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聖書の話の中に、ルカ16章20にある金持ちとラザロという物語があります。
金持ちは、いつも紫の衣や細布を着て、毎日贅沢な生活を送ってくらし、門前のラザロという全身おでき
の貧乏人は、金持ちの食卓から落ちる食べ物を食べて細々と生活していたのだそうですが、ラザロは、後に死後、聖書では、信仰の父と言われているアブラハムのもとにあげられ、その反面、贅沢三昧していた金持ちは、ハデスで苦しみを受けたのだそうです。
しかし、この金持ちの心は少し清かったのかもしれません。
金持ちには、信仰の父アブラハムの姿が、目をあげると見えたのだそうです。
当然、その金持ちは、命乞いをいます。
「父アブラハム様、私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。」といいますが、アブラハムは、こう言います。
子よ。思いだして見なさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けていました。
しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのですと言われ、しかしこの金持ちは、今度は、自分の兄弟5人のためにラザロを送ってくださいと言います。
自分のような目にこの金持ちは兄弟をあわせたくなかったのでしょう。
この金持ちが、アブラハムに頼むと彼は、こういいます。
彼らには、モーセと預言者がいますからその言うことを聞くべきですと・・・。
残念ながら、金持ちは、生きている時、門前のラザロが苦しんでいても、相手にもしなかったのかもしれません。
さて、私は昔に蜘蛛の糸という物語を読んだことがあります。
ある時、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを歩いていると蓮池の水面をおおっている蓮の葉の間から、下界の様子をごらんになった時、地獄のそこにカンダンダという大泥棒がいるのに目がとまったのだそうです。
その理由は、彼は生きている時に人を殺し、家に火をつけさんざん悪の限りをつくしてきた自分勝手な男だったのですが、しかしたった一つだけ良いことをしたことがあったからだそうです。
それは、ある時にこの男が、道を歩いていると小さな蜘蛛が道端をはってあるいていたのだそうです。
この時にこのカンダンダは、この蜘蛛を助けてあげたのだそうだから、お釈迦様は、この男を生きている時に蜘蛛をたすけた礼でもさせるかのように、蜘蛛の糸によって、この男を救おうとされました。
カンダンダは、もちろん大喜びでしたが、この蜘蛛の糸は、カンダンダだけのためにあったのですが、
地獄で苦しんでいたもの達も一緒に登ってきてしまい、カンダンダは、糸が切れるのを恐れて、自分も罪人であったのをわすれたかのように、「こら、罪人どもこの蜘蛛の糸は、俺のものだぞおまえ達は、誰に聞いて登ってきた降りろおりろ」といった瞬間にこの蜘蛛の糸は切れてしまい、カンダンダも、地獄へおちたというものがたりがありますが、しかし今、生きている時に、私達が主・イエス様の十字架を信じるのならば、金持ちでも、カンダンダのような罪人でも、主・イエス様に最後まで希望を持ちつづけ、主の十字架が私達の罪を赦す為にあるという事実を述べ伝え続けるのならば、私達は、神からの忠告をさずかった預言者の言う事を守れるようになります。
たとえどんなに今迄、自分がどんなにひどいことをしていたとしても、刑務所にはいるようなまねをしてしまったとしても、心配はありません。
主・イエスキリスト様の導きは、確かに蜘蛛の糸のように、細く罪は、私たちをあざ笑うかのように、
私達を苦しめようとも、キリストの十字架は、神の愛は、十字架という蜘蛛の糸のような鎖は、けっして
私達を裏切りはしないのです。
しかし、今の現代生きているときに私達が、主・イエス様の十字架を信じずに死んでも、手遅れです。
何をいっても多分赦されないものになってしまうでしょう。
あの、贅沢三昧した金持ちのように・・・。
でも、生きている私達、(この日記を読んでるかた)は、喜んでください。絶対に主・イエス様を信じ、主・イエス様が十字架にかかったのが、私達の罪のためと、認めるのならば、素晴らしい天国が、約束されます。
あなたの罪がどんなに重くとも・・・。
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