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昨日のモリエルセミナーは、無事終えることができました。 |
モリエルより
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現在、通称パレスチナに存在するイスラエルという国は よく報道されるように非情な国なのでしょうか。 以下を訳したので、お読みください。 イスラエルとエルサレムの真実 イスラエルは紀元前1312年に国家となり、それはイスラム教が成立する2千年前でした イスラエルからのアラブ系難民が自分たちのことを“パレスチナ人”と呼び始めたのは、1948年のイスラエル独立から約20年経った1967年でした その地を紀元前1272年に征服した後、ユダヤ人はその地を1千年間治め、3300年間その地に存在を維持していました アラブが統治したのは紀元前633年の征服のみで、それはたった22年間のことでした 3300年以上、エルサレムはユダヤ人の首都でした。エルサレムがアラブやイスラム教徒たちの首都となったことは一度もありません。ヨルダンの支配下にあった時でさえ、(東)エルサレムは首都と定められたことがなく、アラブ指導者は一度もそこを訪れませんでした エルサレムは聖書中で700回言及されていますが、コーランでは一度も触れられていません ダビデ王がエルサレムの基礎を据えました。ムハンマドはそこに足を踏み入れたことがありません ユダヤ人はエルサレムに向かって祈り、イスラム教徒はメッカに向いて祈ります。二つの都市に挟まれた場合、イスラム教徒はメッカに向かって祈り、エルサレムに背を向けます 1948年、アラブの指導者たちは国民にユダヤ人国家の駆逐を約束し、民にその地を去るように促しました。その68パーセントがイスラエル兵を一度も見ることなく退去しました 事実上、イスラム教国にいるすべてのユダヤ人は、暴力と虐殺のため退去しなければなりませんでした 1948年に63万人のアラブ人がイスラエルを去った一方、イスラム教国から100万人近くのユダヤ人が退去を余儀なくされました 自由にできる土地が莫大にあったにも関わらず、アラブ系難民は滞在国に同化するのを故意に妨げられました。第二次世界大戦で発生した1億人の難民のうち、彼らだけが隣国に統合されなかった難民です。ヨーロッパやアラブ諸国から来たユダヤ系難民の大半は、アメリカのニュージャージーよりも小さな国イスラエルに定住しました パレスチナ人を除けばイスラム系国家は22あります。ユダヤ系国家は1つしかありません。アラブは5回イスラエルに対して戦争をしかけましたが、そのすべてに敗北しています ファタハとハマスの規約は未だに、イスラエルの破壊を要求しています。イスラエルは西岸地区の大半と、ガザ全域をパレスチナ国家に譲り、軍事力さえ備えさせました ヨルダンの占領中、ユダヤ人の聖地は破壊され、ユダヤ人は立ち入り禁止となりました。イスラエル支配下において、イスラム教徒とキリスト教徒の聖地は宗教の違いを越えて利用できる場所となりました 1990年までの国連安保理の175の決議のうち、97がイスラエルに反対のものであり、690の総会決議のうち、429がイスラエルに反対のものでした ヨルダンがエルサレム旧市街の58のシナゴーグを破壊した際、国連は沈黙していました。ヨルダンが組織的にオリーブ山の古代ユダヤ人墓地を汚した時も国連は黙っており、ユダヤ人が神殿の丘と嘆きの壁に近寄ることを禁止する人種差別的な法律を強制したときも、何も言いませんでした (訳:だいすけ) |
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モリエル日本最初の集会の予定が決まりました 場所:エル・おおさか 本館7階 701号室(50人ほどの規模) 講演者:ジェフ・トゥール 通訳:森大輔 旧約聖書に記された古代イスラエルの七つの祭りが 歴史の中でどのように成就してきたか、また今はどのような時代なのか 私たちは何に備えるべきなのかを学んでいきます。 どなたでも気軽にお越しください。 ヘブライ的な背景から聖書を読んで生活に活かしましょう! (質問のある方はこちらへどうぞ↓) 連絡先:morieljapan@yahoo.co.jp 070-5500-7038(森)
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(モリエルやジェイコブ・プラッシュは批判的だと思われることが多いので、 私たちがなぜ「にせ預言者」「にせ教師」をはっきりと非難するかを書いた記事を 訳して掲載します。 以下の説教も合わせてお読みください) 「さばいてはいけません」 http://www.moriel.org/Teaching/Online/Judge_Not/Judge_Not_Japanese.pdf 『にせ預言者』 英語版モリエルニュースレター2009年5月号 WalkWithTheWord.orgより 「罪人ではなく、にせ預言者 『また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責め なさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたり をいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためで す。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞 こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でも あなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、そ れは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがた のうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをか なえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるか らです。」』(マタイ18章15節−20節 新改訳) 親愛なる兄弟たち、この箇所は新約聖書の中で最も間違って引用され、誤用されている箇所のひとつです。また教会の中にいるにせ預言者やにせ教師たちが好む箇所でもあります。羊たちはみことばを少ししか理解していないため、ひどい教えに従ってしまい、多くの場合不適切な解釈が繰り返し教えられています。 誰かがみことばのはっきりとした本文を使って私たちを騙そうとするとき、それを見抜けないのなら、にせの不思議としるしが伴う間違った教えが来たとき(訳注…2テサロニケ2章9節)には望みがあるのでしょうか?神の民はひとりの罪人と、ひとりのにせ預言者を見分け、みことばに従って彼らを違った方法で扱うことが要求されています。“罪人”は“にせ預言者”とは全く違うものです。 このマタイの箇所が全くもって個人的な人間関係に限られていることは明白です。この箇所に続く節のペテロの発言を読んでみてください。 『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦す べきでしょうか。七度まででしょうか。」』(マタイ18章21節) ある写本には15節で、「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と「あなたに対して」と付け加え、意味が明確にされてあります。他の写本では「あなたに対して」という言葉は欠如しています。それもかまわないことです。ペテロはここで適切な文脈を提供してくれています。ペテロはそこにいて話を聞き、意味をつかんだのです。イエスは、私たちに個人的に罪を犯す人について語っていました。 ペテロはその関係について「(私の)兄弟」とはっきりさせ、意味を限定しています。イエスさまは、私たちが個人的な人間関係においてどう振る舞うかという基準を与えてくださいました。 しかし、にせ預言者やにせ教師が自分たちの行っていることのために問いただされるとき――みことばが告げる通りに公にさらされた時――彼らはどうしているでしょうか?「マタイ18章、マタイ18章を知らないのですか!あなたは私のところに個人的に来なかったでしょう!マタイ18章を読んだのですか!」と声を上げます。そしてたまにしか、また実際聖書を自分で読んだことのない羊は言います「そうか、そうするべきなのか。マタイ18章はどう書いてあるんですか?それをまず試すべきなんですか?」 『ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほ かの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが 心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うよ うな場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語ら れたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。』(申命記 18章20節−22節) 今日ではにせ預言者に向かって公に、そして迅速に石打にはしません。その代わりに彼らに対する石――神のみことばを私たちは用います。しかし私たちは何があっても絶対に彼らを恐れてはいけないのです。旧約・新約両方で、一般的ににせ預言者を公の場で非難すること、さらに彼らを名指しで非難することをためらう人は誰もいませんでした。 エレミヤはパシュフル(エレミヤ20章1節−6節)とハナヌヤ(エレミヤ28章)をにせ預言者として公に名前を明らかにしました。 パウロは銅細工人のアレキサンデル(2テモテ4章14節−15節)とヒメナオ(1テモテ1章20節)、ピレト(2テモテ2章17節−18節)に関して警告しました。 ヨハネはデオテレペス(3ヨハネ9節)に関して警告しました。 ペテロが間違った行動を取った時でさえ、パウロは公に彼を正すことをためらいませんでした。 『ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。』(ガラテヤ2章11節) もちろんキリストご自身の例があります。キリストは公に、声を大にして、あからさまににせ教師を非難し、名前を告げました。 パウロはそうした状況のことをはっきりと語っています。 『しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。』(ガラテヤ1章8節) 実際のところ、なぜ私はこの特定のテーマについて跳び上がって奮起していると思われますか。数十年前から時がたつにつれて日増しに、この策略が繰り返し実行されているのを見ているからです。デーブ・ハント(Dave Hunt)やロジャー・オークランド(Roger Oakland)、ジェイコブ・プラッシュらのような真実の神の牧者たちは繰り返し、羊を攻撃している間違った人物に対して公に聖書による是正を呼び掛けていますが、それを宣告された羊のなりをしている狼たちは「マタイ18章!マタイ18章!」と唱えて攻撃してくるのです。 その長い系列の中で最新のにせ教師は、スティーブン・サイザー(Stephen Sizer)という人物です。彼は自身のブログという避難所から文書を書き、ジェイコブ・プラッシュと公にディベートをするという彼の以前の約束を実行することを拒否しました。そこで、彼のマタイ18章に関しての間違った教えの中では私が読んだことのある中で最も説得力のあることを書いていました。それは親切で、好ましく、人の心をつかむような文章でしたが、聖書的には全く間違っているという事実がそこにはありました!一度彼にだまされた人たちは、彼の書いた内容によってではなく、その外観によって惑わされるということを私は確信しています。そしてここで私が言っておかなければならないことは、これは真理をもってこれらの欺く者に対して適切に対応したジェイコブ・プラッシュやデーブ・ハントの好みのためではないということです。実際に問題のありかは、だまされるような状態にある私たちにあり、教会にあるのです。 ただ常識という観点から考えてみても、罪人は異端とされる人物と違うように扱われなければならないということは明らかなはずです。兄弟の間での個人的な罪は、それを乗り越えるために愛ある是正を必要とするような一種の自己欺まんです。しかし異端とは、周りにいる人すべてを巻き込む積極的な欺きに携わる種類の罪です。片方は自傷的なものであり、もう一方は他者に対する攻撃です。このふたつの間にあるはっきりとした違いが分からなくとも、聖書の実例は一貫していて、豊富なものです。暗やみと光の間には和解はありません。ただ存在するのは、光が暗やみの正体を明らかにすることだけです。 私は大きな懸念を抱いています。それはたったひと世代前、父や祖父のような聖書を信じるクリスチャンたちは、今日の一般的なクリスチャンが教会に持ち込んでしまっているものを完全に拒否していたということを分かってきたからです。信仰のことば運動(Word-Faith movement)、繁栄信仰の福音(the Faith-Prosperity Gospel)エキュメニカル主義、神の国は今神学(Kingdom Now Theology)またそれらと異なるもの全て、またジョエル・オスティーン(Joel Osteen)やリック・ウォレン、チャック・シュラー(Chuck Schuler)により製造された市場先導型の心理療法隠語のようなもの――それらすべて――が十分に拒否されていました。それらは決して福音主義の主流に受け入れられることなく、過激派としての独占領域にとどまっていたのです。しかし今はどうでしょうか。聖書的に違いを見分けるように訓練はされておらず、大半の人がこれらを受け入れ続けています。 すべて真実な信者が、最善の信仰に立った努力をして、神のことばの絶対的な真理を自分たちの交わりの中に再び導き入れることは、いくら勧めても勧め過ぎることはありません。この世の側にいるスティーブン・サイザーを人々が支援するのはジェイコブ・プラッシュの責任ではありません。問題なのは、まさにキリストのからだにおいて、神のことばがほぼ知られていない状態まで達してしまっているという兆候なのです。もし人々が、単純でシンプルなみことばの箇所を間違って用いている明らかな欺く者であるスティーブン・サイザーを見抜けないのなら、反キリストとにせ預言者が全力を用いて、選民でさえも欺こうとしてやって来たときにはどうなるのでしょうか?(訳注…マタイ24章、2テサロニケ2章、黙示録13章) WalkWithTheWord.org(みことばと共に歩む)は帰納的な学び方の基本を教えることにより、個人や小グループの聖書の学びに専念しています。またそれは週毎の聖書スケジュールと合わせて行っています(http://www.walkwiththeword.org/Plans/2008_Plan.html
“The 2008 Walk with the Word reading plan.”)。私たちの最終的な目標は、神のことばを個人的に適用し、他者を愛すという聖書の傑出した命令が目に見えるように成就するよう、他者との関係において私たちの変化が明らかなものとなることです。」 |
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ジェイコブ・プラッシュの経歴がモリエルのサイトに掲載されました。 |



