だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

象徴の学び

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「ミドラッシュは象徴を教理の基礎とはしません」


この意味を少し説明したいと思います。


旧約聖書での出エジプトの出来事は、私たちクリスチャンの歩み(救い)を表しています。

『そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。
私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。
その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。』(1コリント10:1−6)

私たちはイスラエル人と同じように、パロ(サタンの象徴)の支配にあって、この世の象徴であるエジプトから出てきて、子羊なるイエスの血によって救われました。その後には、彼らが紅海を通ったように私たちもバプテスマを受けて、イエスの死と復活は私たちの死と復活となって、エジプト人がその中に飲み込まれたように、私たちは古い自分から生まれ変わります。

とすると、エジプトはこの世の象徴です。

ききんのときにアブラハムとイサクはエジプトに下りました。
そこで何が起こったでしょうか?ふたりとも自分の妻を他人に渡してしまうようなことをしました!
そのくらい堕落してしまったのです。

彼らはエジプト、この世に戻って行ってしまいました。
これは信者が信仰を失って、堕落してしまうときのことを描き出しています。

バビロン捕囚ではエレミヤは何を警告していたでしょうか。

『今、ユダの残りの者よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
『もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう。
エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。』 』(エレミヤ42:15-17)

自分たちの罪を悔い改めない頑なな心のために、裁きとして送られたバビロン(偽の宗教の象徴)。

そのときにもエジプトへ下ってはならないと神さまは言われた。
(自分の罪のために神さまから裁きを受けるときも、この世にだけは戻ってはいけない)

またイザヤ書の中ではエジプトは「何もしないラハブ」と呼ばれている(イザヤ30:7)。

ラハブとはヨシュアが斥候を送ったときに、身を敵から隠してくれた女の人。
エジプトに逃げ込んでも何も良いことをしてくれないと聖書は明らかにしている。

またエジプトはわにと呼ばれている(エゼキエル29:3)。わには水辺にいて、休息を取ろうとしてやってくる動物を隠れて狙い、一気に噛み付いて水の中へ引き込む。
それはまさに世の象徴。仕事から帰ってきてほっとしたいと思ってテレビを見ると”同性愛者たち”や”反イスラエル””スピリチュアル”この世の考えが私たちを襲ってくる。

このようにエジプトはこの世の象徴。

これはほぼ聖書全体に関していえるテーマじゃないかなと思います。


「そうか〜エジプトはこの世の象徴なのか」


と思ってヨセフの話を読むとまた疑問が出てきます。

ヨセフは銀貨二十枚で兄弟の”ユダ”に裏切られ(創世記37:26-28)、エジプトに連れて行かれ、イエスがサタンに誘惑を受けたように主人の妻に誘惑され、それを乗り越えたが不正に訴えられ牢獄にいった。
そこで二人の男に命が救われることと死を預言し、後にパロはヨセフの位を上げ自分の第二の車に乗せ、エジプト全土を支配させた。

これはまさにイエスの象徴ではないですか。同じ名前のユダに銀貨三十枚で裏切られ、サタンに誘惑を受け、不正に訴えられ十字架に付けられた。そのときに一緒に十字架にかかっていたひとりに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ23:43)」と言われた(おそらくもう一人はパラダイスには行かなかった)。その後にイエスは父の右の座に座り(1ペテロ3:22)、万物を保っている方となりました(ヘブル1:3)

『ひとりのメシア ふたつの到来』参照
http://www.moriel.org/articles/sermons/OneMessiahTwoComingsJap.pdf


「エジプトはこの世の象徴で、エジプトの王パロはサタンの象徴だったんじゃないの?」
「パロの下にヨセフが権威を持ってたなんて、サタンの下にイエスさまが権威を持っているみたいじゃない?」

そう思うかもしれません。しかし、ここで注意すべきなのが「象徴と新約聖書のはっきりとした主張に同じ価値を持たせない」ということです。

象徴は決して教理の基礎となりません。

イエスは父の第二の権威であり(同等ですが)、サタン(被造物)の上におられる方です。

なので、象徴もその事実にしたがって読まないととんでもない結論(サタンの下にイエスがおられることのような)を出してしまいます。


これが象徴が教理の基礎とならないという意味です。

だからヨセフの箇所の読み方はパロは明らかに父なる神の象徴であるということです。

その理解をもって聖書箇所を読むと、


『やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」 』(創世記41:55)

『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ6:35)



『パロはヨセフに言った。「あなたの兄弟たちに言いなさい。『こうしなさい。あなたがたの家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。』 …家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」 』(創世記45:17-20)

『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 』(黙示録21:4)

『人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。』(ルカ17:30-33)


確実につながりがあることが分かったでしょうか。

このような聖書の読み方がミドラッシュです。(僕もまだかじった程度なのですが)
『ミドラッシュ』
http://www.moriel.org/articles/sermons/midrash_jap.pdf



その大きな原則は

「象徴は決して教理の基礎とはならない」
また
「文脈を考慮して読む」

ということでした。


何か質問や、感想などあればコメントしてくださいね。

幕屋と体

今日は聖書でよく登場する幕屋について考えていきましょう。

幕屋とは簡単に言えばテントです。
旧約聖書のはじめの5つの本、モーセ五書にはエジプトを脱出したイスラエルの民が幕屋に住んだことが書かれています。
幕屋はその場所に定住するためではなく、移動しながら生活をするのに適しています。
彼らはずっと荒野(砂漠)に住むために幕屋を張ったのではないのです。

パウロはそのコリント人への手紙第二の中でこう言いました。
『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
』2コリント4:18−5:4

パウロはこの箇所で幕屋という言葉を使っていますが、どういう意味で使っているのしょうか。

明らかにこれは幕屋そのもののことをさしているのではありません。
幕屋を「肉体」という意味で使っているのです。
この箇所の幕屋を「肉体」と置き換えてみると分かりやすいでしょう。

パウロが言っているのは、クリスチャンはこの地上の肉体はこわれても、神の下さる新しい肉体が与えられる、そしてその新しい肉体を着るのを切望しているのです。

パウロはこの表現をいきなり使っています。
言い換えるとこの表現を読者が分かることを前提に使っているのです。

聖書の民、ヘブル人(イスラエル人)は象徴をよく用いる民族でした。
聖書の中には多くの象徴が出てきます。
もしその象徴をないがしろにして読んでしまうと、多くの箇所が理解不能のまま終わるでしょう。
逆に言えば、象徴を理解すると多くのことが理解できるのです。

しかし、注意点は「象徴は事実に基づいている」ということです。
イスラエルの民が荒野にいたときは確かに幕屋を用いていたのです。
ただの象徴ではありません。
しかし、ただの歴史的事実だけで終わるものでもありません。

イスラエルの民が荒野にいるときに幕屋に住んだということは私たちに何を教えるのでしょうか。

出エジプト(エジプトから出て約束の地に行くまで)は私たちクリスチャンの信仰の歩みを示しています。
イスラエルがエジプトで奴隷であったように、私たちは一度この世の奴隷でした。しかし、彼らは傷の無い子羊を殺し、その血を門の柱やかもいに塗ることによって神の最後の災いから救われたのです。私たちもイエスが神の子羊として十字架上でその血を流され、私たちは神の裁きから救われました。
そして彼らは次に海の底を乾いた地のようにして渡りました。海が分かれたのです。
それは私たちが受けたバプテスマを示しています。
そして彼らは幕屋に住みながら、約束の地に向かって旅立ったのです。

私たちクリスチャンが救われて、バプテスマを受けてからまだこの罪が宿った肉体を着ながら、苦難の多いこの世を生きていきます。
クリスチャンは救われてから荒野に入ると聖書は暗に示しているのです。

この世は私たちの定住するところではありません。
約束の地である天を目指して、移動していくのです。

ヘブル書でもこうあります。
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
』ヘブル11:13

私たちも「地上では旅人であり寄留者であること」を告白しようではありませんか!

神は私たちの行く道を守られます。
なぜなら聖書にはこうあるからです。

『私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。』申命記29:5

食べることと教理

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聖書では「食べる」ことに関して多くの箇所があります。

その中でも特に変わっているのが次の箇所です。

『そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。
それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。その方は私に仰せられた。
「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」
そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。』エゼキエル2:9−3:4

これはエゼキエルという人の見た幻の一部分ですが、神は巻き物を食べて、その後イスラエルの家に行き神のことばを語れと言ったのです。

さて、これはどのような意味なのでしょうか。

聖書は聖書によって理解されるべきです。
いつも他の関連していそうな箇所を思い出すことは非常に有意義です。

聖書には同じように幻の中で、〜を食べろといわれた箇所があります。

『その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。
ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
しかしペテロは言った。
「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
』使徒10:9−15

このようなことがペテロに対して3回繰り返されました。

さてこれはどのような意味なのでしょうか?

この幻の後にペテロのところにローマ人から遣わされた3人の人が来ました。
そして、ペテロをその人の家に招いたのです。
そして招かれたペテロは福音を伝えました。
そしたら、なんと異邦人であるその人たちも信じて、聖霊を受けたのです。
彼らは異言で語ったり、賛美したりしました。
それを見たペテロは「異邦人でも救われることができるのか」と思ったことでしょう。

それまでの時代では異邦人は汚れた民族であり、ペテロでさえも彼らは救われることはないと思っていたのです。
しかし、神はいわれました。

「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

それまで、モーセの律法では地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうものは汚れたものとして、食べてはならないと言われていました。
しかし、神がきよめたのです。この場合、「汚れたものを食べる」ということが、「異邦人を受け入れる」ということと重ねられています。

このことからも分かるように、食べることと教理(異邦人も救われるということ)は隠れた意味として、書かれているのです。

食べるという行為はその食べたものを自分の一部にするということでもあります。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 』ヨハネ6:51

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
』ヨハネ6:53

イエスの肉を食べ、血を飲むということはイエスと彼の言葉を自分の一部とすることです。

最初に挙げた巻き物を食べる箇所も、神のことばを自分の一部として、民に語るという意味です。

悪魔に誘惑されたとき、イエスはこう言いました。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 マタイ4:4

いつも神のことばを食べて自分の栄養とするように、読み、自分の一部としていきましょう。

義の衣

聖書にはよく衣が出てきます。最初に出てくる箇所は創世記の3章21節です。

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』

これはアダムとエバが罪を犯して、目が開かれ自分たちが裸だと気づき、腰にいちじくの葉で覆いをつくりました。
それを十分だとしなかった神が皮の衣を二人に着せてくださったのです。
皮の衣を作るためにはなんらかの動物を殺さなければいけません。
これが、最初の動物の死です。人間の罪のために犠牲の血が流されたのです。

このことは何を教えているのでしょうか。
人は罪が露にされた状態(裸)でいるのを見て、神自身が自分の手で作った動物を犠牲にして罪を覆ったのです。
このように神は自分の義を人間に着せるのです。
衣が聖書に出てくるときはいつも『義』を示しています。

他の箇所も見てみましょう。

『すると、ダビデは自分の衣をつかんで裂いた。そこにいた家来たちもみな、そのようにした。』2サムエル1:11

聖書の中に出てくる人はよく自分の衣を裂きました。それは「義が破られた」ということを表わしています。言い換えると「不義がなされた」ということです。


『踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている。
』エレミヤ4:30

これはシオンの娘、神に反抗して歩むイスラエル民族のことを言っています。
自分を良く見せようと、緋の衣や金の衣のような高価な衣をまとっても役に立たないと神は言うのです。
それはたとえば、イスラエルの宗教的な善行、偽りの義の行為です。
神は悔い改めて、神に立ち返ることを望むのに、人はよく自分の犯した罪を自分の努力によって拭おうとします。


そして偽善的な人にイエスはこう言いました。
『「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。
』ルカ20:46


『しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
』 黙示録3:4−5
サルデスの教会の人には白い衣を着せると神は言いました。

世の終わりに
『花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」』 黙示録19:8
この花嫁とは教会のことです。

『その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
』黙示録7:9
『…「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
』黙示録7:14b

私たちはやがて来る患難から抜け出るには、自分の衣をイエスの血で洗って白くしなければならないのです。
それはイエスの身代わりの死、犠牲の死が自分の罪ためであったと信じることです。
そのイエスの血によってのみ私たちは洗われ、神さまの目からみて義となるのです。
それはもはや自分の善い行いではありません。
神の一方的な恵みです。

あなたもイエスの血によって神にきよい衣をきせてもらいましょう。

聖書の象徴 大水

聖書では多くの象徴が出てきます。
それらを理解することによって、より聖書が理解できるようになります。
ここでは聖書の中でしばしば登場する「大水」という言葉について考えていきましょう。

新改訳聖書第三版では「大水」という言葉は34回出てきます。
まずはじめに、この言葉の第一の意味は海のような多くの水などを指しています。
なので、最初の意味は「多くの水」です。

しかし、聖書が示しているのはそれだけではありません。

黙示録17:1を見てみましょう。
”また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。 ”

これは大バビロンと呼ばれる大きな都のことです(17:18)。そしてその大バビロンは裁かれると書かれてあります。
さて、大水とはどのようなもうひとつの意味を持っているのでしょうか。
それは聖書自身が説明しています。

”御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。”(17:15)

この大淫婦、大バビロンが座っているのはもろもろの民族、群衆、国民、国語だというのです。それを聖書は大水という言葉で表現しているのです。
これは他の聖書箇所を読んでみるとさらにはっきりしたものになります。

”ああ。多くの国々の民がざわめき――海のとどろきのように、ざわめいている。ああ、国民の騒ぎ――大水の騒ぐように、騒いでいる。国民は、大水が騒ぐように、騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう、つむじ風の前でうず巻くちりのように、彼らは吹き飛ばされる。”イザヤ17:12−13

このような箇所を読んでから次の箇所を読むとさらに意味がはっきりと分かります。
”私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。”詩篇69:14−15

この詩篇は新約聖書にも引用され、キリストであるイエスにおいての預言が成就しました。(詩篇60:21→ヨハネ19:28−30)
なのでこの詩篇はキリストについての預言です。

ならなぜ、詩篇69:14−15では大水という言葉がでてくるのでしょうか?
キリストは海に溺れて死んでしまったのでしょうか?
それとも何か海に関係していたのでしょうか?

みなさんもご存知の通り、キリストはゴルゴタの丘で十字架にかかって死にました。
十字架にかかると一番苦しいのは呼吸だという話を聞いたことがあります。
両手は釘で十字架に固定されます。しかし、肩の部分は固定されないので自分の体重の重みで体は下にさがり、そして呼吸がしずらくなるのです。
呼吸をするためには、自分の腕と足の力で体を持ち上げ、呼吸をしていたそうです。それをしている間に呼吸困難になって死んでしまうことが多いそうです。
キリストの場合は十字架にかけられる前にむちで打たれていました。なので、多量に出血し、そのような状態になると肺に水がたまるという現象が起きます。
その証拠にヨハネの福音書では、イエスにやりを刺すと体から水と血が出てきたと記録されてあります。
なので、キリストが死んだときに肺の中の水によって溺れて死んだと言っても過言ではないのです。

それともうひとつ、大水は多くの民を意味しています。
キリストは多くのユダヤ人によって非常に非難されて彼らによって十字架の刑が決まりました。このように読めるということも聖書のひとつの特徴であると僕は思います。なのでこの詩篇の箇所もキリストに関しての事実を記しているのです。

この「大水=多くの国々の民」ということを頭に入れながら次の箇所を読むとまた違ったことが見えてくるでしょう。
”それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 ・・・”

『なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。』詩篇2:1−2



神が私たちに御言葉を読み解く力を与えてくれるように祈りましょう。
神を愛する人たちに神の平安と恵みがありますように

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