だいすけのおもいっきり聖書

「あなたは新しく生まれなければならない」

カトリック

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バチカンが聖ペテロの骨を公開
 
 
【ニュース】
<バチカン>初代ローマ法王の遺骨箱初公開
 
 
バチカンが使徒ペテロの骨(と思われるもの)を公開したというニュースが出ました。
 
発見は70年前の1940年代だそうです。
 
このニュースはプロテスタント、福音派、聖書に固くつくクリスチャンにとってはそれほど大きくないニュースですが、カトリック信者の方々にとっては大きなニュースでしょう。
 
なぜなら、ペテロ(ペトロ)をはじめ、多くの聖人と呼ばれる死んだ人たちを崇敬(うやまって)いるからです。
 
 
 
【モーセの遺体】
 
 
モーセが亡くなったときに関して、聖書はこう語っています。
 
「こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」申命記34:5−6
 
モーセ、また主はモーセが死後に崇められることを知っていて、このようにモーセの体がどこに葬られたか分からないようにされたのでしょう。
 
後に新約聖書で、悪魔と天使ミカエルがモーセの体について論じ合ったとあります。
 
「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました」ユダ9節
 
モーセの体(死体)については、聖書中ではこれ以上記述がないので、何を論じ、言い争ったか分かりません。
ですが、悪魔がモーセの死体を悪く使おうとしたのではないかと推測はできます。
 
 
【良いものでも崇拝され得る】
 
 
民数記ではモーセが蛇にかまれた人たちのために、青銅の蛇を作ったとあります(民数記21章)。
そして、それを仰ぎ見た人はかまれた傷がいやされたとあります。
 
ですが、その良いものでも後に崇拝されてしまいました。
 
「彼(ヒゼキヤ)は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた」2列王記18:4
 
イスラエル人たちは、その青銅の蛇に対し何をしていたとありますか?
 
香をたいていました
 
上の動画を見ると、ペテロの骨が納められた箱の前でローマ教皇は何をしてますか?
 
同じように香をたいています
 
 
モーセも神さまに用いられた人物で、青銅の蛇も本来悪いものではありませんでした。
そして、ペテロ自身も神さまに用いられました。
 
ですが、それらが崇敬と呼ばれていても、死んだ人物が霊的な力を持つものとして崇められるとき、それは偶像になってしまいます。
 
 
 
【聖書を信じるクリスチャンとしての対応】
 
 
まず最初に、ペテロは最初の教皇ではありません。
初代教会時代に、ローマの、または特定の地方の監督や主教が優位な立場を持つということはありませんでした。
第一世紀のエルサレム会議(使徒15章)で最後に結びの言葉を語ったのは、ペテロではなくヤコブでした(使徒15:13)。ペテロが最初の教皇であれば、なぜ裁定を下したのがヤコブなのでしょう。
またガラテヤの手紙2章では、パウロが面と向かってケパ(ペテロ)を非難したとあります(ガラテヤ2:11)。なぜペテロが最初の教皇ならそのようなことが起きたのでしょう。
またカトリックの聖職者の間では(西洋典礼の中では)結婚が禁じられていますが、ペテロにはしゅうとめがいて(マタイ8:14)、しゅとめがいるということは嫁の母がいたということです(=妻がいました)。またキリストの十字架後であってもパウロは「私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか」と言っています(1コリント9:5)。ということはケパ(ペテロ)が妻を連れて歩いていたということです。
 
またエウセビオスの『教会史』の中でも「教皇権の継承」は語られておらず、使徒の教え、権威がどう時代を下っていったかが強調されています。
 
またサン・ピエトロ大聖堂の座から語る時、教皇は信仰と倫理面において間違いを犯しえないと宣言されたのは、比較的現代で1870年です(教皇の不可謬説)。
 
また教皇権について次の箇所が多用されますが、
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(Πτρος
)です。わたしはこの岩(πτρα)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」マタイ16:18
カトリック教会はペテロの上に教会が建てられたとありますが、原語を見るとそうではありません。
ペテロは「Πτρος:ペトロス=小石
」という言葉であって、この箇所にある岩という言葉は大きな崖を意味する「πτρα:ペトラ」です。したがって、ペテロの上に教会が建てられたと言うことはできません。原語が違うのですから。
加えていうと、歴代の教皇44人もこれがペテロではなく、ペテロによる信仰告白を指していたと信じていました(White., The Roman Catholic Controversy p.120)。
 
それゆえ、ペテロは最初の教皇ではありません。
 
 
またペテロの骨が真正であったとしても、クリスチャンにとっては考古学的に意味のある発見であって、霊的に意味のある発見ではありません。
 
なぜなら、私たちの強調するところは、この土に戻る体ではなく、新しく受ける体だからです。
 
 
【結論】
 
 
この世的なクリスチャンはこのニュースを見て喜ぶでしょう。
 
 
ですが、聖書を知っているクリスチャンはこのようなことが反キリストによって利用されることを知っています。
●ミサ


聖書の教えと、聖書+聖伝(聖なる伝統)を教えるカトリックの教えはかけ離れています。

たとえば、ミサの教えひとつを取ってみてもそれは明らかです。

※『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会)から引用します。



■『キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつて自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」』(p.416)


聖書のことば→
◇『ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。』ヘブル7:27
◇『キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです』ヘブル9:26
◇『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』ヘブル10:14


エウスカリスチアとは英語でEucharistといい、ミサの儀式のことです。
(プロテスタントでは聖餐と呼ばれます)




ミサの儀式がキリストのいけにえと同じですって??

ささげ方が違うだけですって??




聖書はたった一度で十字架のいけにえが終わったと3度も語っているのに、それを否定しています。


これを知っていて、聖書を唯一の啓示の源泉と信じるクリスチャンはカトリックのミサに参加できるでしょうか。



■『エウスカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。』(p.417)


このようなことがカトリックの公式のカテキズムに載っているのをご存知でしょうか?


死者のためにミサをささげられると教えています。


聖書は繰り返し死者と交信してはならない(レビ19:31、申命記18:11)、また死者を呼び出そうとしたサウル王はどうなったでしょうか。彼の最期はひどいものでした。





■『至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます。』(p.418)

■『供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架でつけられたキリストご自身です。キリストの姿を表わしている司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです。』(p.419)

■『聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストへの信仰を表わします。』(p.420)→ヘブライ語で「ひざまずく」と「礼拝」は同じ言葉(ヒスタカボート)

■『わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです。』(p.424)
→カトリック教徒が救いの確信を持てない理由(非聖書的な教え)

■『宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。』(p.426)
→プロテスタントとは聖餐(聖体拝領)をともにすることはできないと断言



ここまで読んでなお、カトリックのミサに参加しようとする聖書的なクリスチャンがいるでしょうか??




聖書を唯一の啓示の源と信じているのなら、カトリックのミサには参加はできないし、参加するとそれは明らかな偶像礼拝です。



■『聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されます。』(p.429)


聖書の教え→
◇『さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。』マタイ24:25−27


カトリックは『聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりません』(p.420)と教えていますが、それはキリストが「へやにいらっしゃる」と聞いて信じているようなものです。


私たちはイエスの警告に耳を傾けるべきです。カトリックの伝統にはまってはいけません。



そしてカトリック教会と決別するべき理由が分かるのが、次の文章です(カトリック教徒との決別ではありません)。



■『キリストご自身が聖体の秘跡に現存しておられるので、わたしたちは聖体を礼拝しなければなりません。』(p.430)



ここではっきりと「礼拝」という言葉が使われています。



私たちは十戒の最初の戒めを守りますか?それともカトリックとエキュメニカル運動で協調して偶像礼拝を犯しますか?



ちなみに、このカテキズムでは礼拝を次のように説明しています。


■『神を礼拝するとは、そのかたを神、創造主、救い主、主、存在するすべてのものの支配者、無限で慈悲深い愛そのものであるかたと認めることです。』(P.622)



この意味でパンとぶどう酒を「神、創造主、救い主、主」として礼拝するということです。




聖書の真実を悟ったカトリック教徒はカトリック教会を去るべきです。
それは聖体拝領(ミサにあずかり偶像礼拝をすること)無しには教会にいられないからです。



■『教会は信者に、エウカリスチアの祭儀にあずかるときに聖体を拝領するよう強く勧めています。少なくとも年に一度の聖体拝領が信者の義務となっています。』(p.429)





最後に、カトリック教会が気付かずに自分たちのことを語っている箇所を引用します。




■『多くの殉教者は、「獣」を拝まず(黙示録13・14章)、拝むふりをすることさえ拒否して殺されました。偶像礼拝とは神が唯一の主であるとは認めないことなので、神との交わりとは相いれないものなのです。』(p.626)



黙示録17章でその獣の上に乗っているのは誰でしょうか??



七つの丘のある大きな都、ローマのことです(黙示録17:9、17:18)。



そして政治的な支配権を利用して多くの虐殺を過去に行ってきたのもカトリック教会です(もちろんプロテスタント側が行った迫害もあります)。






ですがこれでもミサに参加しますか?



エキュメニズム運動に参加するでしょうか?





聖書が唯一の啓示の源だと信じないのなら、私たちは何も言えません。

しかし、聖書を信じているというなら、その中に書いてあることも信じましょう。

またエキュメニズムに立ち上がって反対しない人は、押し流されてしまうのも時間の問題です。


(カトリック教徒の方々を愛しているなら、偶像礼拝を犯してしまっていることを伝えましょう)
ネタニヤフ首相が教皇の免責に感謝を表明
 
Ynet News(2011/3/4)より
 
 
――新しい著書の中でユダヤ人がイエスを殺したという事柄に異議を唱えたベネディクト16世に“深い尊敬”を抱いていると語る首相
ロニ・ソフェル
 
 
 
『ベンジャミン・ネタニヤフ首相は木曜日、ユダヤ人はイエス・キリストの死に責任が無いと教皇ベネディクト16世が語ったことに感謝を表明した。
 
教皇は新しい著書「ナザレのイエス パートⅡ」――その中の水曜日に公表された引用で――ユダヤ人全体がイエスの死に責任があるという議論は、聖書中に根拠を見出せないと主張した。
 
「新しい著書の中で、何百年もユダヤ人に対する憎悪の根拠となってきた偽りの主張を否定してくれたことを称賛する」とネタニヤフ首相は教皇に書き送った。
 
首相はまたベネディクト16世が示した“明瞭さと大胆さ”が世界中のユダヤ人とキリスト教徒との関係を強めてくれること、また次世代の平和を促進してくれることを望むと付け加えた。
 
「またすぐにでも面会し、個人的な尊敬を表明できること楽しみにしている」とネタニヤフ首相は書き記した。
 
カトリック教会は50年にわたってユダヤ人全体に責任は無いと語ってきたが、ユダヤ人に対して“災難”を引き起こしたドイツ生まれの教皇の主張は、現代の反ユダヤ主義と戦う教皇からの画期的な主張だとユダヤ人学者たちは語る。
 
著書の中で教皇ベネディクトはイエスの最期の数時間、また彼が冒とくの罪で死刑に定められたことを再現し、その後になぜユダヤ人が全体としてイエスの死に責任が無いかということを福音書を分析し語っている。教皇ベネディクトの結論では、“神殿内の上流階級”と少数のバラバの支持者だけが責任があるとしている。
 
「現在ここにいる人達全体がどうしてイエスの死を叫び求めることができようか」と教皇ベネディクトは語る。
 
教皇ベネディクトはイエスの死は処罰についてではなく、救いに関するものだと語る。イエスの血は“復讐や処罰を叫ぶのではなく、和解を呼び掛けている”と語る。「それは誰かに対して注がれたというものではなく、多くの人、全ての人のために流されたのだ」
 
ナチス支配下のドイツで、子ども時代にヒトラーの若者部隊に強制入隊させられた教皇ベネディクトは、自身の教皇権の優先事項としてユダヤ人との関係改善を挙げている。彼はポーランドのアウシュビッツ強制収容所を訪れ、イスラエルのヤド・バシェム・ホロコースト記念館を訪れている。』(訳:だいすけ)
 
 
 
 
 
 
「司教団体の頭であるローマ教皇は、…すべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときその任務の権能により、この不謬性を持っているしたがって教皇の決定は、教会の同意のためでなく、それ自体において、取り消しえないものと正当に言われる。
…そのときローマ教皇は一個人として教説を宣言するのではなく、普遍的教会の最高の師として、教会自身の不謬性の霊のたまものを単独に自分の内に持つ者としてカトリック信仰の教義を説き、擁護するのである。
…ローマ教皇、あるいはローマ教皇とともに司教団体が教説を決定するとき、かれらは、すべての人がそれに一致し従わなければならない啓示そのものに従って、その教説
を宣言する。」『第2バチカン公会議 公式文書全集』教会憲章 p.68
 
 
 
この第2バチカン公会議の公式文書のように、教皇は教えにおいて「不謬性(間違いを犯す可能性が無いこと)」を持っているとされています。全くおかしな考えです。
 
聖書を見てみましょう
 
 
 
イエスが再臨されるときに、ユダヤ人は次のような状態になります
 
●『わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。』ゼカリヤ1210
 
ということは、ユダヤ人はイエスをメシアとして受け入れるか、その時、その戦争の苦難のさなかに苦しみながら受け入れるかどちらかなのです(僕はユダヤ人だけが大患難に入ると考えていません。信じたユダヤ人を含む”教会”はサタンの怒りに遭うが、神の御怒りには遭わないと考えています)。
 
 
Q.イエスの血はどのような人たちの上にふりかかっているでしょうか? 
 
 
●『すると、民衆はみな答えて言った。「その人のは、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」』マタイ2725
 
●『しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたのは、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。』使徒186
 
イエスを退けたユダヤ人の上です。
これはもちろん、異邦人も同じです。
イエスを退ける異邦人の上にも血はふりかかっています。
 
 
Q.では、誰がイエスを殺したことに責任がありますか
 
 
●『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』ローマ4章25節
 
私たち全員です。
 
そうではなければ、ある人には罪があって、ある人には罪が無いということになってしまいます。私たち人間すべて、全員が罪があります。その罪のために十字架で死なれたのです。
 
もちろん、実際に手を下したのはローマ人兵士で、ローマの権威に渡したのはユダヤ人です(ヨハネ19章11節)。
 
ですが、責任があるのは人類全員です。当時のユダヤ人やローマ人だけではありません。これは明確です。
 
 
 
「不謬性(間違うことがない)」を持つとされる教皇ベネディクト16世はこう発言しました
 
 
「イエスの血は“復讐や処罰を叫ぶのではなく、和解を呼び掛けている”」
 
 
ですが、これも明らかな聖書箇所に全く矛盾しています
 
●『さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルのよりもすぐれたことを語る注ぎかけのに近づいています。語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。』ヘブル1224節−25
 
 
イエスの血は信じないユダヤ人、異邦人に対して警告を与えています。
そして、その警告に耳をかさない者は「処罰が免れないのは当然だ」と書かれています。
 
この時代は「ポリティカル・コレクトネス」いわば、人を怒らすことを言わない方が良いといわれる時代です。そして真理からどんどん離れていきます。
 
事実、黙示録171819章に登場する大バビロンはローマであることが分かります。(七つの丘に立つ大きな都、その莫大な富、紫と緋色の衣を着るカトリック高位聖職者たち、過去のキリスト教徒に対する激しい迫害・虐殺、偶像礼拝(聖書中で不品行と偶像礼拝は同じ)など)
 
 
 
また「キリストを殺した責任はあなたたちにはない」と言うことによって次の箇所の正反対を行っています
 
●『私の民の娘よ。荒布を身にまとい、灰の中をころび回れ。ひとり子のために苦しみ嘆いて、喪に服せ。たちまち、荒らす者が私たちに襲いかかるからだ。』エレミヤ626
 
 
これはエレミヤ書でバビロン捕囚前について書かれた箇所ですが、
「荒らす者」とは反キリストの名称です(ダニエル9章27節)。
 
 
Q.エレミヤは背教したユダヤの民にどう警告したでしょう??
 
 
私の民の娘よ。荒布を身にまとい、灰の中をころび回れ。ひとり子のために苦しみ嘆いて、喪に服せ
 
 
さもなければ
 
 
「たちまち、荒らす者が私たちに襲いかかるからだ」
 
 
 
 
教皇は不謬性を持っているのでも、ペテロの後継者でもありません(ペテロが結婚していたことを考えても「独身制」の愚かさが分かります→マタイ8章14節)。
 
そしてカトリックは救いが恵みではなく、秘跡(儀式)によって得られるものだと教えています。とすると何らかの行いに基づいているのです。これは人の永遠の救いを妨げています。それゆえ僕たちはカトリック教に反対し、カトリック教徒を救いだすべきです。
 
僕たちは「カトリックの人は良い人が多い」とかそのような基準で判断してはいけません。なぜなら救われていない未信者でも「良い」人が多くいるからです。
私たちはその個人がどのような人であれ、聖書を神の言葉と信じ、キリストの死が自分の罪のためであり、救いを受けているかいないかでその人を見るべきです。
 
そのためにパウロや使徒たちは死ぬほどの苦難を経ながら、福音を伝えたのではないでしょうか。永遠の救いを得ているかどうか、それが今生きている人にとって最も重要なことです。
 
ローマ・カトリックを聖書を信じる真実の教会と混ぜてはいけません。
ヨーロッパから反キリストは出て、ローマの偽りの宗教を利用します。
マザー・テレサ 幻想の家



――援助者と援助される人たちをどのように苦しませたか



スーザン・シールズ著
『Free Inquiry』誌Volume 18, Number 1からの引用


『カトリック教徒になって数年経ったとき、私は神の愛の宣教者会というマザー・テレサの会衆に入りまし

た。私は1989年に幻滅してそこを去るまで、ローマ、ブロンクス、またサンフランシスコで彼女のシスタ

ーのひとりとして9年半働いていました。再び世に戻ると、私が生きてきた嘘のもつれがゆっくりと解け

始めたのです。私がなぜあんなに長い間彼らを信じてこられたかを不思議に思います。


宗教集団の根幹を成していたマザー・テレサの三つの教えは、シスターたちによって疑いもなく信じられ

ているため、すべてがとても危険なものとなっています。最も基本的なものは、ただひとりのシスターさ

え従っていればマザーは神の意思を行っているという信条です。もうひとつは、シスターたちは苦しみを

選ぶことによって神に対する影響力を持つという信条でした。彼らの苦しみは神をとても喜ばせるという

のです。そしてより多くの恵みを人類に分け与えるといわれていました。三つ目は、奉仕されている貧し

い人でさえ、人間へのいかなる愛情は神の愛を妨げるものであって、用心深く避け、すぐさま根絶してし

まわなければならないというものです。いかなる愛情をも寄せ付けないというこの試みは、絶え間ない混

沌と混乱、運動と変化をその会衆の中に生みだしました。マザー・テレサがこれらの信条を考案したので

はなく、それらは第二バチカン公会議以前に宗教集団の中で行き渡っていたものであり、彼女はそれを推

し進めるために(すばらしいほど)全力を尽くしたのです。


これらの間違った教えを受け入れたなら、シスターはほとんど何でも行います。自分の健康を損ない、奉

仕する対象を無視し、自分の感情や自由意思を遮断するのです。その人は仲間のシスターたちに知らされ

た苦しみに対して盲目になり、簡単に嘘を付き、公の法律や規制を無視するようになります。


多くの国からマザー・テレサの働きに参加した女性たちは、貧しい人に仕え、自分たち自身が神に近づこ

うと期待を抱いてやって来ます。私がそこを去った時、世界中で約400箇所に3千人を越えるシスターたち

がいました。マザー・テレサに導かれることを期待していた多くのシスターたちが、落胆した人となって

いました。圧倒的なほどの証拠がある中で、幾人かが自分たちの信頼は裏切られたと最終的に認め、彼ら

が聞いていた命令は神からのものである可能性は無かったと認めました。彼らにとってそこを去ることは

難しいことで――自分たちの自信は砕かれ、そこに参加した時に持っていた教養しか彼らは持っていない

のです。私はそこを去る勇気が十分あったことから幸運な者だといえます。


聖さへの道といわれているこの偽りの教えに他の人も気付かれることを願って、私は知っていることのう

ちわずかを話しましょう。マザー・テレサの会衆に入ろうとする人は比較的少ないのですが、その中での

悲惨さを軽減するための一連の努力がどのようにねじ曲がっていたかを知らないため、多くの人が寛大に

彼女の働きを支援してきました。大半の寄付金が不使用のまま彼女の口座に眠っていることを知らず、自

分たちが貧しい人を助けているんだというようにその人たちも騙されているのです。


神の愛の宣教会の一員として、私の仕事は寄付金を記録し、感謝の手紙を書くことでした。とんでもない

額のお金が到着するのです。郵便配達員はたいてい袋に多くの手紙をもってやって来ます。私たちは常に

5万ドル(約400万円)やそれ以上の額の小切手の領収書を書いていました。時には寄附者が電話をかけ

てきて、金額が大きいためにすぐに気付くよう、小切手が到着したかを確認することもありました。私た

ちが覚えていられないとどうして言えるでしょう。私たちはもっと大きな額をたくさん受け取ることもあ

ったからです。


マザーが公に語る時、彼女はお金の呼び掛けを決してしませんでしたが、“痛みを伴うまで”貧しい人の

ためにいけにえをささげることを実際に奨励していました。多くの人がそう実践し――彼女にお金を与え

ました。私たちは感動するような手紙をもらったり、時には貧しい人自身がアフリカの飢えている人たち

や、バングラデッシュの洪水被害者、インドの貧しい子どもたちのためにわずかなお金を送ってきたりし

ました。大半のお金が私たちの銀行口座に眠ったままでした。


洪水のような寄付金は神がマザー・テレサを認めているというしるしだと考えられていました。修道院長

たちからは、私たちが他の宗教団体よりも多くの贈り物を受けているのは神がマザーを喜んでいるからで

あって、また神の愛の宣教会のシスターたちが宗教的生活の真の精神に忠実だからだと言っていました。


大半のシスターたちはこの会衆がどのくらいのお金を蓄積しているか何も知りませんでした。また結局の

ところ、私たちは何も集めてはならないと教えられていました。ある夏にローマ郊外に住むシスターたち

が自分たちが配りきれない程のトマトで詰まった木箱をもらいました。その年は非常に収穫がよく作物が

あったので、隣人たちの誰もが欲しがりませんでした。そこでシスターたちは腐らせてはならないと思

い、トマトを缶詰にすることにしました。彼女たちがしたことをマザーが発見したとき、彼女はとても不

機嫌になりました。物を蓄えるということは神のみわざを信頼していない証拠だというのです。


寄付金はあり余り、銀行に預金されていましたが、私たちの禁欲的な生活は変わらず、私たちが援助して

いる貧しい人たちの生活にもわずかな影響しかありませんでした。私たちは質素な生活を送っており、す

べてのぜいたくを我慢していました。私たちは三つの衣服を持っており、それは破れてつぎはぎが出来な

くなるまで繕っていました。また洗濯も手で行っていました。ホームレスのための宿泊所から持ってこら

れた終わることのないシーツやタオルの山も私たちは手で洗っていました。私たちの入浴は水ひと桶のみ

で終わりました。歯科検診や医療検診は不必要なぜいたくだと考えられていました。


マザーは私たちが貧しさの精神を保つことを非常に気遣っていました。お金を使うことはその貧しさを壊

すというのです。彼女の頭の中は、私たちの働きのために最も質素なものだけを使うことでいっぱいのよ

うでした。これは私たちが助けようとしていた貧しい人のためだったのでしょうか?それとも私たち自身の

“聖さ”を向上させるために実際彼らを利用していたのでしょうか?ハイチでは貧しさの精神を保つため

に、シスターたちは針の先が鈍くなるまで再利用していました。曲がった針による痛みを見て、あるボラ

ンティアたちはもっと針を提供すると申し出ましたが、シスターたちは断ってしまいました。


私たちは何のお金も無いかのように地元の商人たちに食べ物と必要なものを頼み込みました。まれに寄附

されたパンが尽き、地元の商店に頼み込んだこともあります。その願いが拒否されたときには、私たちの

修道院長はその日にパン無しでスープキッチンを行うようにと命じました。


私たちに寛大に施してくれたのは商人たちだけではありません。航空会社は無料でシスターや積荷を運ぶ

と言ってくれました。病院や医者たちはシスターたちの医療費を肩代わりしてくれ、宗教者のための基金

から引き出してくれました。作業員たちは無給や、いつもより低い給料で働いてくれました。私たちはス

ープキッチンや、宿泊所、またデイキャンプで、長時間働いてくれるボランティアたちに大きく頼ってい

ました。


働き者のある農家は労働時間の多くを割いて、私たちのスープキッチンや宿泊所のために食物を集め、配

ってくれました。「私が来なかったら、あなたたち何を食べるんだ」とその人は私たちに尋ねていまし

た。


私たちは規約で必要以上のものを請うことは禁じられていましたが、実際物を請うときになると、銀行に

蓄えられていた数百万ドルがあたかも存在しないかのように扱われていました。


長年にわたって、私は寄附者たちに数千の手紙を書き、彼らの贈り物のすべてが本当に貧しい人たちに神

の愛をもたらすために使われたと言わなければなりませんでした。私は文句を言う自分の良心に歯止めを

かけることができました。なぜならマザーは聖霊に導かれていると教えられてきたからです。彼女を疑う

ことは信頼に欠くことの証拠であり、さらに悪いことには高慢の罪だと言われました。私は自分の意見を

棚に上げ、いつかなぜマザーがそれほどのお金を貯めたがっているのかを理解できるよう願っていまし

た。トマトソースを蓄えることでさえ神のみわざを信頼していないことだと彼女自身が教えてくれたので

すから。』(訳:だいすけ)




※10年近く、スーザン・シールズは神の愛の宣教会のシスターとして働きました。彼女はそこを辞めるまでマザー・テレサの団体で重要な役割を果たしました

『偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。
彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。
彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない。』イザヤ44:9−19
 
 
 
(注記) 器物が損壊したことは残念に思いますが、偶像はいつか壊れるという分かりやすいものだと思ってこれを載せました。

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