赦されません。

しかし、彼がその罪を負うことによって、私たちを赦したのです。

彼は十字架にかかり、死にました。

そのことを信じることによって、あなたは死後待っている裁きを免れることができるのです。
イエス・キリストの十字架の死はあなたにとってプレゼントです。
受け取るか、受け取らないかはあなたの選択です。

しかし、私はこれを読んでいただいた人みんなに受け取ってほしいのです。
イエスがあなたの罪のために、十字架の死をも耐え忍んだことを。

最後になりますが、彼は死んだままではありません。
三日目に復活しました。
「それは科学的にありえない!」といわれるかもしれません。
しかし、それは奇跡ですから科学という枠を超えています。
奇跡は起こったか、起こらなかったかでしか判断することはできません。

しかし、この十字架の死と復活を受け入れたものが当時のローマ帝国を変えたのです。
歴史、世界史を変えました。
もし、復活が嘘なら、どうしてキリストの十二弟子たちはそのために死んだりしたのでしょうか。
嘘のために死を選ぶ人はありません。

あなたは十字架の死を自分の罪のためと信じ、
復活を自分の希望のためと信じますか?

信じる人には永遠のいのち(一度死んでよみがえる)が与えられます。

そして、今この瞬間から新しい人生が始まります。

あなたもこの祝福に入りませんか?

そのオーストラリア人の先生に会って、私はまだ十代であっても人生について深く考え始めました。

果たして自分はどこから来たのか、もし自分が考えていたように、人間はアメーバのような単細胞から

もっとさかのぼれば、無機質から偶然に目的も持たずに生まれてきたということが本当なら、

最終的な目的は無いのだということも気づきました。

テレビはよく「あなたは何億もの偶然の中に生きている。なのであなたは貴重な存在です」って言うけど、

目的ということから考えると、全く無いということに気づいていませんよね。

それに進化の考えを突き詰めると、強いものが弱いものを滅ぼすということは、

優秀な遺伝子が残るので、人間のためになりますよね。

学校では進化論を教えながら、同時に道徳の時間に「弱い子をいたわりなさい」と教えているけども、

それは私は個人的には矛盾していると思います。

このようなことは、進化論がどのようなものかをはなしてきたわけですが、

実際に進化論は科学的なのでしょうか。

私の信じている聖書は「あるとき(何十億年前ではない)にひとりの神が、目的を持って、すべてをその『種』に従って、造られた」ということを主張しています。

これを私たちは創造論と呼んでいます。

この問題を考えるときにはじめに明らかにしておかないといけないことは、

「人間には誰も確認のしようのない過去」だということです。

なのでロケットを宇宙に飛ばしたり、薬を調合したりする実験科学のように今実験することはできないのでうす。

では何も私たちは知ることができないのでしょうか。いいえ過去の証拠によって過去がどのようであったかを推測することができます。

推測は人によって大きく違います。同じ証拠をもっていても違う結論が出されるのはそのためです。

しかし、正直な観察によって得られた結論は信頼に値します。

化石がそのひとつです。

私はそのオーストラリア人の先生に、「進化論ではこういうような証拠があるけど、どうなんだ」

と質問を浴びせていきました。

すると、彼は『種』の中での変化はあるが、『種』を越える変化はないと言いました。

ダーウィンはガラパゴス島でフィンチやゾウガメの変化を見て、これは生物の進化全体に当てはまるのではないかと推測して、

進化論を提唱したのです。しかし、フィンチはフィンチであり、ゾウガメは亀なのです。

サルから人になっていく、進化の生きている証拠を見たわけではないのです。

猿人とサル+人間の化石の数はどちらが多いのでしょうか。

常識から言えば、サルから途方も無い時間をかけて人間に進化してきたわけですから、

猿人の化石の数が、サルや人間の化石よりも多くなくてはいけませんよね。

しかし現実を見て見ると、明らかにサルや人間の化石は多く出るのに、

猿人と呼ばれるものはほんのわずかしか出てきません。

ダーウィンはその「生命の起源」の中で、時間が経てば調査は進み、あらゆる地層が調べられると、

中間の生物はもっと発見されるだろうと、述べています。彼自身の時代には全然発見されていなかったのです。

そして今の時代も変わらず、疑わしいものが発見されたり、偽造されたり、ネブラスカ人のように絶滅した豚の歯が猿人のものと考えられたりしますが、信頼できる証拠は見つかりません。

もうひとつ進化論にとっての大敵が生物の複雑性です。

ダーウィンも人間の目のような複雑なものは、偶然によっては説明するのが難しいと告白しています。

最近出された進化についての雑誌を見ても、目の複雑さは科学者たちを驚嘆させるものであり、説明が出来ないことを公表しています。

なぜなら目は網膜や水晶体や角膜や筋肉やいろいろな要素が、決まった位置に全てそろわないと意味をなさないからです。

目の目的は主に見ることですよね。これはだれもが共感することだとおもいます。

しかし、その目を含んだ、複雑さに満ちた人間の目的は何なのでしょうか。

目に目的があって人間に目的が無いのは変ではないでしょうか。

もちろん目的はその場限りのものではありません。

よくテレビでは「夢を持てばうまくいく」とうたっていますが、夢は何十年かは続いても、

人間の目的ではありません。

聖書のことばには次のような箇所があります。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」2コリント4:18

私たちの目的とは何でしょうか?

                                          →つづく

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