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「あなたは新しく生まれなければならない」

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この頃、ある本を読んだので、その感想を書いていきたいと思います。
 
<本の紹介>
 
 
その本とは高校で世界史を勉強した人なら、ご存じの『痴愚神礼讃(ちぐしんらいさん)』という本です。
 
『痴愚神礼讃』(エラスムス著、沓掛良彦訳 中央公論新社発行)
 
ロッテルダムのエラスムスが書き、1511年に出版され、当時ヨーロッパでのベストセラーになりました。
書かれた言葉はラテン語で、学者であったエラスムスが『ユートピア』を書いたトマス・モアに宛てて、
書いた一種のフィクションです。
その中で痴愚女神という「愚かさ」が擬人化されたものが、いかに人々がその女神の恩恵を受けているか語っていくというものです。
そして、この本は宗教改革にとって大きな起爆剤となり、よく
「エラスムスが宗教改革の卵を産み、ルターがその卵をかえした」と言われます。
 
 
<読もうと思った経緯>
 
今、ジェイコブ・プラッシュの黙示録の七つの教会を訳しているところで、宗教改革者のうちで一番のブレーンはエラスムスだと書いてあったので、とりあえず読んでみようと思いました。
 
 
<エラスムス>
 
宗教改革者の中で、エラスムスはルターたちとは違った立場にいました。
どちらもカトリック教会の腐敗を非難したのは同じですが、エラスムスは教会からの分離を説かず、武力を用いた戦争に全く反対していました。多くの人が知らないと思いますが、宗教改革者たちは実際、人を動かす手段として暴力や戦争を用いました。
 
<時代背景>
 
そして以前からルネッサンスの時代に、ローマ・ギリシア古典の再発見があったと知っていましたが、この『痴愚神礼讃』を読んで、本当に実感しました。前半部分はキケロやプラトンやアリストテレス、ソクラテス、エピクロス派、ストア派、ユピテル、ホメロスなど、哲学者や神話の神々などの名前が多く登場します。
今21世紀のクリスチャンの視点から読むと「なんだこれは」と思いますが、これがベストセラーとなったということは当時の知識人階級、また一般の人たちの間でギリシア・ローマの古典が流行っていたのだろうと容易にうなずけます。そしてそれを考えると、当時の宗教改革者たちの解釈法もヘブライ的ではなく、ギリシア的であるのもうなずけます。これは『ミドラッシュ』のメッセージ内で扱われている内容です。
 
<エラスムスのメッセージから適用できること>
 
では、今頃エラスムスの本を読んで、何に活かせるんだと思われるかもしれませんが、当時の状況は今のフィリピン、南米のカトリック教国で起こっている状況ととてもよく似ています。
多くの人がカトリック教会から去り、ペンテコステ派の教会に入ってきています。そしてフィリピンでも実感しましたが、普通の人でもカトリック教会の腐敗をよく知っています。
したがって、今それらの国は宗教改革のような時代にあり、同じメッセージが適用できるということです。
 
では、実際に何が書かれてあるかみてみましょう。(多くの箇所がカトリック教会や教皇非難です)
 
 
<引用>
 
●「犯した罪から、その実なんの効力もない赦免によって救われるというので悦に入り、水時計ででも測るかのように、数値の表を作って、煉獄にとどまる時間がいかほど短くなったかを、世紀、年、月、日、時間にいたるまできちんと計っている人については、さあどう言ったらいいのでしょうね?まじない札だの、短い祈りの文句だの(そんなものは、どこかの信心深げな詐欺師が、楽しみのためか金儲けのためにひねりだしたものですが)を頭から信じ込み、富、名誉、快楽、飽食、いつまでも続く健康、長寿、若々しい老年、天国でキリストの傍らに座を占めることなどの一切が得られるものと考えている人たちについては、なんと言ったものでしょう?」p.104
 
●「それぞれの地方が、それぞれ自分たちには特別の守護聖人がいると主張し、それぞれに固有の御利益が振り当てられていて、それぞれ違った礼拝の仕方がなされているのも、まあこれと同類ではないでしょうか?歯痛を治してくれる聖人、お産の痛みをやわらげてくれる聖人、盗まれた物を見つけ出してくれる聖人…がいると言った具合で、全部数え上げたらきりがありません。一人でいくつものお役目を引き受けている方々もおられますよ。聖母マリア様がそれで、世の人々はこの御母に、その御子が担っておられる以上の役目を押しつけております。」p.106
 
●「教皇方に残されているのはただこれだけ、つまりは武器とパウロも言及しております甘いことばだけで、それとこちらのほうは大いに気前よくどしどし発しておられる聖務執行停止命令、聖務停止令、譴責、累加譴責、破門、破門者地獄絵図、それにちょっとうなずいて合図しただけで、人間たちの魂を地獄のかなたまで叩き落としてしまうあの恐ろしい雷ていです。…福音書に「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」とあるにもかかわらず、教皇方は土地や、町や、租税や、賦課金や、王国をペテロの遺産と呼んでいるのです。これを護らんがために、彼らはキリストの熱愛に燃え立って、剣と火をもって戦い、多くのキリスト教徒の血を流させておりますが、彼らの言う敵どもを完膚なきまでに叩きのめすことで、キリストの花嫁である教会を、使徒のごとく護っているものと信じているのです。」p.180-181
 
●「一般の司祭たちにしても、敬虔さにおいて高位の方々に劣ることは許されぬものと考え、自分たちの取り分である十分の一税の権利を守るために、剣であれ、槍であれ、投石機であれ、あらゆる武器を動員して、なんとまあ勇敢に、本物の兵士よろしく戦っていることでしょう。古ぼけた古文書の中から何かを見つけ出すことにかけては、なんとまあ目ざとく、それでもってあわれな民衆を脅しつけ、十分の一以上の税を払わねばならぬと説きつけてしまうことでしょう。そのくせ、自分たちの側でも民衆に対して負わなければならぬ義務がどれほど大きいか、あらゆる文書で読んで心得ているのに、そんなものは一向に念頭にないのですからね。剃髪こそしているものの、司祭たるものは一切の世俗的欲望を去って、天上界のことだけに思いを凝らさねばならぬということには、思い及ばないのです。」p.184
 
 
<本書の終わり部分>
 
本書の始まりでは、いかにこの世の人たちが愚かな女神に導かれて、愚かな事柄を行っているかが語られていましたが、終わりの部分に入るとエラスムスの「言いたかったこと」が現れます。
それはキリストは肉体という愚かさをまとってこの世に来られ、クリスチャンもこの世に対しては愚かに生きるべきだというものです。
 
●「キリストおんみずからも、神の叡智の体現であるにもかかわらず、人間たちの愚かさを救済なさるために、人間の本性をまとわれ、人間の形で姿をあらわされたとき、なにほどかは愚者となられたのです。同じく罪人の罪を贖うために、罪人となられました。罪を贖うのに、十字架の愚と、愚昧で頭の鈍い使徒たちによる以外の方法は望まれなかったのです。」p.210
 
(クリスチャンに関して)
●「こういう人たちは自分の持てる財産を蕩尽し、不正をはたらかれても気にせず、欺かれることに甘んじ、友と敵を区別せず、快楽を嫌い、断食、不眠、涙、労苦、屈辱をいやと言うほど味わい、生を厭い、ひたすら死を願います。一言で言えば、常識に対するあらゆる感覚を失っているように見えますので、あたかも魂がその肉体ではなく、どこか別のところで生きているかのようです。」p.214
 
●「これとはまったく異なり、敬虔な人々は、あらゆるもののうちで最も単純なものである神そのものを全力を挙げて志向し、次に神に最も近いもの、すなわち魂に力をそそぎます。肉体に心を用いることはせず、金銭などは塵芥さながらに蔑んでそれを避けます。あるいはこの種のものにたずさわることを強いられましても、それをいやいやながら、不快な気持でしますから、持っていながら持っていないも同然です。」p.217
 
 
<結論>
 
ほんとうに辛辣なカトリック教会、教皇批判からこの書は昔、禁書とされてきました。
ルターに影響を与え、この書がきっかけで宗教改革が始まったことを考えると、
僕たちクリスチャンは恐れることなく現状を語り、偽りを暴露すべきです。
以前ルターの『キリスト者の自由』(マルティン・ルター著、石原謙訳、岩波文庫)を読みましたが、
彼も大胆に真理を宣べ伝える人でした。そのような人たちが現状を変えることができるのではないでしょうか。
僕たちは人の顔色を気にし過ぎて(もちろん愛をもって真理を語ることが必要ですが)、真理を、現実を伝えられずにいます。そのようであれば、何も現状は変わらず悪い状況はさらに悪くなっていきます。
宗教改革者たちも間違ったことを行った部分もありますが、その大胆さは見習う必要があると思います。
 
 
 
 
いけにえに関する見解をシナゴーグと同じくする新約聖書
 
『いけにえに関する新約聖書の見解が、古代のシナゴーグの見解に完全に一致していたことを知るのは非常に興味深いことです。初めに私たちは次の原則に出会います。『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない』(ヘブル922節)この箇所と同じことを語っている引用をユダヤ人解釈者たちの元から引いてきましょう。ラシ(Rashi)は(レビ記1711節について)「すべての造られたもののいのちは、人のいのちを贖うために与えられている――ひとつのいのちは人のいのちを贖うために来なければならない」と語り、同じようにイブン・エズラ(Aben Ezra)はひとつのいのちはもうひとついのちの代理のためにある」と書きました。またモーシェ・ベン・ナフマン(Moses ben Nachmann)は「私は祭壇の上であなたのためにそのいのちを与え、その動物のいのちは人のいのちを贖うものとなる」と語りました。このような引用は挙げていけば限りがないでしょう。同じようなラビたちの発言の中に聖書の真理の一面が現われているのが、手を置く儀式です。「言うなれば、ささげる者は彼自身から罪を取り去り、生きた動物の上にそれを移行させる」そして「自分のたましいをもってその人が罪を犯す度に、それが憎しみや悪意からであっても、自分の罪を自身から取り去り、それをいけにえの頭の上に置く。それが彼のための贖いである」と書いています。従って、この原則はアバルバネル(Abarbanel)によっても規定され「(手を置くことと関連した)告白の祈りの後、(贖いの日に)イスラエルの子らの罪はそのいけにえの上に置かれる」と言われています。マイモニデス(Maimonides)によると、これはなぜ贖いの日に、赤い雌牛か山羊のいけにえ、また似たようないけにえに触れる者は誰でも汚れを受けるかを説明していると言います。なぜなら、これらの動物は実際に罪を負っていると見なされていたからです。事実、ラビたちの言い回しを借りると、この罪を負った動物はそのために退けられ、忌むべきものとなることがはっきりと決まっていたのです。クリスチャンの読者なら、ここで聖書の主張を思い起こされるでしょう。『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』(2コリント521
 
ですがもうひとつ、シナゴーグが強調点を置いていた側面があります。似たようなものがたくさんあるにせよ、次の引用を載せるのが最適だと考えられます。「正確に言えば、そのいけにえと同じように罪人の血が流され、罪人の体が焼かれなければならなかった。しかし聖なる方――彼に祝福あれ!――が私たちからの贖いと和解のいけにえを受け入れてくださった。主――彼に祝福あれ!――が人に示された完全な恵みを見よ。哀れみとその恵みの完全さをもって、主はその人のたましいの代わりに動物のたましいを受け入れ、それを通して、和解が成立するのである」従って、この原則と共に、次の質問への答えも重要なものとなってきます。果たして昔のイスラエル人はいけにえの意味を理解していただろうかということです。「いけにえをささげる者は、そのいけにえが自身の贖いであると知りながら来る必要がある」
 
ユダヤ教の礼典
 
これらの観点を踏まえると、シナゴーグで頻繁に述べられてきた深い欠乏の思いは非常に心を打つものです。贖いの日の礼典には次のようにあります。「まだ祭壇や聖所が元の場所にあった頃、私たちはくじによって決められた山羊によって贖われていた。しかし、今は私たちの咎のため、もし主が私たちを滅ぼすことを良しとされるのなら、私たちの手からは全焼のささげ物やいけにえを受け取られない」ユダヤ教の祈祷書の同じような箇所からもうひとつだけを付け加えておきましょう。「我々は暴虐と反抗を口にした。我々は正しくない道を歩んだ…見よ、我々の罪が我々の上にのしかかった。それらは重荷のように我々を圧迫する。それらは我々の頭の上を越えていった。我々はあなたの素晴らしい戒めを捨て去った。我々は全能の神であるあなたの前にどのようにして出て行って、我々の罪を贖い、我々のそむきを捨て去り、罪を取り除き、あなたの恵みをあがめることができるだろうか。いけにえとささげ物はもはや無く、罪とそむきのためのささげ物は止んだ。いけにえの血はもはや振りかけられない。あなたの聖なる家は破壊され、あなたの聖所の門は落ちた。あなたの聖なる町は荒廃している。あなたは殺し、(我々を)御前から投げ捨てた。人々は去り、あなたの御顔から追い立てられた、あなたのいけにえを運んでいた祭司たちが!」それゆえ嘆きが頻繁に繰り返されています。「我々のための仲裁者として立ち上がってください(これは真実でしょう)、私は身代金(贖い、また覆い)を見つけました」そして贖いの日に、他の場合に繰り返される内容について、彼らは祈ります。「ヨベルにあってシオン、あなたの町、そし昔エルサレムにあったような喜びをもって、あなたの聖なる家に我々を連れ戻してください!その後、我々はあなたの御顔の前で定められたいけにえをささげましょう」
 
贖いの日の前夜
 
誰が浮浪するユダのこの深い嘆きに答えることができるでしょう。彼らのいけにえの代価となる身代金はどこで見つかるのでしょう。その失望の中にあって、ある者は父祖たちの功績やその敬虔さをもって訴え、他の者は最後の罪滅ぼしとみなされる自分たちイスラエルの苦しみや死をもって訴えます。しかし最も深い憂鬱さを表している例は、おそらく、贖いの日前夜に信心深いイスラエル人が行ういけにえの真似事です。男性は白い雄鶏を取り、(ヘブライ語の「男」(ゲベル)はタルムード中において「雄鶏」として使われており、「白」はイザヤ118節から取られている)女性は雌鶏を取って、家のかしらが祈ります。「暗やみと死の影に住み、悲惨さと鉄につながれた人の子たち――彼はその者たちを暗やみと死の影から引き出し、その鎖を砕かれる。愚か者たちは彼らの罪と不正のために苦しんでいる。彼らのたましいはあらゆる種類の肉を忌み嫌い、死の門の近くに引き寄せられる。そして彼らはその苦しみの中にあって主に叫んだ、その苦悩から救い出されるために。彼はそのみことばを遣わし、彼らを癒し、彼らをその破滅から救われる。その後彼らは主の誠実さと、人の子らへの素晴らしい働きのためにほめたたえる。『もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」』(ヨブ3323節−24節)」
 
次にその家のかしらはそのいけにえを頭の周りで揺らして言います、「これが私の身代わりである。これが私の引き換えとなるものであり、これが私の贖いである。この雄鶏は死に渡され、私は長く幸福な人生、平安へと入るように!」その後、彼はその祈りを三度繰り返し、今ほふられるいけにえの上に手を置きます。
 
その場所であれ、その方法であれ、律法により認められず、神に権威を与えられていない手によるこの動物のいけにえは、イスラエルの暗く、荒涼とした闇夜を表す悲惨な幻想ではないでしょうか?またこれは奇妙にも、雄鶏が三度鳴き、ペテロに『世の罪を取り除く神の小羊』を否んだ事実を実感させた、もうひとつの夜を思い出させないでしょうか?
 
そして未だにシナゴーグの嘆きは、過去の不信心と無知の多くの世紀を通して、私たちに届いています。「無実の者を連れてきて、咎ある者のために贖いをさせよ!」この呼び掛けに対して、使徒の出した応答の他は誰も決して答えることはできません。『このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です』!(ヘブル726節)』(訳:だいすけ)
(『The Temple : Alfred Edersheim(神殿:アルフレッド・エダーシェイム著 1874年)』p.118-122より)
 
完全ないけにえであるイエス・キリストを受け入れずに救われることは決してありません。
彼を受け入れた人は何と幸いなことでしょう!
 
 
(ここで無料で視聴可(英語))
 
 
 
 

『山上の説教』

山上の説教――「〜する人は幸いだ」という箇所に関してロイドジョンズ師のメッセージ

とても励ましを受けたので、ここに引用します。




『これらの描写は、はっきりと(おそらく聖書全体のどの個所よりもさらにはっきりと)、キリスト者と

非キリスト者の間の本質的な相違を指摘している。これは、私たちと重要な関係のある問題である。そし

てこれが、山上の説教の考察こそ何よりも重要であると私が言う理由である。山上の説教は、人間の行為

の単なる描写ではない。その核心は、キリスト者と非キリスト者との間のこの相違なのである。新約聖書

はこの点を、全く基礎的、根本的事柄であると見ている。現代の世相を見るとき、教会における第一の必

要は、この根本的な相違の明白な理解なのである。この相違は漠然とされてしまっている。世は教会の中

に入って来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この

区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も。教会の歴史における偉大な時期の

一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部

の人にも魅力的にすべきであり、できるだけ外部の人と似たようにするべきであるという考え方に接して

きた。第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き

合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろのことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ま

すためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来る

であろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。教会は絶対

的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会

を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。

これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分

はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たち

の希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていた

いと切望すべきである。私たちが切に願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに

似れば似るほど、望ましいことである。キリスト者は、キリストに似る者となればなるほど、ますます非

キリスト者とは似ない者になるのである。』(D・M・ロイドジョンズ著『山上の説教』p.50-51 幸福の使信への序文より)

人の意見よりも

これまで読んでいて勉強になった本がたくさんあります。


ウォッチマン・ニー、D・M・ロイドジョンズ、C・H・スポルジョン、R・A・トーレイ、D・L・ムーディー、ジョン・バニヤン、フランシス・シェーファー、E・M・バウンズ、アンドリュー・マーレイなどなど


それぞれ特徴があって、強調点も違って、でもみことばをそのまま信じるという点は共通していて、そのために自分をささげていた人たちです。


でもこのごろは、このような本はあまり読んでいません。
(嫌いになったわけではありませんが)


なぜかっていうと、聖書の読み方に関して、誰か人の意見はもういらないなと思ったからです。


「なぜその箇所をそういう風に解釈するのか」


「なぜその箇所からそのようなことを言えるのか」


このようなことが気になりだしたからです。


ロイドジョンズ氏は素晴らしいのですが、どうやったら彼のように聖書を読めるのか。


そういうことって知りたくならないですか??




特に象徴に関しての洞察はロイドジョンズ氏、スポルジョン氏らはどちらもすごいものを持っていると思います。
そして、その象徴を理解して当時の社会への適用の仕方も教わるところが多いと思います。



しかし、どうやったら彼らのように聖書を理解できるのか。
いつまでも、彼らに頼って、この解釈は「誰々がどうこう言ってたよな」とかいうのを調べないといけないんでしょうか。



象徴や予型を解釈するにあたって、その問題に突き当たることが多いと思います。



そこで必要と感じたのが、新約聖書が旧約聖書をどう解釈しているかを知るということでした。

旧約聖書を引用している箇所を読めば大体は分かるんじゃないかと思っていました。

けど、新約が旧約を引用している箇所を見て、旧約に戻ってみても
どうしてこの箇所を引用したかが、まったく分からないじゃないですか、という事実に気付きました。



なぜヘロデがベツレヘムの幼子を虐殺したときに、ラケルが泣いたというエレミヤ書の記事が引用されたのか。
インマヌエルと最初に出てきた旧約の箇所は、新約のイエスの誕生とどう関係があるのか。



このようなことが頭の中で混乱を引き起こしました。



そこで分かったのが、僕たちの聖書解釈法と、1世紀のユダヤ人クリスチャンの聖書解釈法は違うんだということです。


そう、自分の時代から、自分の背景から、自分の知識から旧約聖書を解釈するのと
彼らの時代、背景、知識をもって解釈するのとでは自ずと違ったものになるのは当たり前です。


そこで出会ったのが(というより重要性を分かったのが)ミドラッシュという読み方でした。


聖書の預言は、ユダヤ的なもので、複数の成就があって、パターンとして繰り返され、終わりにすべてが成就されるというものだということを学んだのです。

そこから聖書が「そうか!」というように明らかになっていきました。



何よりも当時の文化、時代に存在した人が読むように聖書を読むべきなんだというのが今日のこの記事の結論です。


人の意見よりも、聖書が聖書を解釈する方法を知り、それを私たちも用いるということが大切なんじゃないでしょうか。
このごろ図書館からある本を借りて勉強していました。


『F. ヨセフスによる ユダヤ人の歴史』N. グラッツェル編 岩本修一訳


ヨセフスの書いたユダヤ古代史や、ユダヤ戦記から大事だと思われる部分を引用してそのまま載せた本です。ヨセフスのことは聞いたことはあるけど、いきなり古代史や戦記に挑戦するのはと思われる方には、この本は最適だと思います。

この本を読んで何よりも、新約の歴史的な背景を理解できたということが大きく益を受けた点です。

例えば、

イエスさまが神殿(第二)が破壊されると言われた後(ルカ21:5−6)
弟子たちはそのようなことがいつ起こるのか、前兆は何かと尋ねました。
そのときに『大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。』(ルカ21:11)と言われました。

この最初の成就は紀元70年に神殿が破壊される前に起こりました。

以下がヨセフスの記述です



『こうして詐欺者たちや神の使者をよそおった者たちは当時哀れな民衆をだましたので、民衆は目の前に

迫っている荒廃を予示する明らかなきざしに注意を払いもしなければ、信じもしなかった。あたかも混乱

してしまって目と心を奪われたかのように、彼らは神の直接の警告を無視した。剣に似た星が都の上に留

まった時、また彗星が一年中ぐずついている時のそれがそうであった。この戦争より前に起こった反乱と

騒乱の前に、民衆が種入れぬパンの祭り[三月−四月]のために集まった時、……光――それは半時間続い

た――が夜の九つ時に祭壇のまわりであかあかと輝いたので、明るい昼間のように思われた時がそうであ

った。未熟な者はこれを吉兆と見なしたが、しかし律法学者は直ちにそれを後に起こる事件の前兆である

と宣言した。その同じ祭りに犠牲のためにある人にひかれた雌牛が神殿の庭の真中で子羊を産んだ。更

に、内庭の東の門――それは非常に重い真ゆの門で、夕方に締められ、20人でも動かせないほどのもので

あったが、その先端に鉄をはめてあるかんぬきで締められていて、それには全体が一つの石で造られた敷

居の中に非常に深く差しこまれるさし金がついていた――この門が夜の六つ頃ひとりでに開くのがみとめ

られた。神殿の衛兵は走って隊長に報告を行った。その隊長はその場所に行ったが、うまくその門を締め

ることができなかった。無知な者にはこれもまた非常に幸先のよいきざしと思われた。というのは彼らは

神が彼らに祝福の門を開かれるのだと考えたからである。しかし学者はそれを神殿の安全が自然に崩れ、

門が敵の有利なように開かれることを意味するものと理解し、それを各々の心のなかで切迫してきている

荒廃のきざしと解した。

この祭りから幾日も経たないうちに、到底信じ難いような不思議な現象が現われた。私が語ろうとしてい

ることは、それが目撃者によって語られ、そのようなきざしにあった不幸でも伴わなければ、単なる作り

話のように思われるであろうと思う。国中至るところで、日没のまえに戦車が空中に現われ、武装した大

軍が雲の中を疾走し、町々を包囲攻撃するのが見られた。そしてペンテコステと呼ばれる祭り[五旬節の

祭り]に、夜祭司たちがいつも奉仕を行いに神殿の内庭に入った時、彼らが言うには、最初震動と鳴り響

く騒音によって、次に群集のそれのように「さあ、われわれは出発しよう」という声によって注意を引き

つけられた。……

もしわれわれがこれらの事件を振り返るならば、神は救いの道を予示して人類のために配慮しておられ、

人間は自分自身の愚行と自分の選んだ悪によって滅ぶのだということを知るであろう。……』(p.305-306)




この空中に戦車が現れたという話は、教会史を書いたエウセビオスもヨセフスの記述を引用しています。

世の終わりも同じような、不思議なことが起こると思います。

なぜなら、聖書の預言はパターンで、イエスさまは同じ文脈で再臨について書いているからです(ルカ22:27)。



実際この本を読むと、神殿が軍隊によって囲まれたとき、エルサレムの中では党派争いが起きていて、ユダヤ人同士が殺し合っていました。

終わりの時代の教会がそうなってしまうということを考えたら、ぞっとしますね。

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