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今年も早いもので、12月になりました。
私の庭では、まだ柿の木に柿がなり、近所には、イチョウの木が金色に朝の日差しをうけて光っています。
しかし、駅前やデパートの行くと、例年と同じ風情を感じます。
町の教会やデパート、駅などでは、クリスマス用のイルネミネーションが、輝いており、例年通りの冬休み前の12月です。
さて、私にとっても私たち教会で全世界の創造主である主・イエス様を信じる人にとっても12月は特別な日です。
教会では、主の御降誕を祝っています。
私達の世界の救い主は、貧しい身分で生まれました。
世界の王でありましたが、宿には彼らが泊まれる場所すらありませんでした。
馬小屋の中で主・イエス様は、救世主=キリストとして生まれたわけはみかむりさえも捨ててまで私達原罪の罪を持つ
私達の罪を赦すためでした。
主・イエスはすべての人を愛し救うためにお産まれになったのです。
今日は私は、神は言葉であると言うことについて主・イエス様にいのり話をします。
まず私はベルリン大学の講師でありながら、ドイツのルター派の牧師であり神学者の説教の一部を紹介します。
彼はこういいます。
「どんなに立派な生き方をしても」、私達は神の望む所に立ち入れないし、また結局は神の望む所を願いません。
むしろ私たちの願うのは自分達の欲するところであり、私たちは神の栄誉よりは自分の救いを愛し、したがって神
より自分を愛しているといいます。
このような生き方は私たちパリサイ的な生き方が原因ですが、しかしルカ17:10にあるように私たちがふつつかな僕で
あるという自覚は考える限りの卑下の程度を上回るのです。
どんなに立派な生き方をしても私たちの行為は無益であります。
でも完全な罪認識そして、ルカ17:10にあるようなふつつかな僕であるという言葉の中には大いなる約束がある
この卑下は人間の業としてそのために何かの要求を神に突きつけることがありえないばかりか、ここに登場するのは
神ご自身であり神が助けてくださるからです。
とボンヘッファーは説きます。
では、ふつつかな僕ができることとは何かということを宮沢 賢治さんのマリブロンと少女という物語の一部を抜粋して
紹介します。マリブロン先生、どうか私の尊敬をお受けくださいませ、私は明日アフリカへいく
牧師の娘です。
何行か文章はとんでこんどはこういいます。
先生どうか私の心からうやまいを受け取ってください。
またこうもいいます。
「私はもう死んでもいいのです。」
先生「どうしてそんなことをおっしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。」
少女「いいえ。私の命なんかなんでもないのでございます。 あなたがも、もし、立派におなりになる為なら、私なんか
100ぺんでも死にます。」・・・。
私たちはこのような愛を一言一言の神の愛の御言葉を受け入れらないふつつかな僕です。
しかしそんな私たちのことを赦すために主・イエス様は御降誕なされました。
私たちすべての人の下に仕えそして完全に私たちの苦しみを担った姿こそが、主・イエス様の十字架です。
主・イエスの十字架には、核兵器や人の戦争を止める力はないときもあります。
人の欲望がこの世では横行します。
ボンヘッファーは、ナチスの手により、収容所で死にましたが主・イエスの復活と十字架を強く信じていました。
この主・イエスの十字架は核兵器やどんな大きな破壊力を持つ兵器でも破壊はされません。
イザヤ53、11 彼は、自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。私の僕は多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った・・・。
もうじきクリスマスがきます。
主・イエス様は私たちに信じるものに永遠の命をあたえてくださいます。
主・イエスの十字架はすべての罪を恵みに変えてくださいます。 アーメン。
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