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人はみな

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最近、ニュースで、靖国神社の参拝もんだいが、よく聞かれる。
中国や朝鮮の方は、とても憤っているようだ。
確かに、第二次世界大戦の頃とかには、日本は、朝鮮や中国で人を殺しそのもの達を英霊とたたえ参拝するのを、彼らが怒るのももっともだと思う。
けれども、日本の人達からすれば、彼らは、どんな理由があろうと私達の日本の祖先であり、自分の祖父や舅がたとえ、戦争で、ひどいことをして、死んだとしても、私達にとっては、私達をうんでそして、日本の国のために命をかけ神風特攻隊として、たたかってくれた勇姿たちであるのには、かわらないけど、
それなのに、私達が彼らの供養をしないのは、変な気がする。
でも、私はクリスチャンなので、参拝はしないけれど、彼らを悪くは、いいたくはないです。
聖書では、よく異邦人のことを題材に、する物語が頻繁にでてきます。
聖書では、アブラハムを信仰の父と呼びます。
そして、彼は、自分が90ぐらいでやっと神によってあたえられた子をある時神の導きで、ささげるように、
主に命じられます。彼ら族長にとって、跡取がいないのは何よりも辛いことです。
たとえ多くの財産があっても子孫がいなければ・・・。
しかし、神は残酷にもささげるようにいいます。
かれは、絶望にさいなやまされたのだとおもいますが、ついに息子のイサクをささげることにしました。
が、神は、本当に殺そうとした時に神は「あなたが、神を恐れるかためした」とおっしゃりました。
これは、自分の命よりも大事なものよりも神を愛するか?という神の教えでしたが、神風特攻隊で天皇の為に死んだ方々の全員が悪党だったわけではないと私はおもうのです。
彼らにも、家族がいて、子供がいたでも子をだくこともなく死に、利用されていただけなのであり、かれらは、自分の命を奉げていきてきたのですから。
 
 わたしは、悪を行い利用したもの達を、靖国神社に入れなければいいのでは?ともおもったりなんかしてます。

 でもかれらの子どもたちにとってみれば、大事な家族ですから私は、靖国神社の問題をみていて、
よくケンカ両成敗ともいうけれども、中国人も、朝鮮人も、元は、同じ血のかよった人間ですし、

 何よりも私達の祖先も彼らの祖先も死んだのですから、私は、神の言う赦しが大事なのかなと感じました。

 私達の祖先も彼らの先祖も子孫の平和と繁栄のためにしんでいったのたがら
私は、英霊達をかみのようにするのは、いけないとおもうけれども供養をしてあげるまた、いのってはあげたいかれらのおかげでこの世のへいわもあるのだから

 世界の歴史をみると、争いはがりで、今の世は、確かに、キリストが言う闇の世だと痛感しました。しかしわたしは、主・イエス様に感謝しています。

 なぜならば、主・イエスの十字架は、主の血潮は、私達をうらぎらない、私達の罪を清め必ず私達を天国へ入れてくださるというのだから、私達は、ただ神の前に正しいのでもなく、すぐに怒るし、生き物もたべるし、自分かってな罪びとですが、悔い改めることを続けるならば、たしかに天国へいれてくださると
私達には、希望があります全人類の希望の光天国への扉は、主の十字架をあおぐときにひかりかがやきます
ヨハネ:1、5光は闇の中に輝いている闇は、これに打ち勝たなかった・・・光は闇のなかにかがやいて・・・。

本当の自由とは

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私は、家族を思う時に、一番大事なのは、思いやりだとおもっています。
家族・・・。しかし、人間に罪の性質がある限り、それは、蜃気楼のように幻のように、思えます。
しかし、自分は、家族に、人に愛を求め、そして一人尋ねもとめている旅人かもしれません。
でも、やっぱりわたしは、人しか愛せない!
さて、私は、川端康成の 山の音という本を読み、正直この作品の文の構成や、川端さんの人をみる描写力には、脱帽しました。
 
 この作品は、信吾(舅)と息子修一の嫁、菊子 との人間関係を主体に書いたものがたりです。息子の修一と菊子は、美男、美女、で、 嫁の菊子は、とても節度のある女性なのですが、修一は、戦争にいって、すさんでしまったのでしょうか?彼は、絹子という女性と不倫関係にあったようです。
 
 菊子も確かにいい女なのかもしれないけど、修一が本当に心を赦しきった女性は、皮肉にも絹子でした。
なぜなら、絹子の前では、修一は、わがままになり、歌などうたわせたり、していたようですが、菊子には、そんな失礼なことは、しなかったから・・・。
 
 修一は、皮肉にも本当に心を赦せる人と、結婚してから出会ってしまったようです。
 
 そして、かわいそうな嫁菊子をはげまし気遣う舅の信吾との人間かんけいがかかれている。

 菊子を憐れに思う信吾は、修一と菊子の仲を取り持ちたいと思っていた。
 そこで修一の不倫の相手はわからかったが、ある時、信吾の部屋付きの女事務員が、情報をしっているとしり、彼女とダンスにいったりし、叙叙に、修一のことについてきくと、何と事務員(英子)は、修一は絹子と関係があり、またそこの家もしっていた。
 
 そして、たびたび、菊子さんのことをおもい、彼女は、信吾にいろいろ秘密をはなすようになった。
 英子は、会社を辞めてまでして、信吾にこのことをおしえる。
 この物語は、不倫相手の絹子とも無事、修一は、わかれ、家族が内面的にまとまっておわるのだが、その前に、菊子は、修一の不倫に対し、唯一修一に抗議の意味で、子供をおろす。
その時に、どんなことがあってもなかなかった菊子は、信吾がもらったお面をかぶった時にないた。
その涙は二重、三重にながれおちた。
 
 かの女は、実家へかえって、しばらくしてまた信吾がいる修一の家にもどってきたようですが、この菊子がもっとも愛したものは、愛でなく、生活だったようです。
  かの女は、信吾を父として、甘えること愛する事で、心の春をまちのぞんでいた。
 
 しかし、そんな菊子を裏切るように、菊子の子を下ろす為のお金は、修一の愛人がだし、しかも絹子には、
修一の子かもしれない子がやどった。
真の幸せは、菊子にはなかったようなきがします。
 
 最後、信吾に別居を勧められた時に、彼女は、嫌がります。修一を恐れて・・・。
だから信吾が息子とわかれるきがあるかと聴くと皮肉にも菊子は、修一とわかれたくないではなく、信吾
にお世話をしたいと・・・。
だんだん、信吾に対してまた信吾も、二人には、愛に近い感情が生まれてしまった。
 昔信吾は、今の妻の保子の姉を愛し、妹の保子と結婚した。
保子の子に姉の面影を期待したが、男の修一が美男だった。
 
 そして、いつしか、彼は、自分の見果てぬ愛を菊子にみるようになりそして、自分を隠すように芸者の中に偽の安らぎを感じるようになる。
 また菊子は菊子で、本当の自由よりも、偽の幸せをもとめる、二人の境遇は、似ていた。

 信吾は、菊子への思いを内に無意識に秘めてしまっていた。信吾はさいご菊子を、田舎に招待する家族と一緒に、
 人は愛する人と自分のふるさとをみて共有したい気持ちをもつものですがしかし信吾は、見果てぬ夢を隠すようにせめて家族でいこうと・・・。
 罪がなければ、私達は、きっと相思相愛の相手とだけめぐりあえ、相手を不幸にするような人間関係はなかっただろうとおもう。
 
 この作者は彼のしんじているのは日本古来の悲しみであるとそして戦後の世相や風俗なるものをしんじないとありますが、彼が信じていたものは、神性であったのだとおもう。
  確かに、見た目は、ただ、自分を主張できない子供の大人達の悲惨な物語ともいえるけど、川端さんの書きたかったことは、山の音これは信吾が深夜に得たいの知れない音を聞いたそしてその音を聞き、信吾は、死期を告知されたような恐怖を感じるというシーンにあると思う。
 
 なぜならば、この物語には、信吾の同僚の死が、たまにでてくる。
 生と死と人生の運命のいたずらによる矛盾からくる悲しいおもいやりの中に、彼がしんじている悲しみとは何かというと、
 罪ゆえに見えない主・イエス様の愛をかれはほっしていたのではとおもいます。
 本当は、愛されたいし、輝きたいけれどもうまく行かない現実に彼が日本古来の悲しみを信じているところに、罪ゆえにさまよい苦しむ川端氏の深い隠れたそしてゆるがない人への愛とおもいやりをかんじました。
 
 聖書では、悲しむものは幸いであるその人は、慰められるという御言葉がありますが、きっと、悲しみの中には、人のやさしさと暖かさがあるのかもしれません。私は神から、愛とは、悲しみから逃げずにそのまま受け入れつづける時に、そして、心貧しく神への感謝の気持ちをもつ時にめばえはじめるとさとされています。
光と陰があるように、悲しみがおおければしかし、喜びもまし、そしてだから人は、無心に祈るようになるような気がします。愛ゆえに失うことを恐れる自分が大きくなる。
虚無も多くなる生と死のはざまのこの世では・・・。
自分の今いる世が、天国ではないと神からさずかった心はしっているからかも
しれません。
 この本を読み、主・イエス様が我が為に十字架にかかってくださり、罪をあがなってくださった事が私を悪の道から救い、悲しみの中から神が教えてくださる恵みを、知れました。
 
 悲しみも喜びと癒しと平安にかえられたそして信じるならば、誰でも救われるのだとしりました。
確かに、主・イエスを信じるものは、すくわれます誰でもどんなに罪は重くともかならず・・・。 

聖エウスタキウス

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物語: ―― 初めは、プラキドゥスというローマの軍人だった。狩りにでかけたある日、獲物の白鹿の角の間に、十字架が光まばゆく輝き、その中にキリストの姿が浮かぶのをみた。
すぐさま彼は、キリスト教に改宗し、名前もエウスタキウスと改めた。
さらに、伝説は続く。
共に改宗した妻子とエジプトに向かう途中、離れ離れになってしまう。奇跡的に再開したのは15年後の事だった。
最後は迫害にあって青銅の牛の中で焼き殺されるという波瀾の生涯であった。
狩人の守護聖人

デューラー[聖エウスタキウス](バウムガルトナーの祭壇画)|1498|Alte Pinakothek Munchen

本当の家とは・・・

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私は、今の日本人は、すごいなと、思う。
日本人は、昔から働きすぎだと言われている。
 
 私が前に住んでいたところでは、毎朝、情報処理関係の仕事をしているクリスチャンの知り合いと、私がちょうど仕事で出かける時間に会っていたのですが、私が一番びっくりしたのは、彼は、私と朝あっていた時に、家に帰る時間であったと言う事に驚きを覚えた。

  さて私は、ある本で日本の若い世代の夢を奪う住宅問題という題名の本を読んで、家について考えさせられた。

 この主人公の息子は、引越しを仕事の関係でしなければならなくなったそうですが、この頃多分、バブルの時代だったのでしょう。

 家を購入するには、最低一億円の金がいた。

 息子は、深夜2時〜3時まではたらく事もあるので、タクシーで帰ることが多く、郊外の安い一軒屋を買おうにも、郊外には・・・とても無理な話でした。
 かといって、月50万に満たないかれの収入では家を購入できなかった。

 しかしこの作者は、昔は、夢があった庭付きの一軒屋も一生の内に購入できる時代だったという。
でも私はこう思います。

 本来、家を持てるのは、あたりまえでなければ、ならないはず、なぜなら私達は、税金をおさめ、国民年金をはらい、法律では、勤労の義務があると言うのならば、国は、最低一家に必要な家を与えられるだけのその一家に必要なお金は、国がだすなりする必要もあるはずですが、この世では多分罪があるから、そうはいかないのではないでしょうか?
 
 家を購入することは人々の夢であっただから、働く事にも身が入ったといいますが、今の世では、ふけい気で、ニートさんが増えてきたのも、不景気をいいことに会社だけもうけ、社員は、低収入、ボーナスカット家など、300万の収入時代で、人の生活を企業は、見ない。
 
 だから今の世では家など考えられず皆、目的を失ってしまっているような、気がします。

 毎日、休みなく働き、家ももてない、家を持てても死ぬ時には手放すことになる。
 
 これは、やはり罪の結果なのかな?と私は思う。
 
聖書には、伝道者の書という書物がありこの伝道者は、知恵、英知、金から何からかなにまで、神の恵みによって手にいれた方ですが、この人は、こういいます。
 
 笑いか、ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になるだろう。どんなに一生懸命労苦しても何の労苦もしなかったものにすべてを譲らなけけばならないと・・・。

 今のよでは、家を持つこと夢を持つという事や生活での成功ばかりで他人を大事にしなかったり、する。
 蹴落とされる人、勝つ人、負ける人様々ですが、伝道者が言うように、空の空すべては空今の世は、空の世だと思います。ここは、一時の夢の世です。この現代の世は・・・。
 
 人は、家を持っていても、この家が、人を救うことはできませんが、私達の救い主は、こういいました。「私は、この神殿を3日で立て直すと」このとき主・イエス様は、御自身の体のこといいます。
 
 後に、殺されて十字架にかれられた後、復活するという意味あいでこのような事をおっしゃったのだと思いますが、確かに、信じるものには、主の十字架による赦しと復活があります。
この世を主・イエス様は、こういいます。暗闇にすわっていた民といいます。
この世は、霊的には、闇であると・・・。

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聖書を読んでいると、御言葉の中に、マタイ5:39で、あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。
という御言葉がありますが、私は、神は、とてもすごいかただと思います。
この箇所で主・イエス様が、言いたい事の真意を、わたしは広い心を持ちなさい。
赦しなさいと神が悪人のために雨を恵みの雨を降らすように、「自分の敵を愛し、迫害するものの為に祈りなさいと」ありますが、この御言葉は、相手を赦せという意味だけとしか自分は捕らえてませんて゛した。
さて私は昔インドで、主・イエス様の教えを暴力を受けながら、非暴力で貫きとおした偉大な革命家をしっています。
彼は、マハトラ・ガンジーといいます。
彼は、南アフリカで弁護士として、列車で向かう途中にインド人だという事で、彼は一等席を買っていたのに、そこを動くのを拒否すると、次の駅でほおりだされてしまいます。
当時、イギリスは、の戦後自治の約束を信じて、大戦中に派兵献金などをして協力していたが、1919年のインド統治法は、わずかにインドの自治を認めたにすぎず、それどころかローラッド法(イギリスの総督がインド人を令状なしに、逮捕でき、裁判なしに投獄できる)によって、インド人の反英運動を阻止しようとしていた時期だった。
 ガンジーは、3億5千万の民のために立ち上がりたとえどんな暴力を受けても、ガンジーは、敢然と非暴力で立ち向かいます。
 インド人は、一時期何十万と暴力をふるわれ、捕らえられたそうですが、彼らは、負けなかった。
そしてガンジーも、牢へ入れられた。
 彼は、祖国を愛し、祖国での民族紛争の時にも断食して、平和を訴えるそのかいがあり、彼らは平和の道をえらぶのだけれども、ガンジーの生き方を見てきて、私は主・イエスは、、あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。という御言葉は、勇気を持ちなさい。ということなんだという事を教わりました。
偉大な魂の指導者マハトラ・ガンジー弁護士の身であれば、一生妻と幸せだったのにもかかわらず、彼は信仰による幸せを第一とした。
 彼が銃殺されて、死ぬその時まで神と人々のために生き、そして国を相手に真理を示したかたは、この地上でそう何人もいないだろうと思いました。
日本では、道路公団の談合事件やら、車のリコールのもんだいの話を聞いても分かるように倫理よりもお金が中心の世ですが、私は、ガンジーの捨て身の人生を通してキリストの光を見た気がします。
そしてキリストは、私達の罪のために死んでくださったことに対し自分は、感謝を覚えています。
誰にでも、善と悪の心があるけど、主・イエスを信じるものの心を神は正しい心を備えてくださいます。
私達の罪がどんなに重くとも関係ありません。
これは契約ですから、神はその人の罪を、一切忘れて下さる恵みを誰にでも与えてくださいます。
主・イエスの十字架を信じるならば、誰にでも・・・。

 


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