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言葉は長い年月をかけて何代もの世代に亘って大小の社会が育んで来たコミュニケーションの道具である。歴史的には交易や戦争によって文明の伝播と交じり合いが何度と無く起こり、そのつど、言語も変化し、現代においても新造語や輸入語が毎年増え続けている。科学の進歩に伴い、新しい発見によって新しい概念が生じる。これまでの概念の組み合わせでは説明や理解ができない。知識は何らかの記憶を伴った概念の集合であり、共通の言語によって論理的に意味が伝えられることで共有される。
一方でいきものである人間にはできたら楽をしたいという強い動物的願望がある。そこで言葉の習得を含めて知識の獲得の程度に個人差が生じる。さらに教育の政策や教師の能力と家庭環境など種種の要因によって地域差や国家間でも差が生じることになる。これまで、言語学は数学とは無関係と考えられて来たが、文系と理系の分離政策による欠陥のためである。その典型が意味論の立ち遅れで、具体的にはかな入力による日本語の漢字変換のアルゴリズムの手掛かりが皆無であることが挙げられる。概念やコンセプトが五感で捉えられる場合は具体的なイメージが作れるから記憶が容易である。しかし精神活動や心が絡んだ抽象概念になるとイメージが伴わないことが多く、言葉による思考を通して形成しなければならないため、労力を必要とする。そしてこれが再び知的理解力に差が生じる理由になっている。
集合論に必ず出て来るのが内包と外延という概念である。我々の一生は時間的にも興味においても限りがあり、一般的に集合の全部の要素に出会うことはない。そしてこの出会いは確率的に起こる。内包は全部の要素に共通した性質なので、集合の一部の要素からは定まらない。さらに、外延はこの性質を持つ範囲を意味するから、内包が定まれば外延も定まり、逆に範囲が決まれば内包が定まる。現実には長い年月をかけて曖昧ではあっても実用を重視して、相補的に双方を工夫して概念という意味上のまとまった集合を作り上げ、それらを分類してそれぞれに概念名を付け、カテゴリーとしたのである。従って、概念が既に出来上がっている世界に、言葉を知らない赤ちゃんが飛び込んで行き、自分なりの概念を形成して行くことになる。
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