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今日は、教会で、ペンテコステ聖霊降誕日を記念する
めでたい日でした。
主・イエス様は、十字架に架かられ三日後に復活をされました。
その当時、彼らは洗礼者ヨハネにより、罪のあがないの水のバプテスマ
を受けていました。
なぜ、教会でペンテコステが、とてもめでたい日なのかと言うならば、
私達の救い主は、三位一体の神=主・イエスであることが関係しています。
神には、3つの性質があると私達キリスト教会は、信じています。
子なる神、父なる神、聖霊なる神、三つの性質があると聖書をもとに信じ
られてきました。
今日は、この聖霊なる神=知恵の霊、真理の霊が与えられためでたい日です。
主・イエスは、使徒1:5でこういいました。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなくあなた方は、聖霊の
バプテスマを受けるのです。
私達教会では、バプテスマ=洗礼と、聖餐式と言う罪のあがないの証としての
儀式があります。
信じて救われるために主・イエスは私達が主の十字架によりすくわれた証として
の聖餐式と洗礼をするようにと、聖書で命じられました。
だから、私達にとって真理の霊=聖霊を受けられた日として、聖霊降誕日を喜ぶ
わけです。
今日は主・イエス様に祈り、ペトロ・ネメシェギという上智大学神学部教授であった人
の話しの一部を紹介いたします。
彼はまずこういいます。
神のめぐみを受けるとうれしい。
うれしくなると人はただ一人で喜んでいようとしない。
喜びは共に喜ぶ人を求める。
だから、パウロと、彼の後を継ぐ無数の人々は自分達が「福音」として
経験したことを、語ろうとしたのである。
彼は、話の中で、ヨハネ12:24の話を中心に書きました。
ヨ12:24 まことにまことに、あなたがたに告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。
これは、キリストの十字架の死と聖霊の授与のことでありますが、
ペトロ・ネメシェギさんは、主・イエスの御言葉の実践と一致について
語っています。
キリストの真の弟子である人は、どの時代であっても、病気、苦しみ
、死など一種の悪であり、それをこの世からできるだけ排除するように
人間は神の協力者として、極力努力しなければならない。
ということをよく理解していた。
飢餓に苦しむ人に食物を提供し、病人が癒されるように看護する。
これらは、どの時代のキリスト者もが心がけてきたことである。
またこうもいます。
医師と死との葛藤において勝利するのは、いつも死である。
しかし、病気や死をこの世から追放する努力の究極的な意味とは、
これらを通して苦しんでいる人の心の中に成熟してゆく、愛である
といえるのではないだろうか。
また、一致にたいしては、ジェーン・アースキン・スチュアートという
修道女の最後の時の言葉を紹介してくれています。
「イエス、イエスよ、なんと美しいこと、なんとすばらしいこと・・。
イエスは愛してくれています。私を慕ってくれます。」
ピリピ1:20 それは、私がどういう場合にも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、
死ぬにしても私の身によって、キリストのすばらしさ
あらわされることを求める私のせつなる願いと望み
に叶っているのです。
主・イエス様の十字架を信じる人には病も死も無駄ではなく、愛は、永遠
の命へと人を導き真の一致をもたらします。
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