だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

オススメの本

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

D・L・ムーディー 「GLAD TIDINGS」(喜びのおとずれ)

祈祷会でのメッセージ

よいサマリヤ人であるキリスト ルカ10:25−37

『この状況によって福音全体を理解することができます。エルサレムは平和の町でした。エリコは見放さ

れた町、そしてエルサレムからはずっと長い下り坂でした。その不幸な男は旅立ったとき、歩くのに易し

い道であると考えたのです。

 しかし、強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、半殺しのまま放置されました。そこへ祭司とレビ人が通り

かかったのです。この二人は多くの種類の人を表わしています。祭司は自分自身に「私は、自分の弟の番

人なのでしょうか」と問いかけたことでしょう。そして、「そもそもなぜ、あのような所へ行こうとした

のか」「なぜ家にとどまっていなかったのか」「エルサレムにいれば良い暮らしができたろうに。彼は何

が起こるかを知っていたはずだ」と非難したことでしょう。ある人は貧しい者を見たときに、その貧しさ

や不幸な者に起きた出来事を、非難することが自分の義務だと考えています。

 もう一つの種類の人は、どんな苦しみを見たときでも、哲学的に考える人です。「なぜ神はこれらのこ

とをされるのだろうか。なぜ神は罪と貧困をこの世界に許されているのか、私は知りたい。必要じゃ

なかったのに。そのようなものが無くても世界を造れたはずだ。」

 しかし、よいサマリヤ人が来ると、気の毒に思ったり哲学的に考える以上のことをします。彼は助け、

油を注ぎ、この哀れな者を抱きかかえるのです。この者に触るのに躊躇(ちゅうちょ)はありません。彼

はその者がユダヤ人であるか、異邦人であるかということは尋ねず、ただそこから連れて帰るのです。

 しかしながら、多くの人は尋ねます。「新しい回心者を得たときにはどうしますか。メソジスト、バプ

テスト、長老派、どの教会に連れて行きますか。」「分かりません。私たちは考えていません。まず彼を

穴から引き上げてやることが先なのです。」「ああ、それなら私たちは関わりたくありません。もし関わ

るならきちんと順序正しくしたいからです。」

 このような人はよいサマリヤ人ではありません。彼らはその後ずっと自分に好都合に取りまとめること

が出来なければ、道ばたの哀れな者と関わりたくないのです。

 穴に落ちた者を非難してはいけません。キリストは私たちのよいサマリヤ人です。彼は私たちを助け、

私たちも他の人を助けるように語りかけています。』

信仰の源

『 信仰は神を起源とします。神を見、神を仰ぎ望み、神を黙想すればするほど、私たちは信仰を持つで

しょう。

 一つの例証がこの教えの理解を助けてくれることでしょう。かつて、何人かの兄弟たちが信仰の問題で

わたしと話をしにやって来ました。彼らは自分たちの信仰が本当に小さいと感じていました。しかし、本

当に小さいのは彼らの信仰ではなく、彼らの神であるとわたしは言いました。もし、より大きな信仰を彼

らが望んでいるとしたら、より大いなる神を必要としたことでしょう。信仰とはだれかに自分自身と自分

の事柄をゆだねることであると、わたしはその日、彼らに言いました。神を信じるとは、自分自身と自分

の事柄を神に任せ、わたしたちのために成し遂げてくださるよう神に信頼することです。わたしは尋ねま

した、「あなたが何かを人に任せる時、『この人に信頼する信仰が自分にあるだろうか?この人を信頼す

るのにわたしの信仰は十分だろうか?』と問うでしょうか?」。あなたは決してこんな質問はせず、むし

ろ言うでしょう、「彼は信頼できるだろうか?」。あなたは、「わたしは彼への信仰を持っているだろう

か?」とは問いません。あなたが店の持ち主で、一人の支配人を雇って仕事をすべて任せるとしたら、雇

うときに「わたしは彼を信じる信仰を持っているだろうか?わたしの信仰は小さすぎはしないだろうか?

彼に対する信仰を増し加えるべきだろうか?」などとは問わないでしょう。むしろ、あなたは自問したこ

とでしょう、「彼は信頼できるだろうか?彼は正直だろうか?彼は忠信だろうか?彼は当てになるだろう

か?」。彼が正直で、信頼でき、当てになるからこそ、自然にあなたは彼の手に自分のすべての仕事をゆ

だねるのです。あなたは、信仰があるとか、大きいか十分かなどと自問自答する必要はないことでしょ

う。

 同様に、あなたは神に信頼すべきです。あなたは、「わたしに信仰があるだろうか?わたしの信仰は大

きいだろうか、十分だろうか?わたしの信仰はどれくらい増し加えられるべきだろうか?」と尋ねる必要

はありません。あなたが尋ねるべきすべてのことは、「神は誠実だろうか?神は信実だろうか?神は信頼

できるだろうか?神は彼の約束を悔いて彼の言葉を破るだろうか?」です。もし神が誠実であり、信実で

あり、信頼でき、約束したことを悔いることがないとしたら、あなたは自分に信仰があるかどうか、自分

を調べたり試したりする必要はありません。 』


『事実、信仰、経験』  ウォッチマン・ニー著より

聖書の本質

『近代的な立場がとるもうひとつの形として、保守的福音派に属するわたしたちを、「聖書崇拝者」すなわ

ち、聖書を神のかわりにしている、と非難することがあります。この批評家たちに言わせれば、彼ら自身

の権威は聖書ではなく、主ご自身である、というのです。こう言われると、それがわたしたち自身の主張

とちがわないみたいで、はじめは心をひきつけられます。注意深く検討してみないかぎり、これは非常に

霊的な発言と受け取られるのが当然です。

 しかし、わたしたちはこういうことを言う人たちに明らかな次のような疑問を出してみずにはおれませ

ん。どういうふうにして主を知るのか、聖書をはなれて主について何を知りうるのか、どこに主を見出す

のか、主について自分が経験したと思うことが、自分の想像の産物、あるいはなにか異常な心理状態の産

物、または、ひょっとして、なにか隠れた力や悪魔の働きではないということはどうしてわかるのか、と

いうことです。「わたしは直接主ご自身から聞くのだ」と言われると、いかにももっともらしく、印象的

に聞こえますけれども、わたしたちは、主についての認識の基礎、さらに彼の権威に関する自分の確信、

また、実際的にはどういうふうにしてそれを獲得できるのかなどの根本的な問題を、明らかにしてもらわ

ないかぎり、その言葉に重みを認めることはできないのです。』


教会の権威
D・M・ロイドジョーンズ著

信仰から信仰へ



夜の十時頃、この日の最後の礼拝をすますと、一人の貧しい男が訪ねてきて、妻が死にそうだから、ぜひ

来て、いっしょに祈ってやっていただきたいとわたしに頼むのだった。わたしはすぐに承知した。その男

と同道しながら、わたしは『聞けば、あなたはローマ・カトリック派だというのに、どうしてそちらの神

父さんを呼び迎えなかったのですか』とたずねた。すると男は答えて、『お迎えにいったのですが、神父

さんは、18ペンスのお金を持ってこなければ、だめだとおっしゃるのです。そんな大金はわたしにはあ

りません。なにしろひどく貧乏してしまっているのですから』といった。この言葉を聞いて、すぐにわた

しの胸に浮かんだのは、わたしがこの世の中で持っているお金の全部がたった半クラウン銀貨一枚きりだ

ということであった。そればかりでなく、翌朝の朝食として薄いお粥を用意してはいるけれども、昼食の

用意はまだ、なにもしていなかった。

とにかくも、わたしの心のうちに満ち溢れていた喜びの流れが、直ちに、ぴたりととまってしまった。け

れどもわたしは、わたし自身を叱りつける代わりに、その貧しい男を戒めはじめた。『あなたのいわれる

ようにこんな状態に陥るまで放ったらかしておいたのは、よくないですね、こんなにならないうちに方面

委員に相談して救済してもらうべきだったと思う』すると、彼は、方面委員のところへもいったのだが、

翌朝十一時にこいといわれた。けれども妻の生命は朝まで保たないのではないかと懸念されるのだと彼は

答えた。

『ああ!』とわたしは思った。『この半クラウンの銀貨でなしに、2シリングと6ペンスを持っていたな

らば、わたしはこのような貧しい人たちに喜んで1シリングをやることができるのだが!』けれどもこの

半クラウンの銀貨と別れるのは、いくらなんでも、できない相談だった。この事態に接しては、わたしと

しても、神とお金1シリング6ペンスを加えたものを信ずることはできるが、ポケットに1ペンスの金も

持たないで、神のみを信ずるだけの用意はできていなかった。こんなことがあろうとは夢にも思ったこと

がなかった。

…このような状態のもとでは、話をすることは、不可能だったが、祈りにはなんの困難もともなうはずが

ないと思っているといえば、不思議であろう。そのころのわたしには祈りはたのしいことであった。この

ように過ぎていった時間は決して退屈なものには思われなかった。わたしは少しも言葉の不足を感じなか

った。わたしがなさなければならないすべてのことはただ膝まずいてお祈りすることであり、彼らのとこ

ろへもわたしのところへも必ず救いが来るはずだとわたしは思っているらしかった。

『あなたのお願いに従って、わたしはここへきて、あなたの奥さんといっしょにお祈りするつもりです

よ』とわたしはその男にいった。『さあいっしょにお祈りしましょう』わたしは膝まずいた。

ところがわたしが唇をひらいて、『天にいますわれらの父よ』というとすぐに、わたしの心の中の良心は

いった。『お前は神をばかにするのか?ポケットに半クラウンの銀貨をもっていながら、膝まずいて、神

を父と呼ぶのか』

そのときわたしの身にふりかかってきた胸中の争いは、あとにも先にも経験したことのないほどの烈しい

ものであった。そのような形の祈りをどんなふうにやりとげたか、わたしは覚えていないし、またそのと

き述べた言葉が一貫したものだったか、そうでなかったかわたしにはわからない。しかし、わたしはすっ

かり当惑した気持ちで立ち上がった。

その貧しい父親はわたしの方をふり向いていった。『わたしたちがどんなに恐ろしい状態にいるか、あな

たにもおわかりでしょう。もしもわたしたちをお助け下さることができるならば、神のためにお助けくだ

さい』

その瞬間、わたしの胸の中へ、『求める者にあたえよ』(マタイ福音書5:42)という言葉がひらめいた。

王の言葉には力がある。

わたしはポケットへ手を突っ込んで、おもむろにその半クラウン銀貨を取り出して、その男に与えなが

ら、いった。『君よりは僕のほうがずっと幸福になったらしい。…』

その夜、わたしは、下宿へ帰りながら、わたしの心が、ポケットと同じように、どんなに軽やかになった

かを、いまでもはっきりと覚えている。暗い、人通りの全くない街路がわたしの口から押え切れずに流れ

出る賛美歌に反響した。

翌朝、わたしの皿の中にはほんの少しの粥が朝食分として残っていた。それを食べ終わらぬうちに、郵便

配達夫が戸口を叩く音がした。わたしは、月曜日には手紙を受け取る習慣にはなっていなかったので、女

家主さんが手紙をもってわたしの部屋へ入ってきたときには、ちょっと驚いた。そして手紙を取ってみて

も、その筆跡を判読することができなかった。それは不馴れな人の字か、わざと書いたものであり、郵便

局の消印は汚れて判らなくなっていたので、どこからきたのさえ、見当がつかなかった。封を切ってみる

と、書いたものは何も入っていないで、一枚の白紙の羊皮の手袋がたたみ込んであった。わたしが驚いて

それをひろげてみると、中から半ポンドの金貨が一個ころころと床の上に落ちた。『神をたたえよ』とわ

たしは叫んだ。『十二時間の投資に対する300パーセントの割戻しとは、すばらしい利益だ!もしもハ

ル市の商人たちがこの割合でお金を貸すことができたら、どんなに喜ぶことだろう』。そこでわたしは当

然のことながら、絶対に破産しない銀行にこのお金を預けておこうと決心した。こう決めたのをわたし

は、今でも後悔していない。

わたしはしばしばこの事件を思い起こした。そして後年、困難な状態に追い込まれたとき、このことがわ

たしにとって、大きな助けになっていた、どんなに小さな事柄を処理するのにも、神に忠実であるなら

ば、人生におけるもっと重大な試練に臨んだ場合にわれわれの助けになるような貴重な経験と力を得るで

あろう」。

イメージ 1

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」(第二コリント5:7)。
「事実」と「信仰」と「経験」の三者が、城壁の上を歩いていたというたとえ話を、ご存知の方もあるでしょう。

「事実」は城壁の上を、右も左も見ず、また後を振り返らず、まっすぐに歩いていきました。「信仰」は

その後に従いましたが、彼が「事実」から目を離さないうちは、万事ことなく運びました。が一たん「経

験」が気になるや否や、それがどのようになっているか確かめようと振り向きました。すると「信仰」

は、均衡を失って城壁から落ちてしまいました。そして「経験」もその後を追って落ちた、というので

す。

すべての誘惑は、原則的に見て、自己の内を見ることにあります。すなわち主から目を離して、外観を気

にすることです。信仰は絶えず山に直面しているのです。その山とは、神の御言葉と矛盾する証拠の山で

あり、知覚世界の事実の領域において明らかに矛盾と思える山−感情あるいは想像の世界同様、行為の世

界における失敗という山です。そこでこの山か、あるいは信仰かのいずれかが去らねばなりません。両者

は並び立つことができないのです。しかし、問題は多くの場合信仰が去り、山がとどまるところから生じ

ます。そうであってはならないのです。私たちが真理を発見するために感覚に根拠を求めるとすれば、私

たちの経験は、サタンの偽りにあやつられていることをしばしば発見するでしょう。しかし、もし御言葉

に矛盾するものを絶対に受け入れず、神のみを仰ぐ信仰を維持しようとの態度を持続すれば、サタンの偽

りは消え始め、一方私たちの経験は次第に御言葉と一致するようになることを発見するでしょう。



『キリスト者の標準』 ウォッチマン・ニー著 いのちのことば社

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
だいすけ
だいすけ
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(10)
  • ジョンヤッシー
  • インマヌエル
  • aki
  • マタリー
  • cot*****
  • ジェシー
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事