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[7月20日#1] 理系と文系の時代ではないよ
「理系」望む父 「文系」の4倍 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1281445&media_id=2 また変な表現の記事を書く。4倍とは嘘だよ。60%がどちらでもよいと言っている。 文系と限定すると7%で限定の理系が30数%。多数がどちらでもよいとき要注意だ。 理系でないといけないとしたのかな?文系でないと、などと今時親が考えるだろうか。 本質を推定すると、わが子を政治家にはさせたくないというのは今のところ本音だろう。 実は理系と文系の境界などないのだ。大学がいや旧文部省の指導でそうなっただけ。 正しくはヨーロッパで専門家育成の効率を考えて学部を分けた。理系と文系だ。 文明の高度化に伴い分業が必然なのだ。数学がお嫌いですか?勉強なんて嫌いだ。 しかし科学が進歩して、遂に脳の科学が現在到達できるところまで進んだのだ。 そしたら分かって来た。理系と文系の分断など文明に逆行する暴挙だということが! 但し、注意すべきは数学が数式を使う学問と誤解していることだ。意味が重要だ。 共通の意味があるからこそ全世界で数学が共有され理科系の学問が進歩したのだ。 1+1が2でないと叱られる教育は間違っている。情報理論では1+1は0だ。 こう決めましょうと言って進める。人間社会も憲法をこう決めて国家を立ち上げましょう。 だから法律は数学の論理と性質は同じだ。文学は表現だからパターンの問題だ。 しかしそうは言っても現在の大学教授とか文部官僚が理解できるかどうか。 典型は哲学だ。何でも解き明かしてやろうという向学心を誰が教えられるかなあ。 |
言葉と意味と哲学
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日本語は他の言語と違い、概念の形成に最適です。数学の集合論が含まれているのです。(http://homepage2.nifty.com/prohits)
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[7月13日#2] 生半可な職業意識か
大学院で教えていたときの元同僚の先生から新書が送られて来た。数学コンクールだ。 岩波の科学ライブラリー新書だ。題は「寄り道の多い数学」だ。全体をざっと目を通す。 到る所に洒落た工夫がインテリアのように飾られていて、星座のように目が留まる。 前書きが素晴らしい。身近なところにある意外な素材を基に数学の魅力を引き出す。 専門ではないがと断っているが、どうして、今では明瞭に分かる。数学は新鮮な頭だ。 ふとした閃きが大発見につながる。この閃きに魅せられて過ぎて行ったのが私の人生。 いや今でも閃きを待ち望んでいる。一生が閃きを期待する時間となりそうだ。脳科学か。 礼状を認める。脳科学はしっかり定義された分野ではない。私の取り敢えずの感想だ。 新しい数理哲学の研究をしていると知らせる。その視点から新書の素晴らしさを賞賛。 数学者と過ごした10年間は私にとって最も貴重なものだ。いや、数学者だけではない。 多元数理科学と銘打って創設された大学院。そこで私は一体何をしたのか。研究か。 教育か。読書か。音楽か。いびきの研究から睡眠、そして脳型コンピューターの研究。 真夏のせみの大合唱の中で毎年行われる数学コンクールこそ楽しい生き甲斐だった。 答えのないような問題の価値が、出題の意味が分かって来たのはつい最近だ。 数学者がいかに変わり者かも分かった。それと共に自分も変わり者への道を進む。 哲学!なんという魅力!妖しいまでの魔力とも云える分野だ。いやすべての学問だね。 |
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[7月1日] 7月に入って脳科学より哲学か
今年の1月にこれまでの集大成の発見とも言うべき閃きがあった。実は、そう思った。 和文で五つ、英文で四つほど論文を書いて投稿。それ以来半年が過ぎた。音沙汰なし。 外国には故意に抑えたがそろそろ我慢の限界だ。投稿する準備をしなくてはと思う。 脳の仕組みについての発見だが冷静に見直すとどうも哲学の分野が相応しいようだ。 従来からある既存の学会は余りにも細分化されていて、私の話は範囲が広過ぎる。 物理から生物、細胞工学から情報数学、エネルギーの基本法則から認知科学まで。 社会科学とか人間科学、挙句には科学心理学などと何でも科学の名前を取り込んだ。 どこが科学か。MRI画像を使えば科学と思い込む。あれは状態を観測する装置なのだ。 今日は久しぶりに自転車でテニスに出かけた。途中で考えをめぐらすのが楽しい。 どうしても中心はエゴイストに回帰する。他人の利己的な挙動を見ると我が身に返る。 脳の仕組みは、種の保存と繁栄が本能として行動させるようになっていることだ。 それに自然界の運と不運がつきまとう。生き物は必ず死ぬが、いつ死ぬかは不明だ。 元々、哲学は悟りの学問だった。現在は違う。過去の大哲学者の研究の観がある。 文系に属することがそうなった理由だ。本来の哲学は数学と切り離せないものだ。 一方の数学は細分化の中で偏屈になるばかりだ。だから数学という名前が消えた。 入試にはあるのに、数学科は皆、数理学科になった。脳科学は数理哲学なのだ。 数理心理学でも数理精神学でもいい。心理学の研究者の心配が現実になったのだ。 数学を知らないからだ。一方で数学者は数学に捉われ科学と何が違うのか分からない。 脳の科学的な仕組みを知らずして悩む患者の薬理的療法が出来るわけがない。 だから年間3万以上の自殺者がいながら精神診療は自殺を食い止められないままだ。 6割もの患者が薬を処方して貰っていながら自殺する。一度に大量服用は危険です。 そう念を押しました、と言うだろう。薬を服用すると患者は判断力が無くなるのに! その弱みに気が付いたので関連する五つの学会が国に予算と研究を請願したのだ。 その解答を手にしていながら発表しないでいる。したところで理解できないからだ。 |
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はじめに言葉ありきは禅問答めいている。我々が生まれるより遥か昔に祖先が長い年月をかけて言葉を作って来た。従ってここに隠れている怪しさの正体は「時間」という悪魔である。時間を遡って考えると、エネルギーという言葉が無い。相互作用も無い。でも力が湧いてくるとか気力を振り絞るとか生きる力をお与えくださいなどと言う。活力や水力、火力、果ては暴力に至る「力」という概念は物理学における「力」とは全然違っている。政治家やマスコミが政策公約と言わずにマニフェストを多用する。他にもある。人格とは何か。猫や犬の場合、猫格や犬格とは言わない。人格の意味が分からないからだ。それがいよいよ問題になる時代になったのだ。 2.言葉を創る −犬格や猫格は主格や目的格になれないの?− 人間は例外なく学習によって言葉を覚え、話したり書いたりするようになる。最初に言葉を聞いたのがいつだったか記憶にはない。ある筈が無い。あると思っている人は後から想像したに過ぎない。「認識」とはどういうことか知らない人には、「考える」とか「想像する」とかの意味が分からない。「人格」も「時間」ですら意味が分からない。そしてそれが「哲学」に関わってくる。 言葉として「神」を創る。偶像でもよい。シンボルにする。感動は共感と一体だ。共通のシンボルが社会の中に根付き、シンボルによって感謝や願い、哀願、癒しなどの感情を伴う概念が共有される。この時、反対の概念も形成されている。この発見が「二面理論」である。「幸運」を願うのは「不運」があるから。「幸福」を願うのは「不幸」があるからで、「神」の概念には「悪魔」が付きまとう。 3.神と悪魔はどちらが強いのか −無意味な問いかけこそ大事な視点があるの!?− 「神と悪魔の共通点を5〜7以上挙げよ」という質問をしてみる。敬虔なクリスチャンの方々にはぎょっとするような質問である。日本は仏教そして神仏混交等の政策の影響で宗教色は薄まり、何でもいいとする風潮がある。商魂たくましいセールスの営業マンがなんとかセールを頻発する。民主主義を標榜する現代社会では、さらに質問を出す。「神様が万能ならば、悪魔にもなれるの?」という意地悪な問いかけに対し、ほとんどの人が「なれる!」と答えるのだ! 不幸にして何かの被害に会う。不運と嘆く。昔は復讐という言葉があった。今は死語に近い。スポーツやコンテストでもあまり使わない。使うとしたら「リベンジ」だ。「被害」と「救済」は、法治国家においてはいかに民主主義のボロを隠すかという官僚政治の保身の問題だ。そしてこの「保身」こそ倫理の根底にある本能と社会集団の闘いの姿なのだ。 4.不運や不幸はどこからくるのか −宇宙の果てからやってくるだって??!− よく言われるが、無差別攻撃で何の罪も無い一般市民が殺される。では兵士には罪があるのだろうか。原爆投下は正当だったと主張する拠り所は何か。通り魔殺人が起きて何も関係のない一般の通行人が刺殺される。このような一見規模が違い過ぎて比較にならないようだが、何も具体的な評論が出ない。最終的に犯人が頭で決意する。前の大統領が決めたことだと批判をかわそうと洩らす。民族抹消を意図する狂気の殺人は数百万人の規模で行われた。 これらの加害者の側の論理は保身に隠されている。言い換えると自己満足につながる。日本人の二面性に激昂した話は有名だが、それだけに二面性の話には敏感だ。候補者争いで相手を罵りながら、負けると協力すると寝返る国がいよいよボロを出し始めた感がある。だからこそテロを防ぐ振りをしなければならない。銃を規制しないで狂気の乱射事件が起きるのを待つ。起きた学校は不運なのだ。 5.脳科学は貢献できるのだろうか −大多数の一般庶民の目の届かぬ所で??− たとえば、会社や職場、商売、何であれ働く。金のためだ。生きるためだ。文句あるか。障害者や病気になると不幸だ。高齢者は? 誰でも高齢になるのに不幸だって?! 保険があるって? 金があれば入っていた! こうして何でも金の時代だと実感するが手遅れだ。誰でも持っている偉大な才能は、「比べる」能力だから、他人と見れば比べる。そして騙せるとみるや金のために大勢の人を騙す。これは悪だ。では何が善だろう? 黄門や相棒シリーズの共通点は善良な庶民が被害に会い、一握りの悪人を追い詰めてやっつけるのだがそんな筋書きに対し言い分がある。製作者が意図するのは善と見せて組織が安泰であることだ。これがテレビで庶民を洗脳するポイントだ。構造改革と叫ぶ政治家が見かけの構造を変えるだけで改革になると思っているようだが大間違いだ。組織の改革は決して生易しいものではない。脳科学を勉強すべきだ。 6.おわりに −人間の尊厳は誰のために?− |
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哲学とはなにか。哲学がなんだか分からなくても、プラトンやソクラテス、デカルトやカントといった哲学者の名前を知らない人はいない。死と生を語ると哲学だと言ったり、宗教との結び付きを避けて通れないのはそのためだと信じる人も多い。筆者は違う。文系と理系の分離政策こそ人を無知のままに大人にする元凶だと主張する。今や数学を知らなければ言葉も使えない時代なのだ。そう言えば昔は哲学者は数学者でもあったと聞いたことのある人は大勢いるだろう。 2.哲学の意味とは なぜと考えることから科学は始まる。そして観察や実験を通して法則を見つける。数学は対象が自然界にあるとは限らない。むしろ頭の中にしかないことが多いのだ。3次元空間までは誰でも思い浮かべることが出来る。住んでいる空間がそうだから。しかし現実は時間を入れて4次元空間である。しかも時間は目に見えないときている。想像するしかない。その上、時間は逆行しないから実験も大変だ。一工夫も二工夫もしなければならない。 現実の世界では分業が進み、理数系と文系は分離されて嫌いな数学は一生嫌われる。両方に通じた教師はいなくなった。必然的に両方に通じる学生もいないし、余程の変わり者でないと考えつくことも出来なくなった。意味論は完全に立ち遅れていると言ったが、このような経緯を知れば頷けるだろう。 3.それでは哲学とはなにか 脳の仕組みが分かると、人がなぜ理解出来ることと出来ないことがあるのかが分かって来る。理解するとはどういうことなのか、これまでは漠然としかわかっていなかった。考えるということすらそのプロセスについて皆目分からなかったのだから当然だ。この「漠然とした」というところに重要な鍵がある。言葉にはそれが使われるかどうかという人間との関わりが常につきまとう。使われれば生き延びるし、使われなければ書物に残ったとしても廃れてしまう。 人間は常に世代交代をして次々と生まれる赤ちゃんが社会に参加してくる。そして言葉を覚え、話したり書いたり読んだりしてコミュニケーションを図る。そして言葉を使うことによって文明の恩恵に浴するようになる。ここにある仕掛けが隠されているのだ。このようにある事実を見出すには疑問を自ら生み出すと共に、その疑問を掘り下げる努力が必要だ。これが哲学だ。死と生の問題だけではないのだ。 4.暗黙の了解と早とちり 漠然としているから都合が悪いかというと決してそうではないのだ。むしろ、漠然としているからこそ、新しいことが学習出来ることが分かってくるのだ。その本質は暗黙の了解にある。ものの名前はものを示せばよいし、行動に関する言葉は身振りや手振りで伝わる。問題は見えない対象や抽象概念に関する言葉だ。時間はその典型だ。時制に関する文法が言語によって大きく異なるのはそのためである。現在完了や過去完了など学習が難しいのもそれによっている。そこでこの漠然とした曖昧な表現から、曖昧さのない科学的な表現が要求されることになる。日本語の論文で最も頻繁に指摘される表現は、「〜と思われる、〜と考えられる」というものだ。 言葉が曖昧さを持っていると知識にも曖昧さが附いて廻ることになる。曖昧さを論じる学問は誤差論だが、数学の中ではマイナーなばかりか、初めに確率ありきで、物理学を知らない数学者には出発点がずれてしまうことが理解できない。このような事情で知識を組み立てると、どこかで妥協することになる。哲学を知らないと途中で分かったと思い込むことになる。これが早とちりだ。本から得た知識を鵜呑みにすることもこれを助長する。 5.むすび |




