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今日は、暖かくて、コートがいらなかった。
でも最近、暑い日と寒い日が交互にやってくるので、油断はできない。
寒かろうと暑かろうと、私の家の庭の赤い梅と白い梅の花は、嬉しそうに
咲いており、メジロはその蜜を吸うために、やってくる。
人にもなれたようで、私が窓越しにじっとメジロを見ていても、涼しい顔を
している。
さて、今日は、主・イエス様にお祈りをして、今私たちが、置かれている、
時代に於いて、全世界に於ける、キリスト教について、お話させて、頂きます。

現代の世の中は利益追求の世の中で、国はますます利益を追求し、情報、科学技術
、企業は、つねに新しい事に興味を示し、めまぐるしく文明が繁栄した。
しかし人々は、キリスト教や個人の倫理、会社の倫理感や国家の道徳に対する退廃
について、微妙だに考えてはいないように思える。
しかしローマを見てもわかるように、共和制から皇帝の専制君主化、また、地方の将軍
が勢力をまし国の力の分散化などにより、政治に関して、国民は骨抜きにされ、自
分で考えるアイデンティティーがなくなり、政治と倫理が退廃してしまった。
そうなると国は、必ず、聖書のゼカリアの箇所にあるように、国が一つではなく分裂が
生じる。(ゼカリア12章14には、結合の杖が折られたと書かれており、それは、
国の一致がおられ、分裂したともとらえられる。)
私たちは、過去から一体何が一番大事なことなのかと言う事を学ばなければならない。
現代は、「大きいこと」が好まれる時代で、昔、アメリカでの伝道といえば、テントでの
リバイバル(多くの人が主・イエス様を信じる事大覚醒)集会があったのだそうだが、とても
侘しいというか、小規模な集会であったのが、今日では、教会はメガ・チャーチを(大きな
教会)である事を望み、集会は小さなものから今やスタジアムでのクルセード(キリスト教
的社会革命運動)が主流になっている、日本の皆様はあまり知らない事だと思うが、周知の
通り、アメリカはキリスト教国ですから、上述したような大集会、そして、TV伝道(今は
地上の放送網を超え、全世界に発信できる衛星放送)へと広がりキリストを信じるのが当たり前
なのに対して、日本ではキリスト教書店などを探すのも難しいと思う。
全世界を創造された神様の事、キリスト教の事をしるための出版社といえば、都会では、OCC
(御茶ノ水クリスチャンセンター)や四谷駅から降りてすぐのたしかサンパウロというカトリック
系の書店があるのと、新宿の駅から近くに、よく見て探すとオアシスという書店がある。
日本では、一般的にキリスト教の出版する書店はほぼないに等しいが、アメリカの方のキリスト教
の出版社は、本の売れ行きがあるのだろうが、ウォルマートやコストコ、ターゲット、バーン
ズ&ノーブル等々の大型の小売業者に出版物をあたりまえのように、置かれているのが、現状だ。
コストコなどは、日本にも大型の小売業者としても、有名です。
私が伝えたい事は、日本では、キリスト教は、あまり知られておらず、生活の中に浸透していない
そして、キリスト教というと、何か西洋の宗教で、荘厳で崇高であり高尚な人達が集まる宗教という
ひとくくりでまとめられているのですが、全世界で多くの人が、キリストを信じる国では、生活の中
に全世界の造り主の神がおられると信じる事が、当たり前で、人間には罪があり、私たちの罪を取り
除く為に主・イエス様が十字架にかかられて、主・イエス様は3日後に復活して、使徒たちの目の前
に現れ、天国があるのだということを証明した、本当の話であると誰もが、信じており、神である
主・イエス様を信じるならば救われるという事が、世界ではもう常識になっている。
中国国内には2010年の時点で約6700万人のキリスト教信者がいたという。これは、中国全人口
の5%にあたる。
アメリカでは人口の79%がキリスト教徒であり、同国内の教徒数は約2億4700万人(世界のキ
リスト教徒全体の11%)だ(ブラジルは1億7500万人、メキシコは1億人)
また上述したように2010年ころは6700万位が、神を信じたというが、現代では、1億位の人
が信じたといわれてもいる。
なぜ、迫害がある、中国でこれほどまでにキリスト教が発展したのかというと
「宗教拡大の背景には、中国の多くの人々が政府に指示によってでなく、自分の意思で内面に向
き合いたいと考えていることがある。」
「人々が豊かになるにつれて、安心して暮らしたいという権利に目覚めて、個人として自由に物事
を判断したいという、市民社会の基盤となる“個の発見”が始まったのではないか」
「中国では貧富の格差などを背景にキリスト教信者が急増し、すでに共産党員の数を超える1億人
以上に達しているとみられる。」
これらの事が起因していると考えられる。
なぜ、これほどまでに神である主・イエスキリストが世界で受け入れられているのかというならば、
主・イエスの徹底とした愛による姿勢によって生きており、その生き方を反映した人物が多々現れた
からだ。
2世紀の有名なクリスチャンであり、学者であるオリゲネスは、彼の父がパラボラニという疫病に苦しむ
人々をその人々に迫害を受けていたにも関わらす゛、進んで介護したクリスチャンの団体に属しており、
愛の実践により、アレクサンドリアにおいて、信徒15万人に増えた。
また、6世紀には、ベネディクト修道会が、600年ものあいだ、自分たちの世俗の職業や、専門を修道院
に持ち込み、報酬なしで人々に与えた。
キリストの十字架により、私たちは、敵意を廃棄する事ができる。しかし、敵意を廃棄したいのならば、
人類最初の祖先である、アダムとエバが、サタンにそそのかされ、罪を犯したという事実を認め、この世
の矛盾を歴史や現代の世から学び、自分だけが富を得る古い生き方から、主・イエス様の為、世の為、人
の為そして、自分自身の為にいきるように生き方を変えなればならない。
なぜならば、悪い国は、必ず滅びるからだ。
今日は、主・イエス様にお祈りをして、現代の世界のキリスト教について、主・イエス様の十字架と復活を
信じる人は、救われるという話をしました。

















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今年も早いものでもう、2カ月位になった。
私の近所の公園では、紅葉が散り初め多摩センターでは、もうクリスマスツリー
が、建てられていた。
集団自衛権、安保関連法案、秘密保護法案やTPPなど、最近私たち国民にとって、この
政策はどうなんだろうと考えさせられる事が多い。
戦後70周年で、皮肉にも憲法の9条が破られてしまった事は残念でした。
次の選挙の時に憲法を正しく解釈し、立憲民主主義に相応しい。
総理が選ばれる事、平和であるように祈ります。
さて、今日は主・イエス様にお祈りをして、サレジオ会を創設したドン・
ボスコと、ミヒャエル・エンデさんがかいた、モモという物語から、罪と永遠
の命について、書こうと思います。
1815年イタリアのピエモンテの農家の子として、ヨハネ・ボスコは、この世
に生をうける。
彼がたった2歳の頃、父が他界したせいもあり、ヨハネ・ボスコ(ドン・ボ
スコ)は、幼少期に極貧の中で過ごす経験をした。
しかし、貧しいながら勤勉であったであろう、ドン・ボスコは、16歳でト
リノの神学校に入学しているが貧しかったので、皆から、服や靴を分け与え
られたのだという。
きっとこの時に、ドン・ボスコを通して私たちは、聖書の箇所で、思い悩むな、
食べ物の事や衣服よりもあなたがたの方が神にとって大事である。
また栄華を極めたソロモンでさえ、野のゆり程着飾ってはいなかったのだ、そし
てこの野のユリが働きもせず、紡ぎもしないという御言葉と、1アサリオンで売
られている2羽の雀の1羽でさえも、あなた方の父がお許しならならければ地に
落ちる事はないと言っている聖書の箇所が思い浮かぶのではないでしょうか。
ドンボスコは確かに、野のユリのごとく、自分で作った服ではなく、学費も自分
の力でもなくただただ、神の恵みによってすべてがあたえられました。
なぜ、彼が神を信頼できたのかというならば、神学校へはいる5年前に神から
の啓示を受けて、貧しい者達を助け、教育する事こそが自分の職務であると確信
し、生涯その自分の与えられた使命に忠実でありつづけたと言います。
1859年にドンボスコは22人の仲間と共にサレジオ会を作る。
この修道会は、聖フランシス・デ・サレスの名を取ったと言われており、1888年ころには、南北
アメリカに26、ヨーロッパに38となり、会員数も768人にまで増え、現在世界中に広まっていった。
上述した事から、ドン・ボスコは、少年を守護する聖者と言われている。
また、彼は、手持ちの食べ物を何倍に増やしたり、神の奇跡を起こした人としても有名でした。
さて、今度は、モモという物語の2つばかり抜粋して話を進めて行きます。
この小説は、聖書的な観点からいっても中々良い物語で私自身もはっとさせられる事考えさせられる事
が多々ある童話本です。
その中で、おおぜいの為の物語とひとりだけの物語という章があります。
簡単にいうと女帝が戦争に勝ち、敗北した王に金魚を献上するように要請するのですが、
王は、この女王の欲深い所に目をつけ、偽りの金魚を贈呈します。
その魚の名はクジラでした。
そして、王は、そのクジラは、大きくなると金魚のような金になると教え女王をだます物語で、
察しの良い方は、もうおわかりだと思いますが、女王は、クジラが大きくなればなるほど、欲深くなり
クジラの為の費用がかさみ、またそのお金になるクジラの事だけを考えるようになってしまい、最後
敗北した王に負け、最後女王はクジラの水槽に身を投げて、死んだという話です。
簡単に人を信じていいのか?また、罪とは何たる事なのかをよく表しています。
人は、自分の欲望やこの世を愛しすぎる時に自分という存在を知ってしまう。
与えるのではなく、大きな貪りは、聖書のモーセの10戒でも罪として定められています。
それが例えば、教会を大きくしたり、利益になる事に関してや一般の道徳や法律に触れない事柄
でさえも聖書では、貪ってはならないと言います。
その理由は、この世に未練が残り、神の命令よりも、自分の大切なものが生まれてしまうからです。
この事について、ひとりだけのための物語で、ミヒャエル・エンデさんは、このような物語
をつくり、私たちに永遠の命に至る方法を示唆しているように感じます。
今度の物語は、この2つの物語を私が紹介しましたが、この童話の物語をかたった観光ガイドのジジ
とモモの事をファンタジックに話した物語で、モモがガラスの色とりどりの城に住む姫さまで、永遠の命
をもっており、それというのも魔法の鏡によってすべての影を自分の物にできるのだと言います。
ただ、なぜか自分の姿をその魔法の鏡で見ると、永遠の命を失うという事です。
そして、姫は永遠の命を失ってもいいから、どこにいるかわからない、王に会う為に自分が、
永遠の命を失ってしまうと言われていた、魔法の鏡に自分を映して影を作り、鏡と自分の影を
下界に送ります。
さて、王子はジジの事で、明日の国の王子でしたが、王子は悪い妖精に騙され、悪い妖精と暮らして
いました。
そして、王子には、1年の間空に漂う銀の鏡を見ないようにいいます。
そうすると自分が何者であるか忘れ今日の国に行き、貧しく哀れな生活をするようになると
言います。
しかし、あるとき王子は、雨の変わりに流した姫の涙により、天を見上げ、鏡を見てしまいます。
すると、悪い妖精が、醜い者で、モモ姫こそ本当に愛する人だと気づくという物語です。
その後、モモ姫とジジは、今日の国で互いに貧しかったのですが、出会い最後また、明日の
国へ行くという物語です。
ここで、ミヒャエル・エンデさんが私の憶測ですが、言いたかった事は、きっと姫のように、
自分の我欲や愛肉欲に捕らわれると、自分を知ってしまうのだと言いたいのだと思います。
昔、創世記の頃、アダムとエバは、楽園で暮らしていたが、サタンのにそそのかそれ、神が
食べてはならないという、善悪の知識の木を食べてから、自分が神と同じように、恥ずかしい
とか愛するとか感情が芽生えた事から、罪が始まったのですが、きっと知るという事は本来の
聖書の神の書いている律法や掟により、私たちは知っていて、罪や自己を知らないものへと変え
られるのではないかと思います。
誤った罪や欲望は、私たちを神から遠ざけ、この世へ愛が、この世を今日の国、今の世がその人に
とってのすべてとなってしまう。
この事は、今の社会生きてる人の中に会社や家族など、自分の事柄以外に対してだけの執着が強くなる
が故に、社会の為に貢献したり、他人の為に与えるという事や聖書の主・イエス様を信じたり、善を
行うといった、ミヒャエル・エンデさんが紹介したであろう、明日の国=天国を見いだせなくなって
しまっている事に私は多々気づかされます。
その原因は、日々家族や自分の生活の事以外や義や平和に対して、無関心でいる事そして、日々与えられて
いる感謝の気持ちを忘れてしまう原因は、自分の為にだけ貪る罪こそが、今日のこの現実だけを自分の現実
として、捕らえる罪の始まりだからです。
人間には、肉体と霊があり、神は霊であります。
だから私たちは、天国があるといえるのです。
明日の国を天国と仮定するならば、この世の中を貪るようなこの世の欲望や執着を捨て、神に帰依する時
私達の心の中に神の国が実現するのではないでしょうか。
大切な事は、今日の世も現実だけども、明日の国を見る視点も大切な事なのです。
今日は、主・イエス様に祈り、与えられている事、与えるという事の大切さと、貪りについて
お話しをしました。
主・イエス様の十字架は、偽の今日の国の現実に気づかせ、永遠無限不変の明日の国、将来私達が住む
であろう天国へと私達をいざないます。








墨の親石なれど

最近、地震や火山活動が活発かしている。
 この間、日本全体を震わす大きな地震があった。
幸いな事に、震源地と深さの関係もあり、東北の震災のような大きな被害はなかった。
まるで、神が私達の罪に対して、警告を与えているかのようだ。
今日ふと、新聞を見ると、尼さんの、瀬戸内寂聴(93)さんが、戦争の
体験から反戦運動に参加していた。
1991年の湾岸戦争では、停戦を願い断食、2001年の米同時多発テロでも断食をし、イ
ラク戦争の時には、戦争反対の新聞広告を出したという。
昨年の5月に背骨の圧迫骨折で入院して、さらに、9月に胆嚢ガンの手術をしたばかり
で、法話を再開したのは、2カ月前だという。
 今回、2015年6月18日の国会前で彼女が語った事を簡単に紹介します。
 「最近の状況は、戦争にだんだん近づいている」、1922年生まれの私は、いかに戦争がひどくて、大変か身に染みて感じた。
戦争にいい戦争はない。すべて人殺しです。
最近の状況は、寝ていられない程、心を痛めていた。どうせ死ぬならば、本当に怖い
事が起きているぞと申し出てにたいという。
世界の為、日本の為に常に、行動をしてきた。寂聴さんの話に感動しました。
また、日清戦争の時代、勝海舟は、氷川清話でこのように語っています。
日清戦争は俺は、反対だったよ。なぜかって、兄弟げんかだもの、犬も食わないじゃないか。
 たとえ日本が勝ってもどうなる。
 中国は、やはりスフィンクスとして、外国の奴らにわからぬに限る。
中国(支那)の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ敵が押しかけてくる。
 日本は支那と組んで、商業なり、工業なり、鉄道なりやるに限るよ。と言っています。
中国、朝鮮は、日本にとっては、兄弟のようなもので、互いに協力し合う事が大事なのだ
といっているのです。
彼自身、剣持てども、剣が抜けぬようにしていたそうで、平和主義者でした。
世界は、今や、第3次産業の発展により、グローバル化してきた中で、インターネットなど
で、他国の人達との交流がなされるようになりました。
 聖書では、神は、人間を被造物としてつくられたのだといいます。
この意味は、人は神に似せて作られていると言うことです。
人間は、もとは、神に創られた兄弟のようなものなのです。
ところが、一部の人達の利権や争いの為に、上述した勝海舟や瀬戸内寂聴さんのような、考え方
が、出来ない事は、悲しいことだと感じた。
さて、今日私は、東京帝国大学の山本 有三さんが書いて、朝日新聞で掲載されていた。
 小説の路傍の石と言う物語から主・イエス様から教えられた事を書こうと思う。
主人公の吾一の父の祖先は武士でしたが、位の低い武士でありました。
だから、武具を質屋に入れていたのだそうですが、勇敢な方で、手柄を立てたのだといいます。
祖父も勇敢な方で、将軍が朝廷に恭順する事に反発した武士が、彰義隊をつくり明治新政府に反対
して起こした隊でしたが負けて、祖父も逃げたといいます。
また父は、幼くして父を失い、後見人に財産をだまし取られたり、土地の権利書の問題で、
愛川一家の土地かそうでないか、国ともめ、裁判を起こして負けてしまいました。
財産もなく、お金もない状況で、父は、裁判の問題で東京にいて、仕事もしない状況でした。
吾一の成績は優秀で、学校では、勇敢で知恵のある物として絵描かれおり、子供の頃は貧しいけど幸せでした。
 後に、いせ屋の秋太郎とおきぬのもとで働かせるまでは、学校で勇気があり、賢い子で通っていました。
それが、彼の家が貧しいばかりに中学校にも通えず、母の為にいせ屋で働き始めると、おきぬは、手のひらを
返したように吾一を見下すし、秋太郎はそんな事はしなかったが、彼の名前は、吾一から五助に変えられてしまった。
その後、彼は母が亡くなるまで我慢していせ屋にいるが、母が亡くなると、以前父が手紙で東京にいると言うので
その場所に行くと、今度は、そこの大家のおかみと娘にさんざんこき使われ、ほぼただ働きのような生活をさせられた
挙句、捨てられてしまう。
その後、インチキくさいおともらい稼ぎ仕事をする老婆と、葬儀の時にもらい物をし、設ける仕事をしていたが、そん
な人間として最低な生き方に我慢できなくなった、吾一は印刷の職場につく。
ここでもさんざん苦労し、いじめられた吾一は、以前の先生の次野先生と出会う。
次野先生は、以前いなば屋のおじさんに協力してもらい、中学校へ行くように、話をしてくれた人だ。
 けれども、母の仕事をもらうために仕方なく、いせ屋で働く事になった。
だから、次野先生は吾一のもっとも信頼できる人だった。
 次野先生は、いなばのおじさんから、当時で言うと大金の100円を愛川 吾一の為にもらっていた。
このお金は、吾一をいせ屋のような所でこき使われないようにし、学校に行かせて立派な人になって
ほしいと思い、吾一の為におじさんが次野先生に渡しておいたものでした。
しかし、次野先生は、そのお金を結婚した嫁の病気を治すために、半分使ってしまった。
今は、東京の商業学校で教えているようだが、作家を夢見ている貧困生活の為、残りの金も使ってしまった。
そんな中で、吾一が何処にいるのか探してはいたが、次野先生は、吾一にこの小説路傍の石で、あやまり、
最後、商業学校に入れる事を約束してこの物語は、終わるのだが、この物語は、まだ完成してないまま、
山本有三さんは、ペンを折った。
当時明治の中期の時代、軍国主義がだんだん鮮明になって行き、社会主義の思想が弾圧されていき、自由に書けなくなって
きたのが理由でペンを折ったと言われており、続路傍の石が書かれているのであるが、作者の意向もあり、私が上述したように、
次野先生が吾一にあやまるシーンで終わっているものが多いそうだ。
なぜ、筆者である山本有三さんが、続路傍の石があるのにも関わらず、完成させず、このままの状態で終わらせたのか。
それは、次野先生を自分自身に抽象的に置き換えたからではないだろうか。
 次野先生は、子供達に正直でうそをついたりしないように教育する教育者であるばかりではなく、将来、次野先生が、文学家に
なる事を夢見て、酔っぱらって勢いよく話をするシーンがある。
 私の憶測かもしれないが、次野先生を山本さん個人と重ねてこの物語の終わりを吾一に対して不正を行い謝るシーンで終わらせている
のだと私は、痛感した。
文学者はいかなる時代に於いても間違った意見に屈服するのではなく、正義と平和を愛し生きて行くことの大切さを教えたいのだと思う。
 そして、その時代の一人一人が、そのように、悪い時代に流されずに正しい行いをする事の大切さを訴えたかったからこそ、
自分自身の弱さに不甲斐なさを覚え、責任を感じた山本有三さんの路傍の石は、素晴らしい文学であったのだと思いますし、
私はこの作品を称賛しております。
聖書で、ルカ20章17で主・イエス様は、このように言っています。
「家を建てた者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。」
家=この世の指導者、見捨てた石=主・イエス様であると思われるが、山本有三さんの路傍の石の小説は、まさに世の中の迫害に会いながら
も、その思想を曲げずに資本主義、自由主義、社会主義の理念を通した。立派な作品でした。
今日は、主・イエス様に祈り、どのような時代においても、正しい生き方をする者事の大切さを学びました。
人間には、肉体と魂があります、
霊と誠により礼拝をしなさいと聖書で主・イエス様はいいます。
でも主・イエス様は、行いを正し悔い改めて、主・イエス様を信じた人全てを平等に天国へ入れてくださいます。
初めの者も後の者も、多く与えた人も少なく与えた人も平等に罪をあがなってくださります。
だから主・イエス様の十字架を信じる人は、だれでも救われる事ができます。
 

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昨日家から少し離れた道を何げなく歩いていると、
そこには春に咲く小さな青い花が咲いていた。
私の家の庭には、梅の木が2本植わっている。
家の近くのほうの白い梅は、満開なのだが、庭の奥の梅は、
まだ、そんなに咲いてはいない。
でも、ヒヨドリ、メジロ達は、そんな事は気にしない。
どちらの梅の木にも同じようにやって来る。
さて今日は、主・イエス様に祈り信仰による生きる事の意義
と恵みについて、書こうと思う。
周知のとおり、今から約4年前、東北で震災があった。
その時の津波により2万人の尊い命が失われ、また、
人の怠慢に怒りくるったのかのごとく、福島の原発が
爆発してしまった。
パウロ・ネメシェギという上智のカトリックの先生は、
著書で、原発と言うものの脅威について、書かれておられた。
そして、昨日報道された話によると今だに原発の海への放射
能の漏れは、終息していない事が新聞で、久々に露呈された。
私達は、現実に、目を向けて生きる必要がある。
私が、紹介したい話は、その当時、日本キャンパス・クルセード・
フォークライストが、作っている、HOPE FOR LIVING JAPAN
という東北支援の為のDVDに出演していた、森 祐理さんの証に
ついてです。彼女は、京都市美術大学声楽専修卒の福音歌手です。
国内外で、被災地を巡り、刑務所で慰問活動が認められ、法務大臣
顕彰を受賞なされた方なのですが、このように彼女が、人々の為に、
歌や支援活動をするきっかけとなったのは、阪神淡路大震災での森
さんの弟の死がきっかけでした。(このことに関しては、上記で紹介
した東北震災の人の支援DVDでも森さんは、証をしている。)
彼女の弟は、大学4年生で、神戸に下宿していたのだと言います。
その下宿のガレキの下で、彼は遺体となり、見つかりました。
牧師や、父に担がれて毛布でくるまれ、家に運ばれた時、森 祐理
さんの心には、ガツン開けられたような心の穴が開いたといいます。
家で、紫に腫れ上がった弟の顔を眺めていた、裕理さん、その時
心の中に弟さんの声が響いてきたのだといいます。
お姉ちゃん、俺死んでいないよ」「俺もっといいころ天国へいったから
心配するな」と・・・。
その時、涙があふれ、でもその涙は、悲しみの涙ではなく、死をも乗り
越えさせて下さる、主・イエス様の大きな神の力を感じた、畏怖の涙で
あるといいます。
その時から、森さんは、上記で書いたような活動を始めました。
そして気づいたのは、自分だけが苦しんでいるのではなく、どんな人も
心に傷を持ち、慰めを求めているのだ、彼らの痛み、苦しみだけではな
く、彼らの優しさ、温かさが私の心の穴にどんどん流れこんできたのだ
といいます。
森さんが言いたい事それは、全知全能の神がある主・イエスキリストを
信じるならば、私の弟にまた会える、死は終わりではない。主・イエス
の十字架を信じ、信じて口で告白し、罪を悔い改める人達は、誰でも救わ
れるですと言いたかったのではないか思います。
もし、主・イエス様が、私達の罪の身代わりとなり十字架に架かってくだ
さり、私達を救ってくださらなかったならば、私達は、絶望に打ちひしが
れてしまうかもしれません。
でも、確かに主・イエス様を信じる人にとって、死は始まりになります。
ローマ6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖な
る生活の実を結んでいます。
行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。
しかし神のたまものは、私達の主・キリストイエスによる、
永遠の命なのです。
主・イエスを信じる人は、今からでもあとでも救われます。
なぜならば、信仰の父アブラハムは、割礼を受ける前から信仰により神の
義を獲得していたからです。


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今年は、10月に入ってから、強い台風が、2度も来た。
18号と19号2つの台風は、多くの被害をもたらしたが、東北の方では、震災の時の地盤沈下が影響し、
被害が増したと言う。
私たちは、東北の人達の苦しみを忘れてはならないという事を改めて感じました。
また御嶽山での噴火により、老若男女の尊い命が亡くなったご家族の上に主・イエス様のご加護があるよう
に祈ります。
人の命は、短いだからこそ、今、主・イエス様の十字架と復活を信じる必要があります。
さて、ルカ13:4 でシロアムの塔が倒れて18人の人が亡くなったとき、主・イエス様はこういいます。
エルサレムにいた他の誰よりも罪深いから、シロアムの18人は、亡くなったと思うのか。と・・・。
つまり、主・イエス様は、人の罪の大小でこのような惨事が起きるのではないのだよといっています。
悔い改めさえすれば、救われるのです。
さて、今日は、主・イエス様にお祈りし、アーサー・ホーランドという牧師を紹介したいと思います。
1951年大阪府に彼は、生まれました。
世間では、不良牧師で通っています。
でも、この牧師は神さまの不思議な御手と、見守りをたくさん不思議と受けているのを、かれの幼少の頃
からのエピソードから見る事ができます。
まず彼の父は、海兵隊に所属しており、アメリカ人です。母、小柄な日本人父と母とは、母が18歳頃に
ダンス・ホールに出入りしていて、そこで、父と出会い周囲の反対を押し切って結婚したのだという。
初め両親はアメリカに行ったのだが、母がホーム・シックにかかり、日本へ戻って来た。
そして、両親と弟は、東京へ、アーサーさんは、祖父母に育てられたと言う。
もし、日本へ帰ってこないで、アメリカで暮らしていたとしたならば、アーサー・ホーランドという牧師は、
今存在しなかっただろう。
なぜならば、アーサーさんは、喧嘩っ早い人ですので、銃社会のアメリカでは、生きていなかったかもしれない。
それに彼は、勉強は好きな方でなく体育会系で、アウトローな牧師なので、日本語を習得してアメリカから宣
教するのは、性格上難しいのではないかと彼の著書を読み感じた。
また彼の育った町は、大阪の浪速のブルックリンとか、ヤクザのエルサレムとか言われていた場所で、育ったか
らこそ、不良牧師アーサー・ホーランドと言う牧師が、生まれたのだと思う。
神さまが、備えたというべきだろうか。
彼は、高校まで、セントメトリー・インターナショナルスクールに通い、柔道は、講道館の黒帯3段で、あると
き恩師である、柔道の先生の岡野 功さんと出会う。
この岡野さんも主・イエス様が、アーサーさんに必要に事を教えるために出会わせたのであろう。
岡野さんは、後にアメリカでアーサーさんと会う。
アメリカの女性と結婚したから、そして、岡野さんの母の父が牧師であり、一番の尊敬する恩師が教会へと神
の見えない導きで、アーサー牧師を招いたのだった。
その岡野さんは、中量級の金メダリストで昭和の姿三四郎と呼ばれていた。
彼は、正気塾で柔道を教えていたが、自分で働き、飯を食わせていたのだという。
しかし、稽古は壮絶なほど厳しくアーサーさんは、うっぷんを晴らすため、ディスコにいき、喧嘩、に難破等々の
暴れまくったのだという。
父は、そんなアーサーさんを見て、高校卒業したらこんどは、アメリカに行けと言う。
そしてアメリカで大学に入り、レスリングの中量級やサンボ、パンアメリカなどで銀メダルや3位にはいった。
でもいいことばかりではなく首を怪我したりしたのだそうだ。
ざっと彼の生い立ちを説明したが、私が今日主・イエス様に祈り伝えたい事それは、このアーサー・ホーランドさ
んがどのような動機で、主・イエス様を述べ伝え行動しているのかということだ。
アーサー牧師の活動を紹介します。
1992年に約40kgの十字架を背負い、日本列島縦断十字架行進を行い、その後に日本のみならず、韓国半島(釜山〜
板門店)を2回に渡って縦断し、 米国ではハワイ一周を行うなど、キリスト教界に新たな
波を呼び起こしたカリスマ牧師、アーサー・ホーランド。
2011年9月27日に還暦を迎え、30周年という節目の年に再び、愛のシンボルと言われる十字架を背負って、日本列島
縦断を決意。
2012年3月に沖縄をスタートして、フェリーで鹿児島に入り、九州、本州、北海道と北上しながら最北端の宗谷岬に9月18日に到達した。
2013年も四国一周十字架行進を終え、
2014年3月オアフ島一周十字架行進を達成。
さらに現在、アメリカ横断十字架行進を実施中であり、2015年6月末ゴールのNEW YORKに到着予定である。
十字架行進によって、ミッション・バラバという元ヤクザの人達を束ねて、十字架行進したり、韓国の人との和解の意味を含めた十字架活動をした。
その中で、私は罪の赦しとは何かを学びました。
youtubeで現在、賛美主ハレルヤという歌を検索すると、飛び出せミッションと言う題目で、彼らの賛美し神様を賛美する光景が出てくる。
彼らは、皆生きた魚のように生き生きしており、主・イエス様の救いを100%信じているように見える
そして何よりも人としての魅力を感じさせられる。
アーサーさんは、著書でこのように言う。
人は、見かけで人を判断する。神は、ハートを見る。
そのほかにも、薬で中毒になった青年たちを助けたりもしている。
彼の動機は、愛が発端なのである。
you are loved あなたは、愛されている。
アーサー牧師のメッセージで私たちに伝えたい事はここだと思う。
アーサーさんは派手な服で伝道したり、十字架を背負って生きれたのには、
あなたは、愛されているのだ、こんな自分自身でも赦されているのだ。
どん底の中でも人はやり直す事ができるあなたは、愛されているのだ!!
という事が路傍伝道の動機である。
私はこの考え方は、教会でも学ぶべき事だと思う。
現代のキリスト教会は、全てがそうだとは言わないが、形や体裁ばかりに気を付けがちであって、型に捕われ
てしまっている。
だから、著書で韓国へ伝道した時、若者が結構信じたというのは、若い人程見かけや、踏襲された教会文化
ではなく、人の魅力や生き生きした生きた教会や生きた人の姿に感化されるのだと思う。
しかし彼らの生き方は、キリスト教会では理解されない部分もあると思う。
行き過ぎた表現や過剰すぎると言う人もいるかもしれない。
でも、聖書で、主・イエス様は、不正な管理人のたとえでこのようにも言っている。
ルカ16章1〜9にかかれているが、その内容を簡単に説明すると、主人が主・イエス様で、管理人は悪い信徒です。
この信徒が財産を無駄遣いしていたのがばれて、それで、自分を家に入れてくれる人を作ろうと思い、こともあろうに主人の財産の証文を勝手に変えて、たとえば、100万の債権を勝手に50万にしてしまったという、普通
に考えてみれば、とんでもない話です。
しかし、そんな不正な管理人を主・イエス様は、凄くほめていて、不正にまみれた富で友達を作りなさいといいます。
不正にまみれた富に忠実でなければ、誰があなたがたに本当の価値あるものを任せるだろうかとまで言います。
また他人の物について忠実でなければ、誰があなたがたの物を与えてくれるだろうかと言うのです。
その理由は、神と金に富と神に仕える事はできないからだと、主・イエス様はおっしゃっています。
大切な事は、友達を作りなさいという事だと私は、主・イエス様から導かれている。
アーサーさんは、ヤクザのクリスチャン達に対して、また自分自身罪につながる事刺青を見させたり、また、堂々と裏切られた事は辛い、その人をぶん殴ってやりたいとか、笑いまじりに、品性のない話をしたり怒りもする。
でも、彼は、その罪の状況を生かし、彼らを受け入れ、愛されているのだよと言う。
罪を批判しない。
そして、罪を止めていない状況の人達にとっての心の支えとなっている。
けれども主人である、主・イエス様にとってこの行為は、罪を行っている現在の債権を勝手に50万にしてしまっている行為にも見えるだろうし、本人自身も罪を犯していないとはいえないかもしれない、動機がどうであれ、言ってはならない言葉もあるように感じるが、罪を赦して下さいと嘆いて救われる人もあれば、赦しの神の愛の大きさを見て、救われる人もいるのだ。
主・イエス様は、そんな事を私たちにアーサー・ホーランドさんを通して伝えたいのだと思う。
今日は、主・イエス様に祈り、一番大事な事は何か、それは愛されているから愛するようになり、愛するならば、主・イエス様の十字架を仰ぎ見るだけではなく、御心を行う事を私たちは求められている。
そして、その手段は、何も一方の道しかないのではなく、神は様々な道を備えているのだと言う事を教わりました。
主・イエスの十字架と復活を信じる人は、今からでもやり直せます。
そして、天国へ入るのは、ゴールではなく、スタートなのです。
 
 
 

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トクトル
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