だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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『また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。』2テモテ3:8


『あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。』ルカ13:3−4


みなさんはこの箇所をご存じでしょうか。


旧約聖書には登場せず、新約聖書だけで語られている事実です。

上の箇所ではパウロが、下の箇所ではイエスさまが語っています。


このような箇所の意味をどうやって知ればいいのでしょうか


旧約聖書にも「あの時これがあった」と書かれていて、現代日本人だと知らないこともたくさんあります。
これを考えてみると、明らかに当時の文化的・歴史的背景を知る必要があるということが分かります。


ということは、聖書の記述が何を意味しているかを実際に知るために、外部の資料にある程度頼らないといけないということです。
(もちろんこのような研究はすべての人ができるわけではありません)

したがって、新約旧約聖書の記述内容を知るために、当時の歴史的・文化的事実を調べることは聖書を深く学ぶ上で必要だということが分かると思います。

それはラビ的文献のミシュナ、タルムード、ミドラッシュ
また紀元前100年頃からのユダヤ教(エッセネ派)の文献を含む死海文書を学ぶことは有意義になります。

もちろん、ラビ的ユダヤ教は神殿を会堂に取って替え、いけにえを律法を研究することに替えてしまった宗教ですが、その中からヒレルから続いてきたパリサイ人たちの解釈法を知ることは確実に出来ると思います。

(ちなみに先のヤンネとヤンブレはタルムードの中で、モーセに逆らったパロの魔術師たちだと書かれています。シロアムの塔が倒れた時というのはどの出来事か分かりません。みなさんで調べてみてください)


○完全な人であり、完全な神


イエスさまは神であったのに、その時代で、その文化の中で、人として歩まれました。
そして、イエスさまが使っていた聖書解釈の方法は当時のラビたちと同じだったといわれます。
事実、パリサイ人や律法学者たちが最初にイエスの言われた比喩に気付いて、イエスを憎みました。

イエスさまが完全な人であり、完全な神であるという事実は多くの他のことに適用できると思います。
イエスさまはヨハネの福音書で「ことば」と呼ばれています。
なので神さまの言葉=聖書自体がイエスさまとある意味で言うことができると思います。
ということは聖書自体も完全な人の言葉であり、完全な神さまの言葉なのです。

これは何を意味するかと考えると、

みことばは当時の文化、歴史、言語で聞いている人に分かるように話されたということじゃないでしょうか。

ということは、私たちの出発点は、現代21世紀の日本の歴史・文化を通して聖書を読むのではなく
当時の歴史・文化における意味を最初に確認することが始まりとなるのではないでしょうか。

イエスさまも聖書の中で「ラビ」と呼ばれ、当時の解釈法を使って、自分がメシアであると伝え、その文化的・歴史的枠組みの中で、シュロの主日にロバに乗ってエルサレムに入城し、自分をメシアであることを公にしました。

そのイエスさまが使われ、旧約聖書も用いた解釈の方法が「ペシェット」と「ペシェル」といいます。


「ペシェット」と「ペシェル」


僕は専門家ではないのですが、ジェイコブから学んだことと最近学んだことを説明していきます。

「ペシェット」とは「パシュート」=まっすぐという言葉から派生した語で、「本文のそのまま文字通りの意味」と言われます。

対して

「ペシェル」は「本文に隠された深い、霊的な意味」と言われます。

ここで注意してほしいのが、ユダヤ的な解釈法ミドラッシュでは、象徴を教理の基礎としません。
それは例えばこう言うようなことです。

「アブラハムがイサクをモレ山で捧げたのは十字架の象徴である。だからイサクが本当は死なずに、雄羊がいけにえとして死んだように、イエスは本当は死なずに、その代わりにユダが十字架にかかって死んだ」

これが象徴を教理の基礎とすることです(確かイスラムではそう教えられています)。

しかし、象徴は教理(歴史的に実際、イエスさまが十字架で死なれ、復活されたことなど)を説明し(彩り)、たとえをもって明らかにするためにだけ使われます。

なので、このイサクのことをペシェットとペシェルで考えると、

1. アブラハムがイサクを捧げたこと=ペシェット
2. 父なる神がイエスを捧げたこと=ペシェル

となります。

そして、深い意味であるペシェルは、聖書の中ではっきりと語られている教理に優先することは決してありません。




『ハバクク書のペシェル(注解)』


ここでそれが死海文書の中でどう実際使われているかを見てみましょう。

死海文書の中にハバクク書のペシェル(注解)という本があります。

ここでペシェルがどう使われているかがはっきり示されています。
(ハバクク書ではバビロン捕囚が来ることが語られています)

なぜなら、見よ、わたしは興すカルデヤ人を。この国民は、たけく、はげしい。

この意味は、キッティームにかかわる。す[なわち、彼らは]すばやく、また戦いに強い。彼らは支[配者]らをたおし、[彼らを従わせる]、キッティームの支配下に。彼らは[多]くの[国々を]うば[い]、[神の]いましめを信じない。[ ]』(「死海文書」日本聖書学研究所 ハバクク書註解2:10−16)


この箇所は新改訳では

『見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。』(ハバクク1:6)

という箇所です。

この「死海文書」日本聖書学研究所という本の概説では

『「ハバクク書註解」にキッティームという言葉がしばしば出てくるが、これがだれであるかが興味ある問題となる。もしこれがローマ人を指すのであるならば「ハバクク書註解」の著作年代は前63年ごろと考えられる。』(p.87)

とあります。また多くの学者はこの「キッテイーム」がローマ人を指すと考えるとこの本には書いてあります。

聖書の中でも新改訳では「キティム」として登場し、創世記10章ではヤペテ(ヨーロッパ人)の子孫、ヤワンの子孫のキティムとあります。 

またダニエル11章では、荒らす忌むべきものを神殿に据えた(豚を神殿でほふった)アンティオコス・エピファネス(シリアの王)のことが書かれてあり、そこには「キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。」とあります。

この預言の歴史的な成就として、アンティオコス・エピファネスを阻止しにローマの船が来たという事実があるそうです。


背景を説明するのに長くなりましたが、何を言いたいかというと


ハバクク書のペシェルでは、「カルデヤ人(バビロン)のことを当時の意味を否定せずに、その原則をローマ人に当てはめていた」ということなのです!!


これがペシェルの読み方です。


そして、これが新約聖書が用いた読み方でもあります。
ペテロは言いました。

『バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。』1ペテロ5:13

このバビロンはローマを指して語ったという意見で、多くの人が一致しています。ペテロはローマをバビロンと見ていました。

またヨハネは

『その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべものとの母、大バビロン」という名であった。』(黙示録17:5)
と書き、七つの山(丘)があり(17:9)、富を増し加え、地上の王を支配する大きな都(17:18)のことを大バビロンと読んでいました。
実際、バビロンというのは国です。しかし、この特徴をみごとに満たす「大きな都」とはローマです。

今でもローマはローマ・カトリックの本拠地で(バチカン)、地上の王を支配し、祭司たちは紫のローブをまとい、儀式の際には金の杯を持ち、偶像を崇敬(実際は礼拝)するという霊的な不品行を行い、教えています。


なので、ハバククが書いたバビロンに関して

1. ペシェットはバビロンであり、バビロン捕囚のこと
2. ペシェルはローマであり、ローマが支配すること

だということが分かります。

(これを納得されると、聖書の語るバビロンの特徴をローマ(ローマ・カトリック)に当てはめてみてください)


ここでユダヤ的な「ミドラッシュ」はパターンだということを思い出してみてください


バビロンは創世記から登場し(バベル)、捕囚を行い、黙示録でも世界を支配するとあります。

バビロンは明らかに聖書中において、偽りの宗教の象徴です。

教会が堕落してしまうと、偽りの宗教に攻め込まれることになります。

実際、現代の教会に入り込んでいる「ニューエイジ」、市場先導型(market driven)のヒューマニズムなどはバビロンと言っていいと思います。
聖書から離れてしまった教会では人を集めるために、そのような方法を残念ながら使ってしまっているからです。


このように、新約聖書のクリスチャンが行っていた聖書解釈が実際どのようなものであったかを知れば、旧約聖書はとても開かれた本になって、現代の問題に適用することが大幅に可能になると思っています。


そしてこのようなことを本当に詳しく研究するには専門的な知識が必要ですから、
僕はこの点においてジェイコブ・プラッシュの教えの必要性を大いに感じています。


子どものように神さまを信じる心を持ちながら、神さまに与えられた思考力を使って、何が正しいことかを吟味していくことはいつの時代でも必要なことではないでしょうか。


特にこの終わりの時代において、終わりに近づくにつれ、多くのことが神さまによって明らかにされていくと思っています。





『彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばh、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ』ダニエル12:9

解釈と適用

このごろ考えていたことを書きたいと思います。


ちょうど良いたとえが思いつきました。

聖書の解釈は骨で、その適用は肉であるということ。
(どこかで誰かが言っていたことかもしれませんが)

聖書の解釈が基礎にあって、それをもとに適用を作っていく。


こう考えると、しっかりしたような骨組みである解釈がなければ、肉である適用は付けられないということじゃないでしょうか。

だから聖書の適用だけ、言い換えると現代の自分の生活だけに目を向けているだけでは聖書から離れてしまう危険性をはらんでいるということです。

なので、教会の礼拝でメッセージを聞くだけでは十分ではないのです。


メッセージはその話し手が聖書から導き出し、祈り、考えた結果、今の私たちに必要なことを話してくれています。しかし、その適用の部分だけに注目していると、いつまでたっても地中に根が張らないでしょう。
また、説教で紹介できる聖書箇所は限られていて、聖書全体を読むことはできないことを考えると、説教では一部分しか読むことができない。

もし、その一部分が文脈を外されて教えられていたら(これはサタンがイエスにしたことですが)、また自分の過去に読んだことの無い箇所が「この意味がある」とだけ教えられてその理由が示されていなかったなら、聞いている人の益にはなりません。

こういう理由から聖書全体を通読する必要っていうのが大きく分かります。
なぜなら、聖書は「文脈に力がある」からです。

人を通してみことばは語られることが多いですが、神さま自身、聖書自体からみことばをいただくことはどんなに重要なことでしょうか。

僕はよく「もし聖書全体を読んでいたらそんなことは言えないのに」と思うことがあります。

この世でお金持ちになることや、繁栄だけを教える教師たちがそうです。
いつもその人たちの目は自分たちに向いていますが、聖書は神に目を向けよと言っています。



話は戻りますが、では解釈とはどのようなもので
適用とはどのようなものなのでしょうか。


アダムとエバの例を挙げます。
彼らが善悪の知識の木の実を食べた後のことです。


『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)


神となろうとし、自分たちで善悪を決めようとしたアダムとエバは自分たちが裸であることが分かります。



聖書の中で「裸」とは何を表しているのでしょうか??

聖書用語検索で「裸」という言葉を入れて検索してみると

●『カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。』(創世記9:22)

●『あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。』(出エジプト20:16)

●『あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。』(イザヤ47:3)

●『あなたはわたしを捨てて、裸になり、寝床に上ってそれを広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、その象徴物を見た』(イザヤ57:8)

●『わたしがエサウを裸にし、その隠し所をあらわにし、身を隠すこともできないようにするからだ。彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる。』(エレミヤ49:10)

●『彼女の顔から姦淫を取り除き、その乳房の間から姦通を取り除け。そうでなければ、わたしは、彼女の着物をはいで裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、彼女を荒野のようにし、砂漠のようにし、
渇きで彼女を死なせよう。』(ホセア2:3)

●『それゆえ、わたしは、その時になって、わたしの穀物を、その季節になって、わたしの新しいぶどう酒を取り戻し、また、彼女の裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう。』(ホセア2:9)

このような箇所が出てきます。


これらの箇所を総合して考えると、裸は自分の罪があらわになった状態といえます。(これもそれぞれの箇所を読んだことがなければ見えてきませんが)

だからアダムとエバが裸であることを分かったのは、自分の罪深さが分かったということです!

裸とは救いの衣を着ていないということです。
イエスが捕らえられたときに裸で逃げた人がいました。(マルコ14:52)
それは迫害が起きたときに救いの衣を捨てて逃げる人の象徴です。

イザヤはこう書きました
『私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。』(イザヤ64:6)


次に彼らがしたのはいちじくの葉を腰の覆いとしたことです。


聖書でいちじくの葉はどのようなものでしょうか?


イエスはエルサレムに向かっている途中にいちじくの木を枯らしました。
なぜなら、そこに葉しかなかったからです。
当時のイスラエル人たちはどのような状態だったでしょうか。
律法の行いを保ち、外側の行いはありましたが、彼らのうちに寛容や誠実、善意などの実はありませんでした(ガラテヤ5:22)

また千年王国が来るとエルサレムの御座の下から川があふれ出し
その両岸にはあらゆる果樹が生長するとあります。

『川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』(エゼキエル47:12)

葉は薬となります。

聖書で葉とは善い行いです。中東では実を厳しい太陽から保つために葉が必要でした。
しかし、いくら良い葉でも実のように食べることはできません。

ミカ書では次のようにあります。

『ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。』(ミカ7:1)

これがイエスの考えていたことです。「私の好きな初なりのいちじくの実もない」


なので、アダムとエバがしたことといえば、自分の罪深さが分かり、それを善い行いで隠したということです。


これが聖書全体から導き出された解釈です。(細かいところは議論の余地があると思いますが、大筋ははっきりとしたものだと思います)


適用とはそこから派生する、出てくるものであって、日常生活に即しているもの、私たちが犯しがちな罪とそれを隠そうとする実際の行為を指摘することではないでしょうか。



しかし、もし解釈をないがしろにして、適用を先に持ってきてしまうとどうなるのでしょうか。

例えば、「いちじくの葉とは仕事で、神さまから離れてしまった現代の人たちは仕事に希望を見出そうとして、それを生涯の目的としてしまう」

という人があったとします。

その人が解釈を伝えた後に、その適用としてこれを言う場合は良いでしょうが、これをいきなり言ってしまうと、それを聞いていた人は


「そうか、聖書の中で出てくる”葉”とは仕事や職業のことなのか」

と思ってしまうかもしれません。(これは極端な例ですが)


だから、まず骨組みである解釈をきちんと理解したうえで、適用を聞いたり言ったりしないと、違う基礎の上に私たちは聖書の理解を置いてしまいます。


これを大したことではないと思うかもしれませんが、この解釈を抜きにした適用が今の教会で多く行われていることではないでしょうか。
しかもあまり聖書を読んでいない僕の年代の若い人たちは、適用を聞くだけで成長することはないと思います。
また同時に、礼拝の説教を聞いても、適用だけだからそれを聖書を読むときにどう活かしたら良いか分からない、そういうことが起こります。
これが大きな問題なのではないでしょうか。


僕は最初に聖書をひと通り読んでしまうまで、聖書について書いてある本を読みませんでした。


もし、読んだことの無い箇所の間違った解釈が出てきても、何も分からずに取り入れてしまうからです。


なので、聖書自体を知ってから良い信仰書を読むことは有益ですが、まず人に頼ると道を間違えてしまいます。


このこともあって、僕は聖書に書き込みをしません。
説教で言われたことであっても人の意見であって間違っているかもしれないし、
後でその箇所を読んだら、そこに書いた解釈しかできなくなる危険性があるからです。

私たちはきちんと反芻して、みことばによって正しいかどうかを吟味してから信じるべきです。




正確な解釈を神さま自身からいただくこと、神さまに対して忠実な奉仕者から教えてもらうことはとても大切なことです。
同時に現実の私たちの生活から遠く離れてしまわないことが、説教者には求められてくるでしょう。(これが僕の苦手なところです)
'''『主はモーセに告げて仰せられた。
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。
あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。
あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのかこの岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。
それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。』(民数記20:7−13)'''


この箇所についてluceさんがするどい指摘をしておられたので、僕もこの箇所について書いてみたいと思います。

モーセが約束の地に入れなかったのは、

「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」から

これが聖書にはっきりと書かれてあって、第一の理由です。


他の聖書箇所にはどう書いてあるでしょうか?


『彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。』(詩篇106:32-33)


これも聖書が挙げている理由です。

「軽率なことを口にしたから」


軽率なこととは、『逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか』(民数記20:10)と言ったことです。


神が水を出してくださるのに、私たちがと言ってしまい、神を聖なるものとしませんでした。
そして、その言葉と伴って、岩を二度打つということをしてしまいました。


これはどういう意味なのでしょうか??


聖書は聖書によって解釈すべきです。


『私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。』(1コリント10:1-4)


パウロはその岩から水が出たことは、キリストから御霊が出てくることだと明らかにしています。


だから、この箇所を考慮に入れて考えるとモーセがその軽率な言葉とともに、岩を二度打ってしまったことは、


「わたしたちがキリストから御霊を出さなければならないのか」


と言っていたということでしょう。

しかも、二度打ったということは、一度打つだけでは水は出てこないと思ったからです。


「自分たち」+「自分たちが努力しないと御霊なる水は出てこない」

それがモーセのしてしまったことではないでしょうか。


ヨハネの福音書には次のようにあります
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』(ヨハネ7:37−39)

栄光を受けるということはどのようなことなのでしょうか?

『ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。』(ヨハネ13:31)

イエスが栄光を受けたのは、ユダに裏切られて十字架につけられることが定められたときです!!



なので、これらの箇所を見てからモーセが岩を打った箇所に戻ると

それはイエスが十字架にかけられて、それから御霊が注がれることではないでしょうか!


だから、モーセがしてしまったこととは、十字架の完全さを信じず、神さまを聖なる者としなかったことと同じだといえます。



「この”キリスト”から私たちがあなたがたのために”御霊”を出さなければならないのか」

キリストを十字架につけて御霊を注がれたは神です。

そしてその十字架は一度で完全なもの。私たちが努力したり、改善する余地の無いものです。


モーセがしたことの第一の意味は、岩から水を出すこと。
それによって象徴されていたのは岩なるキリストから御霊を出すこと。

こう見てみたらモーセのしたことはその象徴だったってことがはっきりしませんか。


カトリックのミサで、「このパンはキリストご自身であり、ミサでのいけにえはカルバリと同じものである」という教えはまさに岩を二度打つことです。

十字架の完全性を否定して、自分の行いによって十字架を改善しようとすること。
あの一度だけの十字架では不十分だとしてしまうこと。
「私たちが御霊を出さなければならない」と主張することではないでしょうか。

二度打ったことは自分の努力によって、十字架を改善することはできないことです。


キリストは一度だけ十字架にかかり、私たちはそれにつけ加えることはありません。
キリストの十字架、人の罪を負った十字架の赦しは完全です。


『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』(ヘブル10:14)


僕たちも自分の罪を悔い改めて、イエスの十字架にすがりついて生きていこうではありませんか!


永遠のいのちがそこにはあります。



『わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』(ヨハネ4:14)
「カリスマ派」 「ペンテコステ派」


このような単語をバプテスト派や、改革派、福音派の人たちは
「聖書的じゃない、経験主義、感覚主義に陥った人たち」
という意味で使っています。

床に転げまわったり、聖なる笑いと言っておさえられないほど(教会で)笑ったり、
癒しが起こったと言っても医学的に証明されなかったり(ベニー・ヒンなど)、
預言がはずれたり、、、

これらのことが多くの過激なペンテコステ派、カリスマ派で起こっていることは事実です。
そしてこれらは間違っていて、多くの人を聖書から遠ざけています。



しかし、聖書は聖霊の賜物が使徒の時代で終わったと書いているのでしょうか??



以下はジェイコブ・プラッシュの書いた記事の訳です。
聖霊の賜物は使徒たちの時代だけのものだったか

聖霊の賜物が使徒たちの時代で終わってしまったという間違った考えは、しばしばとても正しいとは言えないような1コリント13章の解釈から導き出されます(それはもはや解釈ではありません。なぜなら本文に書かれていないことを引き出しているからです。それはむしろ自己流の解釈であり―本文に書かれていないことを読み込んでしまっています)この議論はユダヤ人が“しるしを求める”ので最初の信者たちには異言が必要であって、私たちにはもはや必要ではないというものです。また、この章にある“完全なもの(1コリント13章10節)”が聖典としての新約聖書だと言い、新約聖書の最後の書が書かれたときに賜物は終わったと言います。

この議論の最初の間違いは、この書簡を紹介する1章7節の序章と13章の部分を切り離してしまっていることにあります。この手紙のはじまりの部分の文脈を読むと、1章7節は“完全なもの”とはキリストであって、新約聖書でないことが分かります(1章7節『その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています』)。したがって、賜物が終わったという人は、弁解をするために文脈から外れて主張しなければならないのです。彼らは実際にハイパー・カリスマの人たちと同じように危険で、愚かなことをしてしまっています。私たちはこれにも気をつける必要があります。これはサタンがイエスを誘惑したときに行ったことです。

二つ目の間違いは、その箇所自体の文脈を無視しているということです。「愛だけが永遠に残るものだから、“完全なもの”が来たときには私たちには信仰や希望が必要ではなくなります。なぜなら私たちはもうぼんやりと見ることがないからです。私たちは神に知られているように、完全に知るようになります」その人たちが「信仰が必要でないとか、希望が無くても良い」と言っているのをあなたは聞いたことがあるでしょうか?

三つ目の間違いは、“ユダヤ人はしるしを求める”と書いた同じパウロが、ローマ11章に書いていることに関してです。そこで彼は、今私たちの時代に著しく起こっているように、終わりの時代にユダヤ人が再びイエスを信じるようになると書いています。そうすると、異言はユダヤ人だけのものだったという彼らの議論は、ユダヤ人信者である私の妻と子どもたちがピグミー族のような存在だということでしょうか?もし異言がユダヤ人だけのためのしるしであって(私はそれが聖書の教えだと考えませんが)、またユダヤ人が預言的に終わりの日にメシアなるキリストに立ち返ることが定められているなら、彼らの議論は聖書の異言を擁護しているのであって、異言に反対する議論ではありません。

四つ目の間違いは、使徒2章にあるペンテコステの日のペテロがヨエル書から引用したケリグマに関するものです。その箇所ははっきりと、イエスが戻ってくる前に預言などの賜物が再び起こると主張しています。

五つ目の問題は、この手紙の中で異言や預言を禁じてはならないという特定の戒めがあることです。もしそのような戒めを無効にするなら、どのような根拠をもって極端なカリスマ派に反対できるのでしょうか。例えば、過激なカリスマ派は酔ったような状態は神の霊が働かれている証拠だと主張しますが、新約聖書では明らかに身を慎むことが命じられており、ガラテヤ書では“自制(エンクレテイア)”が御霊の実として書かれています。カリスマ派は聖書の戒めは現代にはもう通用しないと主張し、聖書に書かれたことを越えないようにとパウロが警告したのを無視しています(1コリント4章6節)。どちらも聖書の定めた範囲を越えてしまっています。

六つ目の問題は、ニケア会議以前の使徒たちの時代に近い教父たちが記している歴史の中で、奇跡や癒しなどのカリスマ的な現象が見られるということです。それは使徒たちの時代を越えて初代教会の中で続いていました。

私たちが注意しなければならないことは、サタンは、真実であり偽造する価値のあるものだけを偽造するということです。偽の賜物があるからといって賜物自体を否定してしまうことは、お金が偽造されてしまうから紙幣を燃やしてしまおうというのと同じです。多くの人が賜物を信じたのに、前の間違いに反応して新しい間違いに陥ってしまうのを見ることは、思慮のないことであり、悲しいことでもあります。

同じような考えでより穏健なものは、御霊の賜物をすべて否定はしないが異言だけを取り上げる考えです。それはパウロが“人の異言や、御使いの異言”と言っていたのはただおおげさに言っていただけだと主張します。確かにギリシア語の本文では、パウロが人の異言について誇張法を使っていたことが明らかです。(ギリシア語は「すべての人間の言葉を話すことができたとしても」という考えを伝えています)このようにこの人たちは、有効な異言とは人間の言葉だけであると主張しています。

確かに、まじない師やモルモン教徒、他のカルトも古代ギリシア人が“オートマティック・スピーチ”を持っていたように、異言というものを持っています。あるカリスマ派カトリック教徒も異言でマリアに祈ることがあります(もちろんこれは偶像礼拝です)。異言はただ悪霊からのものであるか、御霊の賜物どちらかです。また異言は身に付けたものか、人為的なものか、純粋に心理的なものであるかのどれかです。今日異言と呼ばれるもののほとんどが真実の異言ではないと私は確信しています。一方で聖書は、もし異言が聞こえるものでなければ、さばくことや見分けることは勧めていません。異言がある人にとっての外国語や解釈されていない限り、それは個人的になされるべきであって、集会の中でなされるべきではありません。もし異言が聞こえないようにされている場合は、祈っているのと同じで誰も気にすることではないでしょう。

聖霊の賜物が終わったと言う人、また聖霊のバプテスマがいつも救われた瞬間に起こるもので、救いの経験の後ではないと主張する人は、福音派教会のアルメニア説の創始者(ジョン・ウェスレー)と、改革派カルヴァン主義者たち(ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ウィットフィールド)のことを忘れてしまっています。彼らはどちらも現代私たちがカリスマ的な経験と呼ぶものを認めていました。確かに『キャッチ・ザ・ファイヤー』という本でガイ・チェブリューはそのような事実を曲解して、ウェスレーが「ヒステリックに陥って“悪魔的”である」と言い、ダニエル・ローランドとジョージ・ウィットフィールドが「神がなされることを混乱させようとする行き過ぎた行動」と考えていたもの、ジョナサン・エドワーズが『宗教的な愛に関する第四の説教』という本の中で経験は何も意味しないと書いていたことを大きく指摘しそこなっています。しかし、現代の定義でいうとこれらの人たちはみなカリスマ派であったのです。加えてD・L・ムーディーとR・A・トーレーはどちらも聖霊のバプテスマを証言しています。現代の形の“聖霊の賜物が終わった”とする考え方を本当に始めたのはB・B・ワーフィールドという人です。』



多くのカリスマ派・ペンテコステ派が聖書から離れてしまっているのは悲しいことです。
しかし、聖書をそのまままっすぐ信じることこそが、神さまの望んでいることではないでしょうか。

罪の三段階

これはまだ個人的な意見かもしれませんが
このごろ考えてたことを書きたいと思います。


罪には三つの段階があるということ


ひとつ目は「死に至る罪」

『死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。』(1ヨハネ5:16)

『あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。』(1コリント6:9-10)

次は「死に至らない罪」

『だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。』(1ヨハネ5:16-17)

三つ目はその人の「良心によって罪となるもの」

『しかし、すべての人にこの知識(偶像の神は実際にはいないこと)があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。』(1コリント8:7)

三つ目の文脈を説明すると、今まで偶像になじんでいた異邦人が救われて交わりに入ったときに、強い良心、成長した良心を持った先輩の信者たちが偶像にささげた肉でも何でも「神は唯一だ」と知りながら食べていると、その異邦人信者は同じようにして食べてしまい。
「これは本当に良かったのか?今まで偶像にささげたものとして食べていたのに…」
と感じてしまうということです。

この場合、良心が弱い人を気遣うようにと書かれています。


人がクリスチャンとなると、罪を本当に嫌い、死に至る罪なんて犯すものかと思います。

また、死に至らない小さな嘘や、怠慢や、テレビで時間を浪費することや、僕自身の場合は友達とカラオケに行くことができなくなりました。(良心が弱くカラオケには耐えられなかったからです)

そのようにクリスチャンは成長してくると、「死に至る罪」と「死に至らない罪」を避けるようになります。そして次第に良心が成長してきて、まわりの未信者と違った生活をしだすようになるでしょう。

高い服を買わなくなったり、髪を染めることがなくなったり、つまらない冗談を避けるようになったり。
その人は個人的にそのようなことをすることによってますます神さまと近くなっていきます。


しかし、そのときにある問題が出てきます。

他の人に対して自分の良心をどう扱うかということです。

どういうことかというと、まだ信じて間もない人は成熟したクリスチャンを見て

「服も買ったり、髪も染めたり、冗談も言ったりしてはいけない。なんて堅苦しいんだ」

と思うことでしょう。しかし、その人にとってはそれが自分のうちの平安を保つ方法であって、何も苦しいことではなく、逆にそのようなことをすると良心に責められます。


このことが聖書を堅く信じる教会にも起こることではないでしょうか。

「あの教会は律法主義だ!」

「あれもこれもしてはいけない!」

そうなってしまう原因はふたつほど考えられます。


ひとつは、良心の弱い人たちのことを気にかけていないこと。
あるいは、それを言う人たちは「死に至る罪」を理解せず、別にしてもいいじゃないかと考えてる場合。


僕はある牧師が「(クリスチャンの)婚前交渉はふたりが同意してれば良いんじゃないか」
と教えている教会を知っています。それは明らかに聖書から外れたことであって、不品行という言葉の意味はそれでしかありえません。
これは聖書の言葉を明らかにないがしろにして、不信仰に陥っているんではないでしょうか。
「不信仰」とは神さまのことばをそのまま受け取れなくなった状態を言うと思います。

この場合に「あの教会は律法主義だ!」と自分たちのことを言われていても気にしなくていいでしょう。

しかし、まだ弱い良心を持った人に、成熟したクリスチャンの基準を要求するのは間違っています。


これがこのごろ強く心に思っていたことです。


僕自身も人に自分の基準を押し付けないことを注意しないといけないなと反省しています。

それによって、人が「自分は信仰が足りない」とか、「本当は救われていないんじゃないか」と思ってしまうからです。

みなさんはこの意見にどう思われるでしょうか?

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