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『また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。』黙示録13章16−18節
過去に何度も終わりの時代に現れる獣の刻印について記事にして書いてきましたが、今回はとても衝撃的だったので、また書いて、皆さんにお知らせする必要があると感じました。
まずはつぎの動画を見て下さい。
アメリカ、ウィスコンシンの会社が企業として初めて、マイクロチップを従業員に入れたというニュースです。入れるか入れないかは個人の判断らしく、従業員の約半数が入れる予定だということで、マイクロチップがあれば「クレジットカード」の役割をし(売り買いが出来る)、将来パスポートや公共交通機関に使用されるだろうと言われています。
今まで知りませんでしたが、すでにスウェーデンの企業で前例があるらしく、その会社と提携して行っているようです。
日本語でのニュースも出ていますので、以下を読んでみてください。
今回、特に驚いたのは日本のマスメディア(フジテレビ系)でもこのニュースが取り上げられていたことで、
以前までは、新奇なものが好きな変わり者がチップを入れるなどいうニュースしか、なかったのに対し、今回はより公で一般的なニュアンスを含んでいます。
また英語でしかほとんど、かつてそのようなニュースは無く、人に伝えても陰謀論的に扱われていましたが、今回はそうではありません。
もちろん、今の段階では厳密に聖書の言う獣の刻印とは異なりますが、確実に技術面、そして社会的にその準備がなされているといえるでしょう。
動画からのクリップ「チップ入れました」と書いてある
このようなニュースを見て、聞いて、聖書を知っているクリスチャンはどうすべきでしょうか。
ただ毎日のニュースの中のひとつに過ぎないと思って見過ごしてしまうでしょうか。
僕は自分中心な生活を送っている場合ではないと気付かされました。
聖書を知り、神さまを知っているクリスチャンはこの世、経済、お金を崇拝せず、今時間があるうちに出来るだけ聖書のメッセージを広めるべきです。
約2000年前から新約聖書は経済をコントロールする刻印を預言してきました。それはただ単なる偶然なのでしょうか。
それとも聖書の神は真実で、僕たちに前もって来るべきことを教えようとされているのでしょうか。
僕たちは究極の選択を迫られようとしています。
この世を取るか、創造主なる神さまをとるかです。
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終わりの日
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みなさん、こんにちは。だいすけです。
今回は、教会で少しシェアさせてもらった「主の日」について書いていきます。聖書箇所は第二テサロニケ2章です。
まず、第二テサロニケにはこうあります。
『さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること(parousia)と、私たちが主のみもとに集められること(episunagoge)に関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。』2テサロニケ2:1-2
最初に分かることは、テサロニケの、また新約聖書の時代の信者にとって主の日というのは「主イエス・キリストが再び来られること(parousia)」と「主のみもとに集められること(episunagoge)」だということです。すなわちこの世からの救いです。
その次の節にはこうあります。
『だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子(ho huios tes apoleias)が現われなければ、主の日は来ないからです。』2テサロニケ2:3
ここから分かることは、不法の人(=反キリスト)が現れるまでは、再び来られること(再臨)と主のみもとに集められること(携挙)が起きないということです。
ですが、不法の人とは実際どのような人のことなのでしょうか。その言葉自体は、「ルール(や律法)が無い」という意味です。その人のもうひとつの呼び名は、滅びの子(ho huios tes apoleias)です。実はこの全く同じ言葉がヨハネ17章12節に出てきます。
『わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子(ho huios tes apoleias)が滅びました。それは、聖書が成就するためです。』ヨハネ17:12
この文脈を知っている方は、この箇所での滅びの子が誰を指しているかご存じだと思います。
そう、イスカリオテのユダです。
2テサロニケ2章で同じギリシャ語が使われていることを考えると、終わりに現れる反キリストはイスカリオテのユダの性質を持っていることが分かります。
そしてその順序は ユダの裏切り → イエスの十字架
となること、また
これと同じで主の日も 反キリストの出現 → 主の日
となることが分かります。
この対比を見ると主の日とイエスの十字架が関連していることが分かります。
次の表を見てみてください。
この対照表を見ると、旧約聖書の主の日の記述が(部分的で、全体的ではありませんが)主イエスの十字架で成就したことが分かります。
私たちは自分が犯した罪のために罰せられるべきでしたが、イエスがその罪を十字架上で負われました。そのために救われることができます。
また言いかえると、主の日は神の怒りの日です。
私たち、クリスチャンは主の日を経験するのでしょうか?
主の日の怒りがイエスの十字架に注がれたことが分かると、僕たちがその主の日を経験することがないことが分かるでしょう。
私たちは患難(サタンの怒り)を経験しますが、主の日(主の怒り)を経験することはありません。
では、ここでこの記事の最初に載せた図、三つの山の絵について説明します。
(元のアイデアは故高木実さんの本からです)
聖書の預言はパターンで、複数の成就があり、最終的な成就で人間の歴史は完結します。主の日に関してもそうです。
上の対照表で触れたイザヤ13章は、第一の、文字通りの文脈はバビロン捕囚についてです。ですが、預言者はバビロン捕囚について預言しながらも、イエスさまの第一の到来、第二の到来に成就することまで語っています。
つまり、三重の未来を見ています。
僕たちはひとつの預言に、ひとつの成就と思いがちですが、そう見ていると聖書の大部分が意味を成しません。そしてその結果は、旧約聖書から考えず、黙示録の終末の箇所だけを考えて、あれこれ考えてしまうということです。黙示録は主に旧約聖書の引用または暗示から出来ていて、氷山の一角のようなものです。表面に出てきている最終的な成就の下の水中には、膨大な過去のパターンが隠されています。僕たちはその表面、最終的な成就だけを見て何か結論を下すべきではありません。
そして付け加えとしてですが、三重の未来を見ているといっても、個々の成就に細かい違いはもちろん、あります。
例えばイエスさまの第一の到来と、第二の到来(再臨)です。
多くの旧約聖書の箇所でふたつの到来がおなじように書かれています。しかし新約聖書はメシアが二度到来すると明らかにしました。
そのひとつが次の箇所です。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』ヘブル9:28
結論として、僕たちが覚えておくべき二つの点があると思います。
ひとつは、イエス・キリストが私たちのために「主の日」を経験されたということです。私たちが自分の犯した罪のために罰されるべきだったのに、イエスが罰せられました。神の燃える怒りを身に負って、私たちがしたことの結果が十字架上に注がれました。僕たちは何と罪深いことでしょう。何度同じ失敗を犯してしまうのでしょう。自分がしたように自分にもされるなら、僕たちはまともに生きていくことができません。
ですが、憐れみ深い神は、自分たちがしたようにされることを多くの場合許されていません。何とイエスの十字架は僕たちにとって恵みであることでしょう。
二つ目は、イエスの十字架を受け入れなければ主の日を経験しなければならないということです。イザヤ13章、ヨエル書、オバデヤ書、ゼパニヤ書を読めば主の日は恐ろしい日だと分かります。
イエスを信じている者にとっては主の日は喜ばしいイエスの到来であり、主と共にいることになる携挙です。
ですが、イエスを信じていない者にとって主の日は厳しい清算の日であり、自分が人にしたことはそのまま自分に返ってくる怒りの日です。
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みなさん、お久しぶりです。
今日は、教会で毎週読んでいる聖書通読から教えられたことがあったので、分かち合ってみたいと思います。
箇所は第一テサロニケ5章です。
特に1節と2節、
『兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。』1テサロニケ5:1−2
ここでひとつの問いが出てきます。
Q. なぜテサロニケの人たちは主の日がいつか、またはどういう時かについて書いてもらう必要がなかったのだろうか?
まず始めに、「主の日」とは詳しくは2テサロニケ2章にありますが、「主が再び来られること(parousia)」と「私たちが主のみもとに集められること(episunagoge)」です。
さて、テサロニケの人たちが終末論に特に詳しかったから、もう主の日の時を知っていて、そのために「書いてもらう必要がない」とあるのでしょうか。
僕はそうであるとは思いません。そうではなく2節を見ると、彼らは主の日が夜の盗人のようにやってくると「よく」知っていたとあります。
それは学校での抜き打ちテストに例えることができます。
良い生徒はいつも勉強し、先生に言われなくても自主的に勉強し、いきなり抜き打ちテストをされても、驚きはするけれども準備していたためにテストに合格できます。
一方、悪い生徒は勉強は全くせず、先生に言われないと自分から勉強せず、してもいやいやで、そのような状況の中、抜き打ちテストが来るとひどく驚き、もちろんテストに合格することができません。
テサロニケの人たちはこのうち良い生徒のようでした。
3節に「それを逃れることはできません」とあるように、すべての人に主の日は臨みます。それは誰も逃れることのできない死のようです。誰も自分の死の時がいつかは分かりません。
イエスさまが言われたように、私たちは「その日、その時」を知りません(マタイ25:13)。ですが、主の日に自分を備えておくことはできます。そしてイエスさまが最初に来られた時に用意が出来ていた者たちのようになることができます。
その意味で、聖書中で最初の「抜き打ちテスト」は創世記3章のアダムとエバに対するものだったのではないでしょうか。
『そよ風(ruach)の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』創世記3:8−9
アダムとエバはいきなり来られた神に驚き、身を隠しました。あたかも黙示録で書かれているようにです。『地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」』黙示録6:15−17
そして僕たちが罪を犯す時にも同じことが起きます。そよ風と訳されている言葉はruach、聖霊とも訳される言葉です。そして主の声があります。罪を犯すと聖霊により、良心が咎められ、主の声が僕たちをいさめます。そこで、主の前に自分の罪をさらけ出せるかどうかが分かれ道なりますが、アダムたちは木の間に身を隠しました。
僕たちはどうでしょうか。主にいつ会っても良いように備えができているでしょうか。
主の日がいつ来るかは誰にもわかりません。
『神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。』(1テサロニケ5:9)
次回、ブログ記事を書くことがあれば、主の日が来る前に「不法の人、滅びの子が現れる」とある意味について、第二テサロニケ2章から書きたいと思います。
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2700年前にイスラエル・ユダの王であったヒゼキヤ王の印章が発見されました。
以下ヘブライ大学の記事を部分翻訳します。
ヒゼキヤ王の印章がエルサレム、神殿の丘南、オフェル発掘で発見される
2015年12月2日
科学的・航行学的発掘で、イスラエルやユダの王の印章がそのままの状態で発見されたのはこれが初めて。
今回の発見により、ヒゼキヤ王の物語、生涯で行ったことが現実味を帯びた。第一神殿期のエルサレム、王の住居跡にて
エイラット・マザール博士主導のヘブライ大学考古学部による、神殿の丘南岸のふもとで行われているオフェル発掘で、ヘゼキヤ王(紀元前727-698)の印章が発掘された。
<省略>
その印章には古代ヘブライ語で次のように文字が刻まれていた。
「レヘゼキヤフー・(ベン)アハズ・メレク・イェフダー」
「ユダの王アハズ(の子)、ヘゼキヤのもの」
そして、そこには二つの羽を持つ太陽、羽を下側に垂らしたものと、その両脇に生命を象徴する2つのアンク(エジプト十字架)が刻まれている。
(今回発見された)ブラーは本来細い糸で結ばれたパピルスの巻物に刻印を押すために用いられていた。それにより、ブラーと正反対の印を残していた。
<省略>
そのブラーはヘゼキヤ王またはその直後の時代に属する、ゴミ捨て場から発見された。
<省略>
「ヘゼキヤ王の名を冠した印章は以前から知られていたが、・・・<省略>科学的・考古学的な発掘でイスラエルまたはユダの王の印章が明るみに出たのはこれが初めてだ」とエイラット・マザール博士は語る。
以上翻訳終了
英語での全文:
日本語でのニュース:
僕はヘゼキヤ王がとても好きで、第二歴代誌29章から32章を勉強して、教会でメッセージさせてもらったこともありました。
聖書は真実の歴史を、正しい解釈をもって語っています。歴史を見るのにもどの立場から見るか、どの点を強調して見るかによって大分違ってきます。
そしてよく世俗の歴史は「それがなぜ起こったか」という疑問に答えを出せないことが多いですが、聖書は「これはこのために起こった」と非常に分かりやすく書いています。それは僕たちの生活にも適用できます。
例えば、病気になる時、(すべてがそうではありませんが)神さまが本当に大切なことを教えようとしてじっくりと考える時間を与えてくれていることがよくあります。
自分の人生をどう解釈するか、どんな意味があるのか知ることはとても大切です。
聖書はただの宗教的な作り話ではありません。聖書に出てくるダビデ王、ヒゼキヤ王その他の王はもちろん実在していて、考古学的証拠があります。
ダビデに関しては「ダビデの家」と記されている碑文が発見されて、ヒゼキヤ王に関しても第二歴代誌32:30にある「ヒゼキヤの水道(トンネル)」も発掘されて、今もエルサレムに行けばそこを通りぬけることが出来ます。
信仰を持って長年経つ人も、主への礼拝が儀式的になって、聖書の言葉を読んでも「ただの宗教的な良い話」に思ってしまうことが僕たちは多々あります。
神さまはこのような発見を通して、「今、聖書と真剣に向き合いなさい」と語られているのではないでしょうか。
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みなさん、お久しぶりです。だいすけです。
最近、レイ・コンフォートが代表をしているリビングウォーターミニストリーから、新しい映画が公開されました。
同性愛に関する映画で、とてもストレートに聖書の価値観を伝えています。
英語の映画なので、どなたかに日本語の字幕を作ってもらえたら素晴らしいだろうなと思っています。
ロゴスミニストリーの明石さんのコメントもあります
アメリカでの同性婚の容認と、イスラム国問題
イスラム国の問題は、後藤さんが殺害されてからニュースで注目してきました。
イスラム教自体の基礎知識は、数年前身近にアフリカ人イスラム教徒が職場にいたことから、コーラン日本語訳を一通り読んだので、その時から少しは付きました。
聖書から見て、イスラム国(またはコーランに厳格なイスラム教)はどんなものかというと、明らかなのは「神の裁きの道具」だということです。
歴史的にイスラム教が出てきたのも、教会が名ばかりで偶像礼拝が顕著になった7世紀です。
神さまは背教した神の民、イスラエルを裁くために異教徒である外国人をつかって裁きました。アッシリアやバビロンがその分かりやすい例です。
そしてその異教の外国は、背教したイスラエルよりも邪悪な国でした。そのために裁きの道具として使われた後はきちんと裁かれています。
僕たちもその見方でイスラム国を見るべきです。
もちろん彼らのしていることは邪悪で、またコーランに即していることです。
しかし神さまがそれを許しているのは、偶像礼拝に陥っている私たち教会を裁くためなのです。
上で少し触れたアフリカ人イスラム教徒と話しているとき、宗教についての会話の中でカトリックが出てきましたが、まず最初に「本当のキリスト教はカトリックではない」ということなしには何も証はできないなと感じました。なぜなら、イスラム教は偶像礼拝を堅く禁じていて、ムハンマドの顔も、(表立っては)偶像も立てていないのに対して、東方正教会では聖画が、またカトリックでは聖人崇拝が偶像としてまかり通っているからです。
この考え方で次のニュースを読むとキリスト教側のイスラム国への対処がはなはだ間違っていることが分かります。
「ISへの対抗措置 イラクにカトリック大学開設へ」
神さまがイスラム国が暴挙するのを許している理由は、このまさに偶像礼拝なのに、キリスト教側はこのようなことをしようとしています。
まるで次の箇所は今神さまが語りかけられているようです。
「わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ――」アモス4:10
またアメリカは対イスラム国の戦いのために巨額を費やしています。
「米の対ISIS掃討戦費 約4千億円に」
それなのにアメリカではみなさんご存じのように、同性婚が合法化されました。
アメリカは国として(個人はもちろんさまざまですが)、聖書の与えた道徳をなおざりにして、巨額のお金で神の裁きに立ち向かおうとしてしまっています。
コーランに厳密に従おうとするイスラム教徒たちはどう思うでしょう。
「ほら、だからキリスト教は間違っている。道徳的に廃退している」
と思わないでしょうか。
もちろん、アメリカ=キリスト教ではありませんが、多くのキリスト教の過去の遺産を受け継いでいる国だということは否定できない事実です。
このようなことのためにいわゆる「キリスト教国アメリカ」と、本当の聖書のキリスト教は違うと言わなければなりません。
しかし、これは個人の問題にも適用できると思います。
僕たちクリスチャンが罪に沈んだままになっていると、同じように「自分は罪深いけれども、本当のクリスチャンはこんなものではない」と言わざるを得なくなります。
古い自分との戦い、罪との戦いは日々つらく、きびしいもので僕たちは多くの時に失敗してしまいますが、神さまからの警告、神さまからのしつけを受け取って、みこころに応答する者に変えられていかなければなりません。そのために祈りましょう。
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