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6.教育の秘訣または秘策はなにか?−既に手遅れかもね!− |
理数教育
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5−7.気が付くって一体どういうことなのー?−寝過ぎないこと!えっ、何ですって!−
「何も考えていないことにどうして気付くのか?」という問いかけは最高に優れた問題である。考え方は二つある。一つはぼんやりしている時は何も考えていないとする考え方で、もう一つは全然違う考え方だ。前者は全然科学的ではない。根拠が何か分からない。筆者がよく使う手はぼんやりした振りをすることである。これが出来るのだ。居眠りしてる振りをする。電車の中で中年以上に見える方が乗って来るとかなりの男はこの手を使う。しかし眠った振りをしても見破る方法がある。彼らはそれを知らないで寝た振りをするから滑稽で哀れでもある。 本当に眠ると意識が無くなる。けれども意識を失うという失い方とは異なる。後頭部を強く殴打されると脳震盪を起こして気を失う。クロロホルムなどの薬物をかがされて気を失うのは映画やテレビでお馴染みだ。柔道などで羽交い絞めで落とされるとか柔術でみぞおちを突いて当身を食らわすなど意識を失う場面はいろいろとある。当身に対して活を入れるとか冷水をかける、あるいはアンモニアをかがせる、などの蘇生術もいくつか知られている。けれども意識を失う機構ばかりか意識とは何なのか、無意識と意識はどういう関係があるのかなど意識の仕組みは、これまでまだ誰にも解明されていない神秘的な領域であった。それが遂に解明されたのである!というより7年ほど前に既に解明されていたのである。 それから実に7年あまり、完全主義に徹しようと努力しながら、この発見をいかに発表しようかともがき苦しんで来た。ただの発見なら科学論文として発表しさえすればよい。通るか通らないか、受理されるか断られるかは内容と書き方、証明法などいくつか要件に基づくレフリーの判断に任せられる。通常、学術論文は独創的であることは勿論、学術的価値が高いこと、論理が明快で分かり易いこと、などが要求される。その上でジャーナル毎に異なる選び方をする。基本的に金儲け主義の出版社の特徴は隠せない。だからリスクを冒すことはあまりやらない。 このブログでは日本語で書いているが、内容がどうにも伝わらないのである。7年とはその理由を追い求め続けた期間である。遂にその理由を発見したのだが、それが「時間」であったのは皮肉そのものである。思い返すと大学院の授業で宇宙や4次元時空の数理などを講義していたのだからもっと早く気が付いてよかったようだが、この「気が付く」仕掛けに時間が深く関わっているのだから何ともしようがないのである。つまり、気が付くためには脳の仕組みを知らなければならない。しかし誰もそれを知らない。ということは気が付かないということになる、という論理だ。 きっかけは推論法の発見だ。普通、推論法というと論理学か情報学そして数学だ。けれども新しい推論法は確率論に基づいた物理的な演繹法である。ファジー推論とも異なり、具体的な手法であるが勿論弱点はある。不完全な知識を元にしていかに正しい結論に持って行くか、そこには一種の閃きが必要なのだ。これがジレンマの最たるものであった。これを睡眠とスポーツそして音楽と執筆の夫々に、いろいろな屁理屈をつけて分散させて餌を撒いて大物がかかることを期待したのである。(続く) |
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5−6.人間性にたいする躾の影響がこんなに怖いものなのー? −どちらを選択したところで!−
こどもが学校から帰ってくる。「ただいまー!」と元気がいい。玄関のドアは開けたまま、靴は脱ぎ捨てたまま、ランドセルは放り投げたまま、そして母親がいなければ夜まで持ち越されるだけだが、もしその場にいれば一大バトルが展開される。「子は親の鏡」を学んでいる親なら恥ずかしいことと知っている。自分がなっていないと思われる!大変だ!だから躾を厳しくしてきたのだ。それがしつかっていないのだ! 自分の子育ては間違っていたのだ。どうする? これは問題ではないのだ。躾の殆どは「親が子の鏡」なのだから。よく向き合って食事をすると左利きになると言う論拠もそこにある。「言葉を教えたのも私だ。私がいなかったらこの子もいないのだ。私こそすべてだ。私に逆らったら何が起きるか分からないからね」、とまで行くと恐ろしい。忽ちいくつかの事件の記憶に連想が行くことになる。ちょっと考えただけでも出産を境にして女性から母親になると人格が変わることに誰しも疑いの目を向けることなどないだろう。変わってもよいし仕方がないからだ。次の世代とはそれほど貴重で大切なのに、それを殺すとは! 大阪や秋田、そして首都圏で起こる身の毛もよだつ殺人事件! そのたびに誰も答えが出せない。そればかりか自分の子供の学校でなくてよかったと胸をなでおろす。この感じ方に対して共感するか、違和感を持つかは誰も問わないし問えないのだ。いじめの問題も大きな社会問題だ。日記やメモによる自殺した子供の苦しみや悩みの気持ちは想像にあまりある。そしてこれも自分の子供に限っていじめる筈は無いしいじめられて自殺などする子ではないと思う。自分の子供で自分が躾けて自分が一番よく知っている。私の分身だ。私がいじめられていないのだからあの子もいじめられてなんかいない。私が自殺などしないのだからあの子もする筈がないではないか、と強気だ! 自分がなぜ攻撃的になったかは恐らく気が付かないし気の付きようがない。なぜなら子供に対する愛情のせいだと思い込むからだ。我が子のためなら火の中水の中、死さえ恐れないのが母性愛だ。我が子を敵から守ることが最優先だ。そこで守ることが攻めることと殆ど同じ概念であることを知らないのだ。ただし、忘れてはならない条件がある。これを読んでいる今現在と、何かが起こってしまった将来のどこかの時点、これは今日の午後になるかも知れないし、5年後に来るかも知れない、あるいは来ないかも知れないのだが、兎も角起こったとしたらその時点で何が違うのだろうという視点で考えることだ。 「うちでは厳しく躾をした。子供もおとなしいし、よくしつかった方だ。学校でのことは分からないが先生も何も言って来ない。何かあるのではと心配ばかりしていたらきりがない。私達の小さい頃はいじめなんてしょっちゅうあった。親友もいたから楽しかった。ああ、数学の先生だけは嫌いだった。威張ってばっかり、あれ以来数学が大っ嫌いになったのだ」などと発展して行く。どうしても鏡を見て化粧をする時のように冷静になった積りで何も考えていない自分に気が付かない。何も考えていないのだから気が付く筈がない。能天気と同じで気が付かないことに問題があるのだ! (続く) |
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5−5.躾の効果と数学との関係だって?−そんなことが起こるなんてあり得ないか!− |
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5−4.自然界には1も2もないだって? −そんな馬鹿なことがあるのか!−
どうしても考えられない人はそう多くはいない筈だ。なぜなら子供の頃にケーキを二つ出されたら必ず大きい方を選び、同じ量なのに2個に切ってあるのと1個では2個の方が大きいと思って選んだことが必ずあるからである。ないと言う人は忘れただけだろう。夕闇が迫る頃一番星を見つける。続いて2番星など数えることは比べることと同じく数学の基本である。夕空が茜色でも反対側はもう暗い。グラデーションの中に何もない!けれども次第に暗くなり目も暗さに慣れてくると星が見えて来る。このとき1個という概念を認識する。 背景の中に目立つ点か境界で仕切られた領域があるとき1個、1本、1人、1匹、1羽など単位を付けて対象を限定し、その対象が「ある、いる、存在する、見える」という概念から「数えられる」という概念が加わり一本の指と比較される。そうすると単位が違っても指が1本に変わりはないことから、「1」という抽象概念が形成される。指が2本なら「2」の概念となって「数」の概念と集合と要素が定まって行く。これは開集合であるがしばらくは10本の指とか二人で20までとか10進法で100までなど数字の概念が確立する。記号あるいは文字「1」は、この概念を分類して他の概念と区別できるように作られ選ばれたのである。 万里の長城のように昔の人間によって建造された人工物が自然には出来ないのと同じく、概念も自然にはない。イメージと共に頭の中、脳の記憶の中にだけ作られ、しかも誰にも見ることが出来ない。言葉と文字の発明によって記憶が確認出来るようになり概念が名前と対応付けられると、見えない概念は次第に注意されなくなって行く。言葉の方で意味を文章で表すことで辞書が作られると概念の形成は個人に任されることになる。形成には労力が要るため個人差が生じることから、概念を多く知っているかどうかは能力と見做されるようになり頭の良し悪し及び知識の量という視点で個人を評価するようになった。 しかし、記憶や思考に関する脳の構造が分からなかったために概念の形成や概念そのものが何であるのかが科学的に解明出来なかったのである。数学は抽象概念を扱うので更に個人差が如実に現れる分野である。従って意味論を教えられないと理解が出来ないのである。他の原因でこれがカバーされると数学者になれるのだが、それは確率的である。だから音楽と同じ様に天才の出現によって進展があるのである。(続く) |





