だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

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 神の国に入る唯一の方法は神の国に生まれることです。もし、今夜、大天使ガブリエルが飛んで来て、

わたしたちが何でも願いを言えたとしても、神の国に入るのにそれより良い方法は願うことが出来ないで

しょう。キリストは救いを用意してくださったので、わたしたちのすべきことは、ただそれを受取ること

なのです。さあ、誰もちゅうちょすることはありません!この国には、大統領は国内で生まれた人でなけ

ればならないという法律があります。外国人がやって来ても、彼らが大統領になることを禁止している、

その法律に関して不平を言う権利はありません。それなら、神さまは永遠のいのちの相続人は、彼の王国

で生まれた者であることを定めた法律を作る権利はないのでしょうか?新生していない人は天国にいるよ

り、むしろ地獄にいることを望むでしょう。心が堕落と邪悪で満ちている人を、汚れのない者、聖なる

者、贖われた者のいる天国に連れてきたとしたら、彼はそこにはいたくはないでしょう。友よ、もし、天

国で幸せになりたいのなら、この地上で天国を作り始めなければなりません。天国は備えられた人のため

に、用意された場所なのです。もし、とばく打ちや冒とくする者をニューヨークの道から連れ出して、水

晶で出来た通り、いのちの木の陰の下に置いたならば、彼らは「ここにはいたくない。」と言うことでし

ょう。もし、心が新生していない人を、その生まれつきの性質のまま天国に連れて行ったなら、天国にま

た、もうひとつの反逆が起こるでしょう。天国は二度生まれた人たちで満ちています。わたしが1837年に

生まれたとき、アダムの性質を受け、1856年に新しく生まれたとき、もうひとつの性質が与えられまし

た。

 あなたがまず、新しく生まれることに心を決めない限り、正しく神さまに仕えることは不可能です。家

が砂の上に建てられていれば、崩れ落ちます。しかし、それが岩の上に建てられていれば、風や波に対し

ても固く立つのです。キリストの上に基礎を持っていないかぎり、わたしたちの信仰は持ちこたえること

は出来ません。わたしたちは世界中の多くの国を旅し、多くの国を見るかもしれません。しかし、ひとつ

の国があります。ジョンバンヤンが幻の中で見たベラウの地です。キリストによって新しく生まれないか

ぎり、その国を見ることは出来ないのです。外国には多くの美しい木があります。しかし、救い主にある

信仰によって、目がきれいにされなくては、いのちの木を見ることは出来ません。オハイオ、ミシシッピ

やハドソンにあるような美しい川を、この地上で見るかもしれません。そしてそこを遊覧するでしょう。

しかし、心に留めておいてください。神さまの座から溢れ出て、上にある王国に流れる川を、あなたは見

ることは出来ないのです。あなたはこの世の王や主を見るかもしれません。しかし、あなたが新しく生ま

れない限り、王の王、主の主を見ることは出来ないのです。あなたがロンドンに来たとき、お城に行き、

イギリスの王冠を見るかもしれません。何百万ドルもの価値があり、兵士に守られている王冠をです。し

かし、心に留めてください。あなたが新しく生まれない限り、いのちの冠を見ることはないのです。あな

たはこのような集会に来て、シオンの歌を聴くかもしれません。しかし、モーセと子羊の歌は、新しく生

まれない限り、割礼を受けていない耳で聴くことは出来ないのです。わたしたちはニューヨークやハドソ

ンの美しい邸宅を見るかもしれません。しかし、心に留めてください。新しく生まれない限り、キリスト

が備えておられる住まいを見ることはないのです。神さまがそう言ったのです。あなたはこの世にあって

幾千もの美しい物を見るかもしれません。しかし、アブラハムが旅を始めてから、彼の目を奪っていた町

を、あなたは新しく生まれないと見ることができません。多くの人が結婚式に招かれるでしょう。しか

し、あなたが新しく生まれない限り、子羊の婚姻の宴に出席することは出来ないのです。親愛なる友よ、

神さまがそう言っているのです。あなたは今夜、天国にいる母の顔を見るかもしれません。そして彼女が

祈っているように感じるかもしれません。しかし、時が来ると、あなたが新しく生まれていない限り、永

遠に会うことは出来ないのです。最近、亡くなっていく母のとなりに立っていた、若い男性、女性がいる

かもしれません。彼女は言います。「必ず天国で会いましょうね。」そして、あなたは誓いました。あ

あ、あなたが新しく生まれない限り、もう会うことは出来ないのです。わたしは信じていますが、ナザレ

のイエスは、新しく生れる必要なんてないという不信者より早く来られます。もし、あなたが以前、小さ

な子供を亡くしたのなら、御霊によって生まれなければなりません。わたしは今夜、最近、愛する者を墓

に運んだ父親や母親に向かって、喋っているかもしれません。その家がどんなに薄暗く見えることでしょ

うか!新しく生まれない限り、その子に会うことは出来ません。

 またわたしは、天国に愛する者がいる、父親や母親に向かって喋っているかもしれません。その子の声

が聞えたなら、「この道を進んで。」と言っているでしょう。天国に行った友達はいますか?若い人た

ち、光の世界に行った母がいますか?もし、彼女の声が聞えたなら、「この道を進みなさい、息子よ。こ

の道を進みなさい、娘よ。」と言わないでしょうか。今でも彼女を再び見たいのなら、新しく生まれなく

てはなりません。そうです、わたしたちは皆、兄が天国にいるのです。およそ1900年前に彼はそこに渡

り、天国からあなたを呼びかけ続けているのです。世に背を向けましょう。世には耳を貸さず、心を神の

国に向け、「いのち、いのち、永遠のいのち!」と叫びましょう。今夜、すべての魂がこの集会場を出る

前に、新しく生まれ変らせてくださるように、神さまに祈ろうではありませんか!


おわり

 『何の働きもない者が、信じるなら…』キリストが「完了した。」とゴルゴタで叫ばれたとき、彼はそ

の言ったとおりのことを意味していました。今、すべての人がすべきことはキリストの働きを受け入れる

ことです。たとえ男であっても、女であっても、その人が救いのために努力している限り、希望はありま

せん。ニコデモと同じようにこう言う人がいることでしょう。「それはとても不可解なことです。」わた

しはこのパリサイ人がしかめっ面になっていたことを想像できます。「どうして、そのようなことがあり

うるのでしょう。」彼には奇妙に聞えたことでしょう。「新しく生まれる、霊によって生まれる?どうし

て、そのようなことがありうるのでしょう。」多くの人は言います。「合理的に説明してください。もし

できないのなら、信じろと言わないでください。」今、この集会場にいる多くの人がそう思っているでし

ょう。わたしは合理的に説明しろと言われたなら、率直に言いますが、それは出来ません。『風はその思

いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって

生まれる者もみな、そのとおりです。」』わたしは風を完全に理解していないからです。説明してくれと

言われても、わたしは出来ません。ここではちょうど北に向かって吹いていても、ボストンに行けば南に

向かって吹いているかもしれません。数百フィート吹き上げていくかもしれませんが、そこからさっきと

全く反対に吹くかもしれないのです。風の流れを説明してくれと言うかもしれません。しかし、理解もし

ていなければ、説明のしようもないのです。「そら、風は本当に分からないだろう。」と言うと、小さな

女の子が「わたし、人より風のこと知ってるよ。風の音を聞いて、それが顔に当たっているのが分かるも

の。」と言うでしょう。そして、「あの日には手から傘のほうに風が吹いていたんじゃないの?道では人

の帽子が飛ばされるのを見なかったっけ?森の木を揺らして、田舎の穀物を吹き飛ばしているのを見なか

ったっけ?」兄弟たち、今夜風が無いと言うように、霊によって人が生まれることは無いと言われるので

すか。わたしは風を顔に受けているように、わたしの心に神さまの霊が働いているのを感じています。そ

れを説明することは出来ません。自分が信じていても、説明出来ないことがたくさんあります。創造を説

明することは出来ません。世界を見ることは出来ますが、神さまがそれを無からどうやって創造したかを

告げることは出来ません。しかし、それらの人でも創造の力があるということは、認めざるをえません。

信じていることでも、説明出来なかったり、論理づけることが出来ないことがたくさんあるのです。ある

販売外交員が来て、キリストの奉仕と宗教は啓示に関してであって、調査ではないと聞いたと言っていま

した。『御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき』とパウロは言いました。ある若者の一行が

田舎に帰り、旅の途中で説明できないものは何も信じないと決めました。やがて、それを聞いた老人がや

って来て言いました。「わたしはあなたたちが、何でも説明できないものは信じないと、言っていると聞

いたのだが。」「そうです。」彼らは言いました。「今日、列車の近くに行くと、ガチョウ、羊、豚、牛

がみな草を食べていました。あなたがたは、どのような過程を経て同じ草が、毛、羽毛、剛毛、羊毛にな

るのかを説明できますか?それは事実だと思いますか?」「もちろん、理解は出来ないが、信じざるをえ

ないでしょう。」「わたしはイエス・キリストを信じざるをえないのです。」わたしは人が改善されるの

を見るとき、新生を信じずにはいれないのです。わたしは回心した人々を見ました。町で一番の極悪な者

が新生し、−最悪の状態から引き上げられ、足を岩の上に置き、新しい歌が彼の口を満たしました。それ

までは、口から出てくるものは呪いと冒とくだったのが、今では神さまをほめたたえています。古いもの

は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。改善されただけではなく、新しく生まれました。−キ

リスト・イエスにある新しい人です。

 ニューヨークの暗い路地を見てみなさい。そこには哀れな大酒のみがいます。もし、地獄に近づきたい

なら、大酒のみの家に行ってみるといいでしょう。哀れで、惨めな酔っ払いの家に行ってみなさい。地上

でそこより地獄に似たところがあるでしょうか?貧困と絶望がそこを支配しています。しかし、耳をすま

してください。足音がドアのほうに近づいてくると、子供たちは走って隠れます。我慢強い妻は彼を待っ

ています。その男は彼女にとって苦労の種でした。何度も長い間もその殴られたあざを我慢しなければな

りませんでした。何度もその無防備な頭にこぶしが振り上げられました。今はまた、その罵りと残忍な扱

いを予想していました。彼は入ってきて、こう言います。「集会に行ってきて、そこで回心できるという

ことを聞いたんだ。神さまが救ってくださることを信じるよ。」何週間か後にその家に行ってみなさい、

すばらしい変化が起こっています!近づくにつれて誰かが歌っている声が聞えます。それは飲んで騒いで

いる者の歌ではなく、「千歳の岩よ」です。子供たちはもはや彼を恐れることなく、彼の膝に集まってき

ます。その妻は近くにいて、その顔は喜びで輝いています。これが新生というものではないでしょうか?

わたしはあなたがたを、このようなキリストの信仰の力によって新生し、幸せになった多くの家に連れて

行くことが出来ます。人が必要としているのは、誘惑に打ち勝ち、正しい生活に導く力です。


→つづく

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 それはとても厳粛な質問なので、わたしたちの前に上ってきて、皆が自分自身に対して、熱心に、誠実

に尋ねさせます。「わたしは新しく生まれただろうか?霊によって生まれたのだろうか?わたしは死から

いのちに移っただろうか?」さて、またある人はこれらの集会は特定の人に対しては、とても良いと言い

ます。それは、大酒のみ、ばくち打ち、または凶悪な者などを連れて来れたなら、とても良いと言ってい



のです。−もちろんそれはとても良いでしょう。回心しなければならないある人は言います。「キリスト

は誰に対してそう言ったのですか?ニコデモ?彼は大酒のみ、とばく打ちや盗人だったのですか?」彼は

エルサレムの中でも、もっとも尊敬された人の一人でした。間違いありません。彼は誉れある指導者でし

た。最高議会に属していたのです。とても高い地位があり、国の内でも最も立派な人でした。そして正統

派であり、信頼できる人だったのです。もし、彼が今日生きていたなら、わたしたちの大学の学長になっ

たことでしょう。そして、一気に神学校に入り、名前の前に「氏」が付けられ、神学博士のニコデモ氏、

さらには法学博士と呼ばれたことでしょう。しかし、キリストは彼に何と言いましたか?『人は、新しく

生まれなければ、神の国を見ることはできません。』同じようにキリストはヨハネ4章の中の女にも言い

ました。8節において、パリサイ人が彼に話しているとき、自己義認の実例を見ることができます。です

が、現在においても自分の功績、自分の偉大さに頼っているパリサイ人たちがいるのです。彼らはあなた

に向かってこう言います。「そうですね、このような集会は見捨てられた者、落ちこぼれや不幸な人には

もってこいだ。不道徳な者にはとても良い。しかし、わたしたちは品行方正だ。道徳的ではない者に言っ

てくれたまえ。」彼らはイエスが「あなたは新しく生まれなければならない」と言ったときに、彼らでは

なく、誰かが新しく生まれる必要があると考えているようです。愛された者、ヨハネが道を歩いていると

きに、彼に「わたしはあなたの主に昨夜会いましたよ。−彼に会いに行ったのです。」と言うと、「彼を

どう思いますか?」とヨハネは答えるでしょう。彼の友が答えて、「彼のような人に会ったことが無く、

あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。それからずっと彼の話したことが耳にこだま

しているのです。彼はわたしに、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。そ

れは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであると言いました。」

「ヨハネ、あなたの主はいつもそのように話すのですか?」「はい、主はいつもそのように話します。」

その人は彼に会ったことを決して忘れないでしょう。キリストが暗闇から彼を見つけ出したのです。彼は

正しい道に導かれました。彼はその道を歩み続け、イエスのためにしないことは何もなくなるのです。ニ

コデモはどうでしょうか。彼はアリマタヤのヨセフと共に、イエスの体を降ろして運びイエスと最後まで

共にいました。わたしはこの人のように、イエスと一緒にいなかった人で、個人的な対面をした人を知り

ません。さあ、あなたも彼と対面するために、探し、従うことを決心しましょう。なぜなら、彼のように

輝いた者はいないからです。彼こそすべての人が必要とする人なのです。

 しかし、誰かはこう言うでしょう。「それが新生するということなら、わたしに何が出来るのでしょう

か?いのちを生み出すことは出来ません。自分自身を救うことは無理でしょう。」あなたは絶対に出来ま

せん。わたしたちはそう伝えはしません。人は自分を改善しようとしますが、キリスト無しにそれをする

ことは不可能です。それはアダムの性質に継ぎはぎをしているようなものです。そこには新しい創造が無

くてはならないのです。新生とは新しい創造です。もし新しい創造ならそれは神さまのわざです。創世記

の1章には人は登場しません。神さまの他に誰もいなかったのです。人はそこに加わって、手伝うことも

していませんでした。地を造られたときも神さまだけでした。この世を贖われたときも神さまおひとりで

した。『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』クシュ人はその皮膚を、

ひょうはその斑点を変えることはできないのです。わたしがイギリスにいるとき、わたしのかわいい娘が

言いました。「パパ、なんであの色がついた人たちは洗って白くしないの?」同じように、あなたは神さ

まの助けなしに、自分を純粋で聖くしようとするかもしれません。それは黒人が肌を洗って白くできない

のと同じくらい難しいのです。クシュ人はその皮膚を、ひょうはその斑点を変えることはできないので

す。人は肉によって神さまに仕えようとします。それは月を飛び越えるのと同じようなことなのです。そ

れゆえ、肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊なのです。今、神さまはこの章で

どのようにして神の国に入るかを、教えています。救いは努力する価値がありますが、わたしたちは、そ

こに入るために道を切り開くのではありません。わたしたちはそれを認めます。道に川や山があれば、川

を泳ぎ、山に登る価値があるのです。救いはその価値があるのは認めますが、それを行いによって得るの

ではありません。彼に向かって努力するのではなく、彼に向かって信じるのです。わたしたちは救われて

いるから善を行います。救われるために善を行うことはしません。十字架に向かってではなく、十字架か

ら出発して善を行うのです。しかし次のように書かれています。『恐れおののいて自分の救いの達成に努

めなさい。』そうです、救いを達成する前に、救いは得ていなければならないのです。もし、わたしのか

わいい息子に「行ってあの園で働きなさい。」と言ったとすると、彼が働くためにはそれを与えなければ

なりません。そしてまた、「この100ドルを慎重に使っておくれ。」と言ったとするなら、「それを僕

に渡してくれたら、慎重に使うよ。」と言うでしょう。わたしが初めて家を出て、ボストンに行ったとき

のことを思い出します。お金を使い果たしてしまって、一日に3回郵便局に行きました。わたしは一日に

1回しか家から手紙が来ないことを知っていました。しかし、もしかしたら何かの偶然で、手紙があるか

もしれないと思っていたのです。ようやく、小さな妹から手紙を受取りました。ほんとうに嬉しかったの

です。彼女はボストンに多くのすりがいるということを聞いて、その手紙の大部分はすりに気を付けるよ

うにというものでした。やっと今、わたしはすられるような物をポケットに入れたのです。それと同じよ

うに、あなたが救いを達成するためには、救いを得ていなければなりません。



→つづく

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 ヨハネ3章3節に注目してもらいたいと思います。『イエスは答えて言われた。「まことに、まこと

に、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』ローマ3章

を見ると、人が新しく生まれることは間違いなく必要だということが分かります。ローマ人への手紙3章

を読むと、生まれつきの人はどのようであるかを理解します。神さまがどのような方であるかを知りたい

なら、ヨハネ3章を見てください。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され

た。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』そうで

す。人がどのようにしていのちを失ったかを知るには、ローマ3章を読んでください。そして、ヨハネ3

章を読んでみましょう。あなたの中におられる神の御霊と祈りながら読むと、人がどうやって永遠のいの

ちを再び得るかを理解することでしょう。私はこの箇所ほど、よりキリスト者の精神をもって、深く読む

べき箇所を知りません。とても単純で納得のいく箇所だからです。今夜、自分のためにある、神さまの愛

を知りたい人が多くいるのなら、ヨハネ3章を読みましょう。そうするなら、その愛と永遠のいのちを発

見します。永遠のいのちを見つけるために、今夜この集会場から出て行く必要はありません。この章でそ

れを見つけ、この礼拝が終わる前に永遠のいのちを見出します。今夜、たましいの救いの道が開かれてい

ることを、その人たちは聞くでしょう。そうです、この新生というテーマほど大切なものを私は知りませ

ん。わたしは聖書の中にこれほど重要で、これほど明らかなものを知らないのです。しかし、これは教会

と世とが、どちらも理解していない問題なのです。教会と世がこの新生という問題にあたふたすること

は、間違いありません。ある人があらゆる話題に関しても精通していても、この新生という単純な話題に

は精通していないことを気づくでしょう。これはまさに、私たちの希望、私たちの宗教にとっての基礎な

のです。御言葉を読み進めるより、まず神さまの助けによってこの問題を十分に理解することは、はるか

に優れていることです。これは厳粛な質問です。「わたしは御霊によって生まれているのか?」「わたし

は新しく生まれたのだろうか?」あなたは、『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできま

せん。』ということを知っているのです。

 これから、何が新生ではないかを言いましょう。それは教会に行くことではありません。わたしは人に

会うとよく、彼らがクリスチャンかどうかを聞きます。「はい、もちろんそうです。少なくとも、わたし

はそう思っています。日曜日いつも教会に行っているからです

。」なぜですか、わたしは言うことが出来ます。まさしく悪魔は、毎週教会に行っていて、誰も彼のよう

に欠かさず教会に行く人はいないのです。もし、暗い路地のような町の外れであなたの出来る限りのよい

こと−神さまのことばを説教し、見捨てられた者に神さまの愛を示すことなどをしても−それは新生では

ないとわたしは言います。いいえ、それは違います!道端で神さまの種を蒔くによって新生を得るという

のは、間違った考えです。もし、教会に行くことが新生することなら−サタン自身にも希望があるので

す。しかし、悪魔は教会に最初に入っていき、最後に出ていくのです。そのようでない教会はありませ

ん。言っておきますが、彼のような常連はいないのです。しかし、それでも、もう一つの種類のクリスチ

ャンがいます。クリスチャンであると、思っているだけなのかもしれませんが。彼らは言います。「わた

しは正しいことをしようとしています。わたしはクリスチャンではないのですか。」いいえ、違います。

新しく生まれていることと、それが何の関係があるのでしょうか?そしてまた、もう一つの種類の人がい

ます。心を入れ替えることによって新生したと考える人です。いいえ、決意を新たにすることは新しく生

まれることではありません。それは何の役にも立ちません。

 洗礼を受けたことも訳には立たないでしょう。しかし、「なぜですか?洗礼を受けたのですよ。洗礼を

受けたときに新しく生まれたのです。」と言う人がいます。彼らは教会に対して洗礼を受けたのだから、

神の国に対して洗礼を受けたと考えるのです。言っておきますが、それは全く不可能なことなのです。あ

なたは目に見える教会に対して洗礼を受けるかもしれませんが、神の子に対して洗礼を受けていないかも

しれません。洗礼はそれ自身正しいのです。わたしがそれに反対して何かを言うことは出来ません。しか

し、もし洗礼を新生−新しく生まれること−と置き換えるなら、それはとんでもない間違いです。神の国

に対して洗礼を受けることは出来ません。もし、わたしが洗礼を授けることによって人を神の国に導ける

なら、説教することより、わたしにとってより良いのです。水が入ったバケツを持って行き、通りを進

み、人を救えばいいのですから。もし、人が起きている間にそれを許さなければ、彼らが寝ている間にそ

れをしましょう。どうにかしてでも、わたしはそうするでしょう。『人は、新しく生まれなければ、神の

国を見ることはできません。』とあるからです。今夜、ここにいる人の誰でも、他の何かに期待を置いて

いるなら−ほかのどの土台にでも−わたしは神さまがそれを吹き飛ばしてくださるように、祈ります。あ

なたは教会に対して洗礼を受けていますが、キリストの弟子ではないかもしれません。わたしは言います

が、その基礎に信頼を置いてはいけません。またある人は、「わたしは正餐式に行っています。わたしは

一様に正餐にあずかっています。」祝福された儀式です!イエスはそれをするごとに、彼の死を祝いなさ

いと言いました。しかし、それは新しく生まれることではありません。それは死からいのちへと移ること

ではありません。とても明らかに、はっきりと言われているので、間違えることはありません。新しく生

まれなければ、神の国を見ることはできないのです。正餐と何の関係があるのでしょうか?洗礼と新しく

生まれることに何の関係があるのでしょうか?教会に行くことと新しく生まれることに、何の関係がある

のでしょうか?しかし、また違う人が来て言います。「わたしは規則的に祈っています。」しかし、それ

も新しく生まれることではないと、言っておきましょう。それは霊によって生まれることではないので

す。


→つづく

希望

D・L・ムーディー 「GLAD TIDINGS」(喜びのおとずれ)

祈祷会でのメッセージ


『希望』


『今日ここにいる人皆に質問をしたら、それぞれが希望を持っていることでしょう。しかし、それは本物

の希望でしょうか?もし、それが偽りの希望なら無いほうがましなのです。ヨブは偽善者について言いま

した。「苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるだろうか」ソロモンは箴言の中で「悪者

の期待は消えうせる」と言っています。もし、間違った天国への期待を持っているなら、あなたの出来る

最善のことはそれを捨て去ることです。それらの良い点が何かあるでしょうか?それはあなたにヨルダン

川を渡らせる力を与えますか?または、死後あなたを支えることが出来るでしょうか?

 しかし、真の希望とは永遠の命に関してではありません。それは神によって(新しく)生まれた時に、

私たちに保証されます。私たちの希望はキリストの復活、そして彼の再臨と私たち自身の復活についてで

す。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と書かれています。主ご自身が天から下ってきて、死者は

よみがえり、私たちは空中で主と会うのです。輝かしい希望です。

 誰かが言いました、「喜びは朝に鳴くヒバリのようである、しかし希望は夜に鳴くナイチンゲールのよ

うだ」と。天国に行った後に希望は必要ではありません。しかし、希望は私たちをそこへ導くのです。あ

なたが望むなら、キリストとこの希望を今日持つことが出来ます。「この方はご自分のくにに来られたの

に、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々

には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」』

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