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今日書くのは、いのちのことば社発行の月刊「いのちのことば」の記事について
これから書くことは、僕自身がいのちのことばに大変感謝していて、主の働きの多くを担っておられるいのちのことば社に対してだからこそ、これはどうなんだろうということを書きます。
なので、ただ単に批判とだけ受取らずに、ひとつのいのちのことば社の購買者クリスチャンの意見として読んでください。
何を書きたいかというと、その月刊「いのちのことば」10月号においてのある記事のこと
以下抜粋
「●旧約物語文は何「でない」か ○隠された意味に富む寓話ではない
物語文が、元々の聞き手に意味のわかるストーリーとして書かれたのは事実としても、歴史における神のみわざを記した物語ゆえ、その目的に沿って読む際に必ずしもわかりやすくはなし。行間を読みすぎる危険と常に背中合わせで、聖書が沈黙していることを無理に知ろうとすれば、こじつけ解釈に陥ります。
その極端な例が寓喩的解釈で、アブラハムのしもべによるイサクの嫁捜し(創世二四章)を、聖霊(しもべ)を通して花嫁(リベカ、教会)を捜す花婿(イサク、キリスト)のアレゴリーと読むのは、明らかに不適切です。」(関野祐二 聖契神学校校長 p20より)
果たして関野さんがおっしゃることは事実なのでしょうか?
聖書自体を見てみると事実に反していることが分かります。
『律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。
あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、
ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、
自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。
この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。
その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。』(ガラテヤ4:21−26)
パウロはミドラッシュという方法を用いて旧約聖書を解釈し、西洋では用いないような考え方をしていました。日本人が旧約のサラとハガルの話だけを読んで、それが二つの契約を表していると気付くことは容易ではありません。
しかし、パウロやイエス・キリストは同じように旧約聖書を解釈し、ぶどう園はイスラエルの象徴、海は国々の象徴、花嫁は教会の象徴、花婿はキリストの象徴として描いています。
この関野さんの考えはなぜそうなるかというと、聖書がユダヤ人的な書物であることを忘れているからです。
ラビの文献を読むと旧約聖書の中の象徴を的確に解釈しています。
そして、新旧両方をもって示された象徴の意味を自分で、聖書に基づいて解釈することは何の問題でもあません。
プロテスタントの神学校では「ひとつの聖書箇所に対しての適用はたくさんあるが、解釈はひとつしかない」また「聖書が明らかにしていること以外は解釈してはいけない」と教えているようです。
この教えが、一般の信徒を聖書から遠ざけ、牧師に解釈を聞かないと何も分からないような状況に至らしているのではないでしょうか。
イサクとしもべ、リベカの話は実に的確にキリストと聖霊、花嫁なる教会を示しています。
しもべは言いました。
『ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。
この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、
その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、
その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。
このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」 』(創世記24:13−14)
聖書の中で泉から出てくる水は聖霊を象徴しています。
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 』(ヨハネ7:37−39)
これはユダヤ人の習慣、シムカ・ベイト・ハショイバーといって、シロアムの池から汲んできた水を神殿の丘から流す儀式をしているその時でした。
アブラハムのしもべは、泉から水を飲ませてくれる娘が定められた者だと知っていたのです。
心の奥底から御霊があふれ出る教会こそが、キリストの花嫁になるにふさわしいのです。
ところで、この関野さんの意見がどう問題なのかというと、
信者をますます旧約聖書から遠ざけているようにしか思えないのです。
旧約聖書には私たちの通読を妨げるように、レビ記や申命記など律法がたくさん書かれています。
それらは私たちには関係が無いのでしょうか???
いや、神のことばである聖書に無駄な部分はありません。
それではただ単に歴史として読むべきなのでしょうか???
これが大半のクリスチャンのしていることであって、こうしてどうなるんだという気持ちで読んでいる人が多いことでしょう。
旧約聖書は正確な歴史を記しています。その上で象徴によって新約聖書の内容も伝えています。
つまり、実際その時代その場所に実際にアブラハムとイサクとしもべ、リベカが存在していて、
その実際の出来事を通して神さまは新約の時代の私たちにも教えようとされています。
もちろん、それはその象徴に教えが基づくという意味ではありません。
例えば、イスラムはイエス・キリストは死ななかった。なぜなら、アブラハムがイサクを山にいけにえとして連れて行ったときにイサクは死なず、代わりに雄羊がほふられたから。といった理由付けをします。
いや、象徴は新約聖書に書かれてあるはっきりとした教えの上に理解されるべきであって、象徴をもとに教えを作るのではありません。それはグノーシス主義であり、オリゲネスなどのアレキサンドリア学派です。
●聖書の深みを理解するために
はっきりと新約聖書に書かれた教理を保ちながら、旧約聖書に頻繁に使用される象徴を解釈すること
その際、ヘブライ的・ユダヤ人的な考えを持って読み解く。
それは死海文書や新約聖書の解釈にあるものであり、こじつけ解釈ではない。
プロテスタントはカトリックの間違った象徴解釈に反対して、象徴的に解釈するのを極端に避けた。
本当は西洋や17世紀プロテスタントの考えではなく、一世紀ユダヤ人クリスチャンの読み方をすべき。
私たちは教会の根であるイスラエル(国家ではない)につながっていなければならない。
終わりに
今回意見をここに書いたのは、いのちのことば社に感謝していて、お世話になっているからであって、少しでも貢献できることはないかと思って書きました。
みことばが私たちにとって力のあるものになることを願います!
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