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2−7.なぜ神経細胞は発火しなければならないのだろう? −なんて馬鹿なことを考えるの!− |
言葉と意味と哲学
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2−6.神経細胞が比較して判断するという意味は? −えーっ、そうだったの!−
神経細胞は興奮すると発火する。視細胞や毛髪細胞もそうである。これらが光や音の刺激によって目の網膜や耳の奥のかたつむり管で興奮し発火して信号を発生する。そして視神経や聴神経を介して脳の視覚野や聴覚野に伝えられる。これを脳が処理をすることによって出会った人の顔を認識したり、相手が何を言っているのか聞いて理解する。これはもう常識だ。脳を見るのはいやでもこれ位は知っている。間違いない。誰でもそう言っている。どの本にでも書いてある。100パーセント正しい。それ以外のことを言うなんて間違っている! 作家と同様に嘘をつく気持ちで「分かりました。はいはい、そうですね。」と宥めて落ち着いて貰う。相手のあなたは興奮している。アドレナリンが多く分泌されて攻撃的になっている。ここでプライドや虚栄心を刺激するのは火に油を注ぐようなものである。道化役のピエロはサーカスの見物客を笑わせる。喜劇役者や落語家も同じだが大勢の人を笑わせるためには見物客や聴衆の心理に精通していなくてはならない。自分自身の心にマスクをして演技をする。決して素直な態度だなんて言えないし、それどころかひねくれた屈折した心にならないと演技などできない。たちどころに見破られてその場が白け切ってしまう。 一方で聴衆の方の大人もそれを知っている。演技をしていると知って同情の気持ちを込めて一緒になって子供を喜ばせる雰囲気を作ることに協力する。これが共感となって盛り上がり子供の情操面の感受性を刺激して記憶に残ることになる。落語にしても音楽の演奏にしても聴衆の心を掴むためのこつがあることに変わりはなく、共感を呼び起こせたら大成功である。という風に話題が逸れて行く。言葉は連想を生み出すから何かを説明しようとすると、連鎖的に連想が別の連想を誘導することが多い。そしてこのように話が発散する。そして何について話していたか忘れてしまう。これではいけない! けれどもそうではない。ものごとの理解とは決して生易しいものではない。個人差がある上にこの共感が仇となる場合があるからだ。理解の最大の敵は早とちりだ。そして偏見だ。一旦叩き込まれた価値感は判断の基準として働く。それも潜在意識の価値判断基準として深く入り込んで到るところで我々の判断を狂わす。ここには脳全体の構造上の仕組みが絡んでいて、それはまた神経細胞の集団から出来ているために神経の機能が関係しているのである。しかし初期の研究者の思い込みがどこかにあると、弟子にも伝えられる。喧嘩別れする位の気概のある次世代の研究者はなかなかいるものではない。たちまち喰って行けなくさせられる。教授は政治家と同様に有名になるほど二面性を持たされるから陰謀はお手のものである! この二面性がどこから来るのか、それが主題であり、最初の手掛かりが神経細胞の機能の演繹による見直しによって見出されたのだ。(続く) |
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2−5.宇宙の謎が意味の謎のヒントだって?−たった4種類の力がすべての鍵!− |
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2−4 神経細胞が判断するってそんな馬鹿な! −なんともすごい!− |
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2−3 認識の仕組みはこうだ! −そんなの当たり前だって?−
教室で講義をする時は各シチュエーション毎に絵を描いて話すのでもっと面白い筈である。だが、文字だけでも伝わっていると思う。ここで認識についてまとめてみよう。 1.先ず「対象物」を見る時、視覚処理はその特徴抽出を行うのである。 特徴が見当たらないときは何もないとする。学習していないと特徴が分からない。 2.学習した特徴は記憶の引き出しに分類されて入っていて、今見た特徴に基づいて検索され、照合 される。似通っていたら比較し、一致の度合いを検証する。そして合致するかどうか判定する。 3.合致と判定したら記憶を更新し最新のものにする。合致せずと判定したら新しい特徴のカテゴリ に登録する。 このプロセスを行うときに鍵となるのは神経ネットワークが作る記憶装置が連想形式を取ることである。数学的な説明は省くが形成に際して大きく2段階あって異なる機構で出来て行く。段階1が理解しにくいのは当然である。記憶装置が出来上がるまでは記憶が出来ないから思い出せないし思い出すわけがない。これは矛盾しないだろうか。比較能力があるだけでは記憶と比較することは出来ない。何か比較するものがメモリに入っていなければ比べようがない。物理数学で微分方程式を解く際は初期条件が結果を左右する。比較する時の基準は個々の神経細胞が夫々に内臓している。でも判断の基準は細胞の発火の条件となるが、ネットワークとして比較する時のシード(種)となるものが最初になければならない。 おなじ「みる」でも「見る」と「視る」の違いはすでに明らかであろう。注意の度合いが大幅に異なるのだ。「見る」は何とはなしに見るから殊更気合が入っているわけではない。一方の「視る」は努力が入る。何の努力か。パターン認識の努力、つまり特徴を見つけ出す努力である。パターンこそ図形の模様として目から入る刺激の典型と主われがちだが、良く調べると耳から入る音の刺激もパターンなのである。目の網膜上に投影された倒立像が視細胞によって白黒の明度とカラーの彩度が判定される。テレビの画面と同じである。 音や音声は平面の軸が異なり、音の周波数つまり音の高低と、それぞれの高さの音の強さつまり振幅が時間と共に変化するパターンになっている。静止画像と同じ3次元空間のパターンとして類似の扱いができる。そして音声の特徴として、少ないけれど母音のスペクトルにはいくつかの目立つピークがあり、子音は種類が多く非常に短い時間に出る破裂音や摩擦音が用いられる。聞き間違いが多いのはこの子音の特徴のためであるが、残像メモリ機構によって補われる。一部のパターンを引き延ばしたり回転や裏返しや拡大などの変換をして比較することができる。こうして認識の仕組みが次第に絞り込まれて来る。残された大問題は何だろうか。そしてそれはどう解決されるのだろうか? |



