だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

聖書ってどんな本?

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

聖書の中には「私のいのちを取ってください」と神さまに願った人が多くいます。

ふたりあげると、

預言者ヨナ。彼は自分が神さまに語れといわれたことを語るのを恐れ、

船で遠くに逃れようとしました。しかし、天と地とを創った神からは逃げられるはずもなく、

結局は、その最初に行くはずであったニネベで罪の悔い改めを説きました。

そうしたら、そこの人々は一日で悔い改めました。

その後に「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」 と言ったのです。

それは自分が偉業をなしたのではないことを知ったからでした。

一度逃げて、神さまによって連れ帰されたところで自分は少しも偉大ではないことを知ったからです。


もう一人は預言者エリヤ。彼はアハブという堕落した王の前で、奇跡をなし、

偶像(バアル)に仕える者たちを捕らえて殺しました。自分は偉大なわざを成し遂げたと彼は思いました。

しかし、彼はその直後、アハブの妻であるイザベルがこう言うのを聞きます。

「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

それを聞いたエリヤは荒野へと遠く逃げます。そして、エニシダという木の下に座りこう言うのです。

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」1列王19:4


どちらも興味深いのですが、今日はエリヤについて見ていきましょう。

彼はそのように「死にたい」と神さまに言いながらも、木の陰に座っていました。

イスラエルの荒野は非常に気温が上がります。ある人は荒野に日中に居れば体内から1リットル以上の水が、
一時間で無くなるそうです。

そんな状況ですから、エリヤは本当に死にたければ、その木の陰から一歩外に出れば簡単に死ぬことが出来たのです。

しかし、エリヤはそうしませんでした。自己矛盾を犯しているのです。

自分はすごいという状態から気が抜けたときに、「殺すぞ」と言われたことで、

このような死にたくなったエリヤはほんとうには死ぬことができませんでした。

それは心のどこかで、「生きたい」「救われたい」と思っていたからではないでしょうか。

それを表には出しませんが、その行動から明らかです。

「死にたい」と思っている人も本当は今死ぬことが本当の解決ではないと知っているのではないのでしょうか。

エリヤは独り言を言ったのではなく、神さまに向かって「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と言いました。

あなたは神さまがどんな方か知っているでしょうか。

私たちを創った方です。私たちに心を与え、その中に律法(道徳)を書かれたかたです。

過去に背いてもなお、今叫べば必ず救ってくださるかたです。

エリヤもそれを知っていたでしょう。その方に向かって叫んだのです。

私たちは救いを求めるときにも、求める相手が間違っています。

やがて消える人間に救いを求めても救われません。

偶像の神に求めても、彼らは目があっても見えず、口があってもしゃべれませんから、何もできません。

彼らは運んでもらわないと、自分では動くことすらできないのですから!

聖書の神に向かって叫んでください。イエス・キリストを救い主として送ってくださった方に対して祈ってください。
唯一の神に信頼して叫べば、決して無視はされません。

神はエリヤに対してどのように答えたのでしょうか。

『彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。』1列王19:5-7

御使いを送ってパンと水を与えたのです!

神さまはあなたの体に必要な物を与えられるでしょう。

しかし、それは霊的な食べ物でもあります。

聖書はパンをイエスの象徴と教えています。彼は自分を「いのちのパン」と呼びました。

神さまはそのひとり子を、世を愛したために、世の罪を負わせて十字架に掛けました。

いのちのパンはその体を裂かれたのです。私たちはイエス・キリストの言ったこと・教えたことを信じます。
信じることは食べることと同じことです。

『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』ヨハネ6:35

水とは聖書では聖霊の象徴です。

神さまは求める者に聖霊をお与えになります。

『だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』ルカ11:10-13

聖霊は私たちに罪に関して、義に関して、裁きに関してを教えます。
『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』ヨハネ16:8

そして、神と交われるようにします。イエスキリストを通して、聖霊によって神さまとまじわるのです。

パンと水を与えられてエリヤはどうしたのでしょうか。

彼は神の山ホレブへと行きました。それはモーセが十戒を授かったところです。

いわば原点に帰ったのです。

自分はなぜ神さまに信頼を置いたのか、なぜ従おうと決意したのか。

言い換えると、なぜ神さまが必要かということを再確認するためであったともいえるでしょう。

あなたは神さまを必要としましたか?

もし、必要としていなかったなら、今求めてください。

必要ではないと言いきれますか?神さまは多くの場面を通してあなたが弱く、罪深いということを示していませんでしたか?

それにこのブログを読んでいる時点で、少しは神さまを必要としているということです。(なぜなら聖書のことしか書かないからです。)

過去に必要だとおもったのなら、なぜ今は必要ではないのですか?

あなたは陶器のように造られたのに、陶器師が必要ではなくなったのですか?

全能になったからですか?もちろんそのようなことはありえないことです。

あなたの心には良心という神さまによって書かれた律法があります。

それが神さまに造られたという証拠ではありませんか。

殺してはならない。盗んではならない。欺いてはならない。姦淫(浮気など)をしてはならない。

すべてこころに書かれていませんか?

エリヤも原点に帰ったことでしょう。

そこで彼は神さまに訴えました。

『エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」』1列王19:14

神さまは何と答えたでしょう。

『主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」 』1列王19:15-18

悪い王を王座から下ろし罰するといわれたのです。そして、あなたは一人ではない。七千人の偶像に仕えなかった者がいると。

神さまは原点に帰った者には正義を与えます。そして協力者を与えます。

しかし、自分の罪の悔い改めがはじめになくてはなりません。

律法を知れば知るほど、自分は神さまにふさわしくないことが分かります。

そして、へりくだった者には神さまはこのようにされるのです。

「私のいのちを取ってください」と言っているあなた!

真に生きることとはキリストとともに自分も十字架にかかって死んだと認めることです。

あなたはすでにキリストと一緒に死んだのですから。

神に向かって生きようではありませんか!

『カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。』1ヨハネ3:12



聖書をはじめから読んだときに、カインの話が出てきます。
カインとはアダムとエバが初めて産んだ子供で、彼の次にアベルが生まれたとあります。

それではは聖書自身を読んでみましょう。

『人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得

た」と言った。 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を

耕す者となった。 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、

アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目

を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒

り、顔を伏せた。 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を

伏せているのか。 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行な

っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治める

べきである。」』創世記4:1-7


アベルの何が悪くて、神さまはその作物に目を留めなかったのでしょうか?
彼の何が悪かったの?と思いませんか?

私もそう最初は思ったのですが、これは聖書全体を見ることで、解決できる問題です。

まず、カインは地の作物を、アベルは羊をささげ物として持ってきました。
ではなぜ、彼らはささげ物をしたのでしょうか。

ささげ物をするのは第一に私たちが罪人だからです。罪を犯した者は神さまの赦しを受ける必要があります。そして、その赦しを受けるためにはいつでも『血』が必要なのです。
『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』ヘブル人への手紙9:22

聖書のはじめを読んでみると、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らはイチジクの葉で腰に覆いをつけました。神さまはそれで満足とせず、彼らに皮の衣を作って着せたのです。そのためには最低一匹の獣を殺す必要がありました。アダムとエバの罪のために血が流されたのです。

カインはおそらくそれを知っていたでしょう。しかし、彼は地の作物をささげたのです。そして、それが受け入れられなかったときの彼の反応を見てみてください。
『カインはひどく怒り、顔を伏せた。』

彼はそれが受け入れられなかったことに苛立ちを覚えたのです。それは『自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。』
もし、正しいことをしたのであれば、カインは顔を伏せなかったでしょう。
このことは、大切な原則を私たちに教えています。


それは『自分の方法では神に近づけない』ということです。
ある人は社会的に成功したから天国に行けると思うでしょう、ある人は多くの善い行いをしたから神さまは助けてくれると思うかもしれません。汚れている私たちのために犠牲の血が必要なのです。
カインは神さまが父アダムに「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」創世記3:17
と言われたことを知っていたはずです。あなたならそこからの作物を神さまにささげますか?

『カインは悪い者から出た』とヨハネは記しています。アダムは悪い者だったのです。すべての人類の先祖は悪い者だったのです。それゆえ、あなたもわたしも悪い者です。彼の性質を受け継いでいます。


それは、深く考えなくても明らかです。
自分の良心が責めているにも関らず自己中心に利益を追い求め、嘘を付き、人を欺きます。
人を愛しているようで、自分の欲望を愛しているのです。
神さまの律法が私たちの心に書かれていると聖書は言います。
そうです!それによってあなたは裁かれるのです!
あなたは聖なる神に対面することが出来ますか?


カインは弟が正しかったために彼を殺しました。
『主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。』とあります。
神さまはカインに悔い改める機会を与えたのです。神さまはすぐには裁きません。

しかし彼は、『「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」 』と答えました。


私たちもカインと同じにならないように熱心に悔い改めようではありませんか。
『あなたは嘘を付いたのか?』『あなたは人を蹴落としたのか?』『あなたは盗んだのか?』
『あなたは神に対して正直であったのか?』

このような問いに対して

『神よ。私は罪を犯しました。悔い改めます。』と言って、神さまに赦しを求めようではありませんか!
恵み深い神はあなたを豊かに赦してくださいます。なぜなら、神の子羊であるキリストがすでに十字架によって、あなたのために血を流したからです。

地獄の苦しみ

イメージ 1

この画像とても恐ろしげじゃないですか?

一体何の絵だと思われるかもしれませんが、これは近所の池のフェンスに貼ってあった
「遊ぶな!!キケン!」と書かれた看板です。

長い間雨風にさらされて、こんになってしまったようです。

しかし、一見すると人が地獄に落ちて、苦しんでいるように見えませんか??

『いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』黙示録20:15

私は聖書を読んだときに自分のたましいについて、
本当に心配になりました。

長い間、本当の神さまを無視して生きてきて、助かるのだろうか?
こんなに数え切れないほどの罪を犯した者が救われるのだろうか?

本当に不安でした。

しかし、聖書をまた読んでみると、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
あなたは救われるからです。』ローマ10:9

とありました。
『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、
不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、
彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。』ローマ5:6−9

私たちの罪の罰を彼が受けてくれたということ
それを読んで、安心しました。
自分が良いから救われるのではなくて、イエス・キリストが良い(義)から私たちは救われるのだと。

神さまを知らずに、死んでしまうことは恐ろしいことです。
ある金持ちは生きている間、良い物を受けていましたが、
死んだ後苦しみ悶えていました。
『彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』』ルカ16:24

他の箇所では人は裁きの日に
『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。』ダニエル12:2

ゲヘナ(罪人が死んだ後に行く裁きを待つ場所)についての箇所では
『もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。』マルコ9:47−48

イザヤ書には終わりの日にイスラエルが
『「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」』イザヤ66:24

など書かれています。
さらに

『見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。
その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、
その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。』イザヤ66:15−16

主である神自身が裁きに来ると書かれているのです。
確かに、
『生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。』ヘブル10:31
と書かれています。

なんと神さまの裁きはきびしいのかと思いませんか?

しかし、善と悪を分ける方は神です。
しかも彼はすでにそのひとり子を世に遣わして、十字架につけたのです。
神はイエス・キリストを信じて彼に従えば、救われると明らかに言っているのです。

このすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちに何が残っているのでしょうか?
聖書もこう言っています。

『語っておられる方を拒まないように注意しなさい。

なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが(出エジプトのときのイスラエル人)

処罰を免れることができなかったとすれば、

まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、

処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。』ヘブル12:25

しかし、

『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』2コリント6:2

呼びかけられているうちに答えましょう。

それは自分の罪深さを認め、イエス・キリストの十字架を自分のためであったと信じることです。
そして、日々聖書を読み、神に向かって祈ることです。
そうしたら、ただ日曜日だけではなく、毎日の生活が神さまへの礼拝となり、
苦しみの中でも、平安を見出します。
この肉体が滅んでも、救われた魂は神さまの元へと行き、
永遠に神とイエス・キリストとともにその正義、聖、恵みを味わいます。


決してこの上にある画像のように、
永遠に燃える火の池で苦しまないようにしましょう。

ふたりの罪人

『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
・・・十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。
だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、
わたしとともにパラダイスにいます。」』ルカ23:33,39−43

イエスが十字架につけられたときに一緒に
ふたりの罪人が十字架についていました。

一人は
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」
といいました。

まず、その罪人はイエスがキリスト(救い主)と言われていること
を知っていました。なぜなら、イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」
と書かれた罪状書きがあったからです。

まず罪人がイエスを本当のキリストと知っていた場合を考えてみると
彼は大胆にも命令しました。
「キリストなら今のこの肉体を貫く釘をはずし、
十字架からおろしてくれるはずだ」
そう思ったことでしょう。
彼は自分のしたことの報いを受けていました。

クリスチャンでもこのように思うときがあります。
「なぜこの困難な状態からすぐに救い出してくれないんだ
神さまはなぜ黙って、苦しんでいるのを見ているのだろう。」
しかし、私たちはただ神さまの性格、計画を知らないだけなのです。
この罪人がしたように私たちも勝手な神さま、キリスト像を作り上げ、
勝手な理由で違った救いを求めるのです。

あなたが今苦しんでいるのは神さまのせいではありません。
それは『自分のしたことの報い』を受けているのです。

もし、盗人がイエス・キリストを信じてクリスチャンになったとします。
神さまとの和解はすでに済んでいます。
なぜならイエス・キリストが全人類の罪の罰を受けたからです。
彼を信じる者は完全に赦されます。

しかし、彼が過去に盗んだ物を返すべきだという責任はまだ残ります。
神さまは赦しましたが、その回心した盗人は責任はまだ負い続けているのです。

これと同じように、私たちもクリスチャンになっても、
この世での返すべき負債を負っていることがあるのです。
それはお金、物や人間関係かもしれません。
そういうものがありながら、
「神さまこの負債を帳消しにしてください」とはいえないのです。
神さまから見た負債は帳消しになりますが、人から見た負債は払わない限りなくならないのです。

私は実際にこの負債を負っていました。
それは兄との関係です。
私には2歳離れた兄がいて、幼いころは少しは遊びはしましたが、
私は彼の横柄な態度がきらいでした。
そして、ある日ケンカをしているときに、私が
「偶然この家に生まれてきただけやのに、何で偉そうにするねん!」
と言ったのを覚えています。
彼はショックだったみたいで、
「お母さんこんなこと言ってるで」
と母に向かって言っていました。

このような険悪な関係、家にいてもあまり必要なこと以外は
しゃべらない関係になっていました。

それは私がクリスチャンになってもあまり変わりませんでした。
これが払うべき負債だったのです。

ある日(とても最近ですが)帰り道でたまたま一緒になり、
ならんで歩いて帰りました。
そのときに教会の帰りだったので、
兄が
「教会って何するん?」と
聞いてきました。
わたしは
「聖書の話」
と短く答えました。

それから私は福音をちょっと伝えたいという気持ちになりました。
そう考えていると、
「イエス・キリストが罪人である私たちのために死んで、
三日目によみがえった。
私たちは悔い改めて、神さまを信じると救われる」
という言葉が浮かびました。

しかし、少し考えてみると、
自分は悔い改めているんだろうかという疑問が出てきました。
そう考えるうちに、
「まずあのことを謝ろう」と決心しました。
そして、上に書いていたことを悪かったと謝りました。
そうしたら、やっぱり彼と話しやすくなって
関係は改善しました。

その謝るときは本当に恥ずかしかったです。
兄弟とかって素直にごめんとか、ありがとうっていえませんよね。
それを神さまのおかげで言うことができたのです。

それはまさに神さまのわざでした。

一人の罪人は今この十字架にかかっている状態から救い出してくれ
と頼んでいました。
しかし、もう一人の罪人は違ったのです。
『ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。
だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」 』

この罪人は今この肉体がかけられている十字架よりも
死んだあとのことを考えていたのです!!!
苦難そのものよりも、その先を考えていたのです。
苦難は報いとして受けなくてはならないものだと分かっていたのです!!!
その苦しみの後、死の後に希望を見出していたのです!!!

神さまは今あなたの苦しみを取り除くことだけを考えてはいません!
それは正当なもの、あなたが受けるべきものかもしれないからです。
しかし、その負債を払った後に神さまの栄光が溢れるのです。
もしかしたらあなたの苦難を今神さまがその哀れみによって
取り去ってくれるかもしれませんが、
そうではなくても何ら悩む必要はないということです。
彼は愛する子を懲らしめるとも書いてありますし。

イエス・キリストは十字架の苦難のあとに復活し、栄光をうけました。
私たちが同じ道を通らずに神さまから栄光をうけることが出来るのでしょうか??
苦難の後に神さまからの栄光が満ちあふれます。

回想2

前回からの続き

そう感じながら旧約聖書を読みきりました。(新約聖書はすでに読んでいたので)

もうそのときにはクリスチャンになるにはどうしたら
いいのかを考えはじめました。
そして、その聖書を教えてくれた人に聞くと、

「イエスを神だと信じ、彼が世の罪を取り除くために
死んでくださった方だということを認めること。
そして、悔い改めること。
悔い改めるとは、自分が罪人だと認め、
知っているかぎりのあらゆる罪をやめようと決心すること。」

そのようなことを教えてくれました。

「そして、聖書を読み、神に向かって祈ること」

といわれました。

これを聞いて、もうすでに決心がついていたので、
言われたことをしてみようとおもいました。

そんな中、飲食店のバイトをしていたのですが、
その昼休みに新約聖書を読んでいました。
店長からは「もっと若いやつが読むような本よめ」と
言われたり、周りの反応が違ってきたのに気づきました。

それについては、クリスチャンになったらこうなるということが
あらかじめ分かっていたので、あまり影響はされませんでした。

一番親しい友人にも、聖書を信じる信仰について話してみました。

信じ始めて、劇的に変わったことは
「陰口が言いたくなくなったこと」です。
なんだ小さなことだと言われるかもしれませんが、
僕の中では陰口は大きな部分を占めていました。
もともと人の批判を面と向かってせず、陰で言っていた僕には
陰口は大切なストレス発散の方法でした。

しかし、もうこれ以上言う気がなくなったのです。

なぜかというと、神さまがそばにいて見守ってくれているということが分かったからです。
神さまが本当に愛してくれているのに、
しかも、神さまが聞いているのに、
陰口を言うことが出来なくなりました。
正確には言いたくなくなったのですが。

きっと、隠れたところで言った小さなことでも
神さまには聞かれていて、書き残されているでしょう。
そして、もし死ぬ前にイエス・キリストの救いを受け入れていないと
はっきりと目の前に広げられるでしょう。

そして、クリスチャンとして生活していくにつれて、
ある部分は改善しましたが、ある部分は改善しませんでした。

つづく

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
だいすけ
だいすけ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(10)
  • cot*****
  • らぶ鮭
  • aki
  • まさとし
  • インマヌエル
  • ジェシー
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事