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主・イエス様を賛美する歌の中に、信仰は我が物、信仰は、我が物、主・イエスの血潮で、信仰は、我が物 わ〜が〜物、信仰こそ、主・イエスの血潮でいつも、信仰という歌が、あります。
この歌では、信仰、信仰と、何度も言葉がてでくる。
さて私が、まだ小学校の低学年だった頃、私は、水泳が、苦手でした。
まず、顔を水の中につけるのは、できるのですが、目を開けるのがこわかった。
そんな私の姿をみて、母は、何週間か、私をスイミング・スクールに連れていって、くれたことがある。
そこでは、先生も、短期間で、覚えてもらわないとならないので必死だ。
自分は、怖い思いを断ち切る為に何度も、何度も、目を開け泳げる泳げると、信じること繰り返し、言うことで、三日か四日目ぐらいで、泳げるようになった経験がありますが。
信じるとは、きっと、毎日の祈りとデボーションの積み重ねなのかとおもった。
さて、時は、300年頃場所は、恐らくだそうですが、小アジア、カッパドキアに、ゲオルギウスという方が、いたと言われていた。
彼には、昔話で、竜と戦うという伝説もあるのだが、実際に存在したじんぶつだ。
ゲオルギウスは、戦士として、有名で、騎士道精神のあるかただったようだ。
彼は、とても信仰に熱い、勇気のある方で、異教徒の王に捕らえられ、拷問を受けようとも自分の考え、主・イエス様のために生きることをまげなかった。
王に、殺されかけようとも毅然とした態度を見せる、ゲオルギウスをみて、遂に、王妃も、キリスト教に改宗したいと、いいだした。
そのことに怒り狂った王は、よっぽど、自分の思い通りにいかないことが、気に食わなかったのでしょう。
まず、王妃を彼の目の前で、惨殺し、そして、本人もころされた。
ゲオルギウスが、どれだけ勇敢だったのかは、竜との戦いの話しをみると分かる。
カッパドキアのセルビオス(Selbios)王の首府ラシア(Lasia)付近に、毒気は振りまく、人には咬み付く、という巨大な悪竜がいた。
人々は、毎日2匹ずつの羊を生け贄にすることで、何とかその災厄から逃れることとなったのだが、それが通用するのはそんなに長い時間のことではなかった。羊を全て捧げてしまった人々は、とうとう、人間を生け贄として差し出すこととなった。そのくじに当たったのは、偶然にも王様の娘であった。王は城中の宝石を差し出すことで逃れようとしたが、もちろんそんなもので誤魔化せるはずはなかった、かわりに8日間の猶予を得た。
そこにゲオルギウスが通りかかった。彼は毒竜の話を聞き「よし、私が助けてあげましょう」と出掛けていった。
ゲオルギウスは生贄の行列の先にたち、竜に対峙した。竜は毒の息を吐いてゲオルギウスを殺そうとしたが開いた口に槍を刺されて倒れた。ゲオルギウスは姫の帯を借り、それを竜の首に付けて犬か馬のように村まで連れてきてしまった。大騒ぎになったところで、ゲオルギウスは言い放った。
「キリスト教徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう」
こうして、異教の村はキリスト教の教えを受け入れた。
という、話しを見ると、何も意味もなく、書かれているのではなく、多分、竜=サタン、姫=異教徒の改宗、
いけにえの羊など、聖書と合わせて、教えてしてもかいているのだと思う。
きっと羊のいけにえを奉げてきた人々は、途方にくれた。
今迄、人をいけにえにささげたとはなかった。
誰が、いけにえになったとしても、それでは、旧約聖書で、ヨナという預言者を船の船員たちは、海が静まる為には、主の御顔を避けて逃れようとしたヨナを海に落とせば、自分たちは、助かると、いってそうした。薄情な船員たちと同じになってしまう。
きっと悩み悩み、彼らは、くじで、いけにえを決める。
そして、皮肉にも、偶然あたってしまったのが、王様の姫だったのだという。
村を守るか、命を捨て、姫を守るのか。
ゲオルギウスは、命を懸けて、姫を守り、そして、このものがたりは、主・イエス様へ改宗するように言うことで幕を閉じるのですが、私は、ゲオルギウスの信じるただ1つのことを信じる信仰に感動を覚えました。
それは。主・イエス様の十字架と復活です。
私などは、正直いって、そんな命を懸けて主・イエス様のために生きれるのか?
不安でもあります。
詩篇23:主・イエスさまの僕ダビデ王は、こういいます。
主は、私の羊飼い、私は、乏しいところがありません。
主は、私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても災いを恐れません。と
なぜならば、主が、貴方のムチ、貴方の杖が、私の慰めだからといいます。
こうかたっているダビデ王ですが、きっとおそろしかったのに違いはないです。
でも、きっと、一人ではなく、二人三人の友が、仲間の存在が大きかったのではないかと思います。
その仲間皆が、ただ一人の全世界を創った創造主を信じ、伝道7:27私は、道理を見出そうとして、
1つ1つにあたり、見出したといいます。
1つ1つ、主・イエス様に祈り求め、解決していくのならば、 聖かにただ、信ぜよただ信ぜよ、信ずるものは、たれも皆救われんとうたわれていますが、日々の祈りが、私達の恐れをなくし、主・イエス様の十字架を命を懸けてのべ伝えられるものへとかえられるものと確信しています。
主・イエス様が、何も悪い事をしてないのに、罪人と同じ十字架に架かられ、私達のために赦しをねがっておられる。
だから私達をどんなことがあっても見捨てないどんなに困難なことがあろうとも、主・イエス様は、友として、
信じるのならば、あなたがたの心の中に供におられ、今も、私達に救いをささやいてくれます。
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検索から探していたブログに漸く出会えました。
印に足跡を残していきす。ペタッ
2008/5/8(木) 午後 1:50 [ ゆいか ]
足跡ありがとう!
主・イエス様が、ゆいかさんの杖であり、一緒にあゆんでくれるよう祈ります。
2008/5/16(金) 午後 11:25 [ トモトク ]