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前回の投稿では中途半端なところで終わってしまったので、今回はさらに詳しく見ていきたいと思います。
まずはじめに
「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28)
とあります。人は苦労して善行を積み重ねて、義と認められるのではないということです。
しかし、カトリック教会はどう教えているでしょうか?
「あなたがロザリオの祈りを何回すると何回の赦しがもらえる」
「信仰だけで義とされることはない」
と正式な文書でこのようなことを言っています。
果たしてこのような宗教は聖書にしたがっていると言えるのでしょうか。
これは言い換えれば、イエス・キリストの十字架の死が十分ではなかったと言っているようなものです。
イエス・キリストを信じるものは義(正しい)と認められ、救われるのです。
次に聖書はどんな偶像でも拝むことを禁止しています。
モーセの律法の中にも
『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。』出エジプト20:4
そして新約聖書の手紙の中にも
『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』1ヨハネ5:20-21
『あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。 』1ペテロ4:3
それがもし、イエスの像やマリアの像なら良いのでしょうか?
私たちは聖書の命じていないことはするべきではありません。
いや、偶像に向かって拝むことは禁止されているのですから。
みなさんはマリア像を知っていると思いますが、カトリックの教えは聖体と呼ばれるウエハースを拝めというものなのです。
なぜなのでしょうか?
それは『…主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」』1コリント11:23-24
これをカトリック教会は実際に目にはパンと見えていても、ウエハースが奇跡的にイエス・キリストの肉となるというのです。そして、もう一度犠牲をささげるというのです。
一見これは正しそうな教理に思います。しかし聖書にはこうあります。
『それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。』
ただ一度ご自身をささげられたのです。その一回きりの犠牲により、人間を贖ったのです。
もう一度はありません。
偶像を拝んではなりません。これは聖書の教えです。
人間をも拝んではいけません。教皇をもです。
カトリックの教えでは神父を通してでしか、神に近づくことはできず、最終的には教皇を通してしか神さまの意思は示されないとしています。
神さまと人との仲介者はだれですか?
『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。』1テモテ2:5
このような聖書にしたがっていない教会が唯一の正しい教会だといえるのでしょうか。
私はカトリック教会の教えが間違っていると言っているのであって、カトリック信者が全員救われていないと言っているのではありません。
しかし、このような宗教はとても受け入れられやすいのではないのでしょうか。
日本人ならば数をロザリオに変え、先祖崇拝は続け、行いによる宗教なのですから。
しかし、聖書にはさらに明らかにカトリック教会が終わりの日に、世界に広がると言っています。
それを次回は見ていきましょう。
つづく
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