私は、今までに神の存在を、痛切に感じたことが何度かある、それは、友だちの死の前だ。
私も、牧師も兄弟たちも、その兄弟の為に必死に祈り励ましました。
なぜならば聖書では、ラザロという人物がいて、その男を主・イエス様が復活させてくださったからだ。
しかし自分も主に祈り何度も彼の腹に手をのせ祈ったが、彼は残念ですが、天に召されていきました。
とても残念でしたが、最後死ぬ前の彼の目には、神への信頼と平安に満ちあふれている彼を見て、自分は、私達の信じている神の偉大さ、そして、深い愛を彼の心遣いや、彼の隠れた信仰が、私に神の愛=主・イエス様を神の存在を感じた。
私が神の存在を強烈に意識したのは、私の罪の赦しを知った時です。
私はある小説で、神いますという小説を読んだことがありますが、私はこの本を読むと、神の恵みに感謝します。
私は誰よりも、罪ぶかいものですから、ある夕方の温泉の中で主人公は顔なじみの鳥屋にあいます。
鳥屋の妻は、どうやら体が病弱のようで、鳥屋の夫が彼女と一緒に風呂に入りいつも妻の体を洗ってあげているようだ。
主人公は今いる温泉から南へ山を越える途中でした。
56年ぶりに、山南へ・・・。
鳥屋の主人は、主人公にこう聞きました「お客様、山南へおいでになるのは初めてですか。」
「いいえ、56年前にいったことがあります。」
峠の茶やに中風のおじいさんがいましたね、今でもいますかしら」
主人公は、悪いことを言ったと思ったなぜならば、夫の妻は、病気だったから、そんな心優しく、誠意のある彼にとって、残酷な出会いが待っていた。
主人公は、会話の途中ふと、彼の妻をみると、なんとその女は、56年前に、山南で、唯一彼が傷つけた少女だったのである。
主人公は56年の間、このことでずっと苦しみつづけてきたそれにしても、湯の中で会わせるのは余りに残酷な偶然ではないか、彼は息苦しくなり、手ぬぐいを顔から隠す。
彼女が病気になったのも、彼の罪のせいかもしれなかった。
しかし、鳥屋の夫婦が、不自由なかれと病気で歩けない彼らが逆にいたわりあい、励まし合う姿をみて、主人公は、神いますと、柔らかい涙を湯の上にぽたぽたと落とした。
私は、この物語を、みると、今まで自分が、罪を犯しどうしようもないことをしてしまった時にも、神の恵みと励ましと、御臨在を強く感じます。
聖書には、恵みと誠という御言葉が多々でできますが、私達のような罪人のために十字架にかかり、しかも、犯した罪を恵みでつつんでくださるかみの恵みをこの小説を読みかんじます。
また私が、傷つけてしまった人達に対しても、主・イエス様の恵みが、彼らを癒してくださっていると、元気づけられるのです。
私は、わたしをそして兄弟を守ってくださる良い牧師を知っています。
ヨハネ10章14:私は良い牧者です。私は私のものを知っています。
また私のものは、私を知っていますそして最後に私は羊のために命をすてます。
命をと・・・。
良い牧者とは、主・イエス様のことです。
信じるもののためにいまでも、主は、血の汗のような、真剣な祈りを私達のためにしてくださっています。
神は誰よりも憐れみ深く、そして怒るのに遅いかたですが、
それは、救われる人が一人でも増える為だそうです。
だから、私も一人でも多くのひとが主の十字架を信じる事をいのっていますよ。
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