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5.なぜ意味が通じないか −だって難し過ぎるからだってば?!− 5−1.はじめに −時間の意味ってなーに?− しばらく他のことを試していたら、これは意外だと思うことを発見した。このブログを読む殆どの読者の方が、内容が難しいと仰る。こちらは精一杯平易な表現を探して、こう書けば伝わるのではないかと努力しているにも関わらず、読みづらいと仰るのだ。この違いは何から来るのだろう。しかし、白状すると答は以前から分かっていたのだ。意味論からスタートしたのには訳がある。言語教育に携わっている専門家の先生の一言「意味論が全然進んでいないのよ!」に刺激されて、「えっ、どうして?」と思ったから調べて驚いた。確かに他の分野に比べて完全に立ち遅れているのだ。 ためしに辞書でもなんでも利用してよいから、次のことばの意味を述べてみなさい。時間、精神、こころ、認識、意識、無意識、戦争、平和、苦痛、理性、本能、人格、概念、意味。そして、主義、イデオロギー、神、悪魔、思考、などへと挙げるにつれて、読者の皆さんはだんだんプライドを傷つけられて行くのだ。日常、よく使う言葉が説明できないのだ! この仕掛けを解き明かそうと思う。なんと数学を使うのだ! 5−2.数学のなにを使うか −ことばなのにどこが数学なの??− われわれは生まれてから言語に接する。正しくは生まれるより以前に聴覚が発達して学習を始める。音声を聞いていくつかの言葉を記憶してから生まれてくるのだ。勿論意味はまだ分からない。そのうちに泣いたり見たり聞いたりして、次第に話すようになる。突然肺呼吸に変わるので苦しくて泣くのが発声の第一歩の産声だ。声帯こそ進化の賜物だ。しかし、これに惑わされてはいけない。神経細胞が最大となるのは2歳児の頃だ。刺激があると神経が処理をする。ネットワークを形成して処理する。そして学習し記憶を更新して知識を増やしてゆく。 眼が開くときが認識の始まりではない。聴覚は既に発達している。お腹にいるときに聞いている音に反応することで証明されている。時計の音や買い物の袋をくしゃくしゃする音、きいきいする音などだ。お母さんの呼びかける名前も識別する例もある。聴覚を通して赤ちゃんの脳は、「なにかがある」、しかも断続音から、「切れ目」を感じ取り、「次のなにか」が分かるようになっているのだ。 カラスが「カァカァカァ」と鳴いた。何回鳴いただろう? 3回! 正解! では、「カーーーーァ」は何回か? 1回! そう、この切れ目の認識こそ「なにかがひとつ、ある」という認識の出発点なのである。これを昔の人がことばで“ひとつ”と表わし、記号で“1”とか“一”と書いて伝達し合った。切れ目があれば「次の」という概念が生まれる。即ち「+1」の意味だ。こうして自然数ができあがることになる。しかし「0(ゼロ)」の概念には結び付かない。 5−3.ゼロの概念 −へぇ、そうなの? 見たようなことを言うのねぇ??− 認識論から見ると“0(ゼロ)”の概念の形成には記憶が重要である。夜空の星でもよい。石ころでも構わない。りんごでもよい。何かがひとつあった。それがない! 記憶にあったのが確認してもない。記憶になければ最初から何もない。無いものは認識できないから“無い”という概念は生まれ得ない。在るから認識できて記憶され、それと比べると今度は無いことが「分かる」のだ。ここには「反対」の考えが使われている。対比である。右と言ったら左だ。胎児が手足を動かす。右と左があるとその制御はややこしいが比較するのにはもってこいだ。均等に動かすか片方だけ動かすか判断に迷う。結局、どちらかの手が利き手になる。一旦、利き手が決まると余程の圧力がないと直せない。 りんごがひとつあったのが無い! この概念が出来ると、「無い」という言葉が作られ、これを記号“0”で表わす。5個あったみかんが4個になっている。減るという概念は「−1」で表わされる。こうして「+」と「−」の対比は「反対」の概念で連想される。1本の直線を引いて、どこかを0として等間隔に目盛を振れば物差つまり数直線ができる。“増える”という概念がプラスなら“減る”はマイナスだ。そして右に移動すれば増え、左に移動すれば減るのだ。つまり、1次元では移動するという空間上の概念が「演算」に結び付いている。こうして自然数は正負とゼロの整数に拡張される。加減算はこの上で大小関係を問わず自由に行えるのだ。 5−4.ことばは数学によって作られる −そこが知りたかったのに!− ことばが何らかの概念につけられた名前になっている事情が分かると、概念が知識の要素になっていることが理解される。そして概念がまた概念の集合なのだ。その原点が「ひとつ/ある」という概念だ。空間が何次元であろうと場所つまり位置を示すには点の概念が必要だ。数直線をびっしりと点が埋め尽くしていると思いたい。しかしそこまで行くには実数の連続性の概念が必要だ。そして実数は無理数と有理数からできていること、2乗したら正またはゼロであること、2乗して負の実数になるのが虚数、実数と虚数から作られる複素数、それらを変数とする空間と関数など数学の概念は広がるのだ。ただし、実数には最早、隣の点の概念は通用しないし、複素数以上の数もないことが分かっている。 数が発明された過程には「反対」の概念が常にあった。注意すべきは「無い」ということばが「反対」の概念と「打ち消し・否定」の概念と重なっている部分があることだ。「行く」の反対は「帰る・戻る」だが、否定は「行かない」で概念は全く異なる。神は正に対して悪魔は邪、精神と肉体、心とからだ、戦争と平和、意識と無意識、過去と未来など、概念の連想には反対と否定が欠かせない。知識の整合性がないと頭が混乱して勉強嫌いになる。こうして大部分の人が手遅れになって行くのだ! 5−5.むすび −手遅れが取り戻せるの?!− 時間が有り余っていると思ったのは若いときだけだ。生物としての明白な理由から成長する。そして成長するにつれて、DNAに仕組まれたプログラムによって、からだが変化するばかりか、こころつまり脳の判断基準が変わる。行動プロセスのパターンが変化し、生きる目的の意識が変化するのだ。そして死の意識が忍び寄って来るようになる。それが焦りの元だ。手遅れを後悔しないものはいない。しかし後悔先に立たず、なのだ。この手遅れを取り戻せるか、という超難問に挑戦しようではないか。(続く)
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言葉と意味と哲学
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日本語は他の言語と違い、概念の形成に最適です。数学の集合論が含まれているのです。(http://homepage2.nifty.com/prohits)
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4.今日の朝日の記事に緑色なのになぜ「青信号」! −このコーナーの1月10日と比べたら?− 4−1.はじめに −事情の説明、大新聞でもそんなものかー 3月23日の朝日の朝刊の20ページにモンジローの疑問解決と題して標題の疑問が取り上げられている。このブログで今年初めの1月10日に書いたものと殆ど同じ内容だとの指摘があり、精読してみた。その感想を記しておきたい。なぜなら科学記事のように見せて無知な読者に分からせたふりをする大新聞特有のレトリックが使われているからだ。本来の科学記事なら科学に強い記者がいるべきなのだが文系の参考意見しか取り上げない。現代社会の理科系あるいは数学を知らない弊害がここに露呈されている。最もアカデミックなニュースに鋭敏で批判精神の急先鋒と考えて愛読していても時々こういった記事が出る。別に批判しなくても良いのだが、知的好奇心を刺激するという意味でコメントしておこう。 4−2.疑問解決とは摩訶不思議な騙し言葉 −恐らく大新聞でもこの程度なのだろう− 大衆は無知なのだという記者がいる。自分は大衆の受けを狙って記事を書く。別に科学的でなくたっていいじゃないか。科学は専門のところで議論すればいいのだ。ないよりも部数を伸ばすことが最優先である。われわれだって生活がかかっているのだ。部数の伸びのためには何を書いてもいいのだ。話題に上れば部数が伸びる可能性も高い。ここは科学記事と断ってはいないですよ。となるだろう。何のことは無い。新聞とは公器だという意識がない。ブルータス、お前まで資本主義の手先か、と誰かがいう。 この記事の署名がないところから類推できることは無責任な部署ということで、だからすぐ更迭されるのだろう。記事の内容と記者の頭脳に共通している抜け落ちた視点がある。それを指摘して餞の言葉にするのも悪くはないだろう。知っている人と知らない人がいるのは世の習いだ。知っていると言ってもまぐれで知っているだけのこともあれば、しっかり勉強をして学び取った知識もある。知っている人が知らない人に教えてあげる義務はない。そんな法律はない。知らない人はどこかで損をするだろうが、そんなこと知ったことか。知っていても損をするときはする。騙される方が悪い。騙すのは商売では当たり前だ。これはお値打ちだ、といかにも安いように見せる。 4−3.心理的に弱いから? 完全に抜け落ちている視点は、数学の集合論の視点である。標題になぜと大文字で掲げる以上、「なぜ」の持つ意味を正しく理解していなければならない筈だ。それが新聞人の見識でたとえ若い記者が書いた記事であっても、目を通すデスクには同等かそれ以上に責任がある。「なぜ」には原因と理由を問う意味がある。そしてこの記事によって読者に分かったと納得させられると考えた記者には、その区別がついていない。ついていなくても「別に困らない」と思い込んでいるのだ。これが早とちりだ。これが無知のまま発展するとどうなるか。隠蔽の本質に繋がって行くことに気が付かないだろう。なにしろプライドの世の中だ。自分の記者としてのプライドは高いと思っている筈だ。しかし、無知であることが反映されていることは知らないだろう。プライドは劣等感の別の顔なのだ。 言い訳はいくらでもできる。時間がかけられるから。しかし行った行為は二度と戻ることはないし、覆すことはできない。記者さんの言い分は大先生に話を伺ったからお墨付きがついている。それにどこを突かれても断定はしていない。「きたらしい」とか「そうではないでしょうか」と「話す」と防御していると逃げるだろう。この書き方が責任逃れだと指摘したい。いろいろな不祥事で調査委員会が作られてプレス発表がある。委員長の弁、「疑われても止むを得ない」だ。このような日本語を記者、特に大新聞の記者が何とも感じないほど理数離れが進んでしまったのだ。しかし世の中は便利になったのだ。こうしてブログで文句を言える。どうせ記者さんたちはそれを見ようとはしない。見ていたらこんな記事は書かないか、もっとなーるほどと唸らせる記事になった筈だ。 4−4.思い出す朝日の記事 −「鶴はなぜ一本足で眠るか」、だから意味があるわけだ!− 20年ほど前、日立の後押しで科学記事が連載され単行本として出版された。「なぜ」に異常にこだわる性分のため見過ごすことはできなかったが、面白い発見をした。それが今回ふたたび同じような体験をしたことになる。鶴の身体は意外に大きい。そして長い足が細いのは見ての通りだ。雪や氷の上を歩きしかもそこで眠るのだが、そのとき1本足で立ったまま眠るのだ。それで標題の疑問が湧く。それに動物学者が答える。その回答が奮っている。太ももに血管が入り組んでいるところに目が行く。そして、なぜ入り組んでいるのか考える。そして「そうか、ここで熱交換をするから鶴はしもやけにならないのだ!」と発見する。「寒くて足がしもやけにならないように一方の足を羽の中にいれて眠るのだ」と疑問が解決するではないか! この感動は大きい。大きいがゆえにこれから先のより深い推理をマスクしてしまう。これが早とちりだ。物理では力学は必須である。問題意識がすり替えられているのが分かるだろうか。「なぜ」の原因と理由に答えるには数学の必要条件と充分条件の論理が理解できていなければならない。もし、しもやけにならないためだけなら、しゃがんで眠ればもっといい。両足が羽布団の中だ。実際、鳥類はどれもうずくまって眠る。渡り鳥が長旅に備える頃いろいろな変化が起こる。問題に抜け落ちていた視点は、「なぜ」1本足で”眠れる”のか、つまり、「眠っても倒れないのはなぜなのか」という問題意識である。この視点の欠落は無知から生じている。理数教育の欠如だ。そして公器を用いて大勢の読者に間違った、あるいは不十分な考えを押し付けることで大きな罪を犯している。それが今も続いているのだ! 4−5.おわりに −そしてまた最初に戻るのかな?−
ジャーナリストや論壇は文系の出身の方が多い。殆どの社長もそうだ。しかし文系の人々のコンプレックスは間もなく頂点に達するだろう。連日会社のトップのうわべだけの謝罪が続いている。その理由が分からないからだ。しかしこれを熟読すると、何が罪かと生活との関連の意味が分かって来る筈だ。そしていくらかほっとするだろう。二面理論によってこの罪は改めて言い訳になるからだ。こういういい加減な記事があったからこそ、新しい理論が出来たのだ。だから意味があったのだ。分かったならなぜ記者に連絡をくれないのか、読んで知らん振りをしている方が悪い。記者は専門家ではないのだから。こうして議論をすり替えるのだ。(続き) |
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3−1.英語教育の欠陥、それは意味論の立ち遅れからだ! −どうもすべてがそこからかも?− (筆者注)この稿は別の【理数教育】のカテゴリに同じ内容のものを載せて置く。強調の意味とこのカテゴリをスキップした場合の予備のためである。 英語が話せない日本人ばっかりだ。一体何年英語を勉強しているんだ、とよく外国人に訊かれる。こう話すと、そんなことはありませんよ、と糾弾される。英語の試験があるし、海外に長期滞在した人も数多い。違うのだ。国際会議で座長がいて講演毎に議論する機会ができる。そこで講演者に噛み付くシーンが殆ど無いという意味だ。質問しないのではなく、質問が出来ないのだ。ここには明らかに二つの問題が見られる。ひとつは質問するのは講演者に対して失礼だという座長の勘違いである。能無し座長が多すぎるのだ。座長の役割を心得ていないのだ。英語の文化を知らないためだ。いい講演には最低三つのいい質問があるのが常識だ。しかし、招待講演で時間を知らせることが出来ない座長ばかりだ。英語を知らないからだ。その結果、質問なしという非礼をしてしまう。すべて座長が悪いのだ。間違っているのだ。すべて無知から来るのだ!
もうひとつは、英語の意味が分かっていないために議論にならないことだ。単なる質問に過ぎず、何を聞いていたのかという顔色をされる。例によって、そんな馬鹿な、と思う心が読める。中高大学と最低でも10年は英語を勉強しているだろう。それにも関わらず英語を知らない筈はない、と思うだろう。では例を挙げてみよう。[Why?]とはふたつの意味があるがお分かりだろうか?中学生だって「なぜ?」と訳すことができる。それが海外に10年いたという人でさえ、こんな単純な質問に答えられないではないか?ひょっとして、これはコロンブスの卵なのかも知れない。いや、それにしては易し過ぎるのだ。ヒントは物理法則と時間の悪魔だ。 状況を分かり易くして、と頼まれた気がする。娘さんが帰らないうちに電話が来る。お宅のお嬢さんはいますか、という初老の男からの電話だ。電話を取った受付嬢は訝しがる。怪しむ。しかし名乗ると院長先生に取り次ぐ。しばらく間がある。そして怪しんで切ってしまう。しばらくして娘さんが帰宅する。早速詰問するだろう。「お前はだれと付き合っているのだ?」娘さんは唐突な質問をされてなにが何だか分からない。父親の剣幕に、「なんで怒られるの?」と聞き返すのが精一杯だ。英語なら "Why are you so mad?" だ。そして電話を受けた看護婦兼受付嬢に「なんで怒ってるの?」と尋ねる。 "Why is he so angry? What made him mad?" の意味だ。 つまり、なんで怒ってるの、という疑問は二つの意味の疑問から出来ているのだ。ひとつは怒っている「理由」だ。なぜに対する答えは通常「なぜならば」という理由だ。 "Because" で始まるのが普通だ。それに対して、後者は違うのだ。「なぜ、何があったの?」と訊くとき、真意は、何が「原因」で怒っているのかを知りたいのだ。「原因」と「結果」は説明に必要だ。これは英語の問題であると同時に日本語の問題でもある。理系と文系を分離してしまったために生じる問題でもあるのだ。理由から結果または結論に到る説明が納得するかどうかの確認作業が前者の質問の動機であり、原因から結果に到る経過を推理する作業が後者の動機である。数学では前者が多いが物理では後者が多い傾向がある。そこに「時間」が隠れているためである。これを教えられる国語、英語、数学、物理の教師は一体どれだけいるだろうか? |
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3.意味論から説くバイリンガルへの近道だって? −運動しながら話すんだって!−
神経細胞の数学的な機能をこのコーナーで説明した後、しばらくの間、別のカテゴリで集中的に脳の仕組みについて書き続けていた。遂にそれを書き終えたので先ず理数教育のコーナーへ戻り、引き続いてこのコーナーで意味論を続けようと思う。ただ、脳の仕組みについて学んだので、二面理論に基づいて話すことになる。それゆえ、これまでとはひと味もふた味も違って、内容はぐーっと具象の世界に近付いてくると思う。 先ず、ニューロンの働きの中で最も数学が必要な機能が、入力の総合量が発火する条件を充たすかどうか、つまり量の大小の比較と判断であることは異論がないだろう。このニューロンが個別に持っている閾値(しきいち)が低ければ、どの入力が来ても発火するので論理和つまりOR素子になる。逆に次第に閾値が高くなると論理積つまりAND素子になる。この閾値の変化がシナプスの数の変化と共に学習にとって本質的に重要な働きをするのだ。それだけではない。ニューロンが補給されてくるので、より立ち入った判断が出来るようになるのである。具体的に示そう。 ニューロ510号が何かしら判断する。それは認識空間を二分することを示した。ここが見落とされるところだ。ニューロンが発火しないことも意味があるのだ!これまでは発火にだけ目が行き、発火しない場合は無視していたのだ。そして、ある判断は認識の超空間を二分するから、次の段のニューロンの判断によって、どちらかの空間はさらに二分されることになる。空間分割は3次元空間まではイメージできるだろう。それ以上は想像するしかない。入力は甘い信号だけではなく苦いものもあると言ったように、興奮剤と抑制剤が混じっている。その総量で判断をして発火するかしないかが決まる。つまり、複合型判断をするのだ。これによって認識空間は狭められる。 認識するためには感覚受容器が発火の原因を作る必要があると思うだろう。黒い背景に白いチョークで字を書く。白い紙に墨で字を書く。どちらも対等である。そして境界が明瞭である大きさ以下なら、何かしら「ある」と認識する。星でも水滴でもいい。それが動く物なら尚のこと注意が行く。視細胞が活発に反応するからだ。そしてその「もの」が取り去ったら何も無いことから「ない」という概念が作られる。そして飛び離れて「もの」がまたあると「ふたつ」という概念が作られる。このとき、境界は色の違いや両眼視、動かない背景の中で動くといった条件で識別される。すなわち、概念が出来上がっていなければ空間を分割することは出来ないのだ! 逆に言うと、新しい概念を形成するには、先ず何かの概念が必要であること、そしてそれと比較する何らかの概念があってその二つを識別できる時に限って新しい概念が出来上がるのである。霧のロンドンなどで霧は境界が不明だが、空に浮かんだ雲は数えられるときがある。雲ひとつない晴れた空が意味を持つのである。しかし、空を見上げなければ晴れているかどうか分からない。どうして見上げるのだろう?認識には「見る、あるいは、見える」という動作と「視る」という動作の違いが絡んでいて、神経細胞の機能は同じでも場所が異なることで接続先も異なり、動作の制御にも二つのシステムが関与していたのだ。それがPPとSPであったのである。 |
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2−8.神経細胞の発火の意味に迫ると本質が見えてくるって? −これはすごい!−
このカテゴリーで神経細胞の仕組みを説明する一方で脳の仕組みのカテゴリーでも話題にしている。この重複には意味がある。意味の理解が狙いだからだ。この視点がどの分野においても欠落していたために、あらゆる問題が解けなかったのである。その秘密がこれから解き明かされようとしている。すべては意味論から始まる、あるいは始めるべきだったのだ。日本語の美しさは意味から再考され見直されるのだ。そしてその高みにおいて音楽と同化し、子守唄に見られるように次の世代へと引き継がれて行くのだ。このブログで抜き出したカテゴリーは深いところで全部マグマのようにつながっている。まるで知能火山帯だ。有数な地震国の日本は地震による災害とともに温泉や美しい山々の景観という安らぎを併せ持っている。 しかしこの美しい国が2発の忌まわしい原爆を落とされた事実は消えることはない。そして戦争以前にあった忘れてはならない事実と戦争後に甦った事実もまた忘れてはならないけれども、忘れ去られる運命にあるようだ。何とかそれを繋ぎ止めたいと願ってこれを書いている。連想が発散する。しかし感動が待っている予感がする。共感こそ生きる苦労と苦悩に対する最高のご褒美だ。すべては共感を得られるかどうかにかかっている。これは自戒と自省と自制のための記録でもあるのだが残された時間は長くはない。時間との闘いだが一方でその時間と言う悪魔を味方に付けなければ理解が出来ないのだ。この矛盾を解決する方法をようやく発見したが誰にも理解されないのは明らかだ。これほどの矛盾があるだろうか? 「神経細胞が興奮して発火する」という明白な事実の裏に潜む究極の謎は輝く太陽かも知れない。全身全霊の力を振り絞って岩戸をこじ開けてみよう。さあ、何が現われるだろう。それは「神経細胞が興奮しなければ発火しない」、あるいは表現を変えて「神経細胞は発火しなければ興奮していない」である。これを意味論からの帰結である「神経細胞は判断する」と結び付けると得られるものは「神経細胞は認識する空間を2分する」というものである。これが知識や知能の最も深いところにある原理である! 具体的に示そう。ここに1本の直線がある。それは次の式1で表わされる。すなわち、
(式1) y = ax + b ( a と b は実定数、x と y は実数)
この中に出て来る "=" の意味が問題である。等しいという記号で、左辺と右辺が等しいということは誰でも知っている。でも一休さんでないと分からないことがある。一を聞いて十を知る、ことの意味だ。ここにあるのは数および大小の概念だ。これが「どこまでも厳密に、完全に等しい」ことを定義する源だ。そして「等しくなかったら」と発展する。すると「もし等しくないのなら、どちらかが大きくどちらかが小さいのどちらかだ。つまりそれ以外にはない!」と宣言できるのである。どれほど意地悪であっても悪魔でさえ「認めざるを得ない」のだ。だから 0.999‥ と1の間にありそうな隙間はないのだ。この二つの数は”完全に”等しいのだ!昔、筆者が中学生のとき読んだ高木先生の数学概論には「でできんどノ切断ニツイテ」と書いてあり今と逆になっていたのを覚えている。実数の連続という概念は微分可能と深く結び付いている。日常の世界では隣の点は何の不思議もないが、実数の世界では隣の点は定義できないのだ。点の大きさはないし直線は点の集まりだから巾がない。にも関わらず直線は無数の点の集まりだと言う。0 x ∞ は 0 の筈だ! 数学が抽象の世界で嫌いだと逃げる人には、何でこれが面白いのか分からないだろう。でも殆どのパラドックスにはこの類の仕掛けがあるのだ。こんなに面白いのにあなたには分からないのか。不公平ではないのか。子供達にも分からせないでいいのか。この楽しみを奪ったのは一体誰だろう。でもあなたには責任はないのだ! |



