私は、家族を思う時に、一番大事なのは、思いやりだとおもっています。
家族・・・。しかし、人間に罪の性質がある限り、それは、蜃気楼のように幻のように、思えます。
しかし、自分は、家族に、人に愛を求め、そして一人尋ねもとめている旅人かもしれません。
でも、やっぱりわたしは、人しか愛せない!
さて、私は、川端康成の 山の音という本を読み、正直この作品の文の構成や、川端さんの人をみる描写力には、脱帽しました。
この作品は、信吾(舅)と息子修一の嫁、菊子 との人間関係を主体に書いたものがたりです。息子の修一と菊子は、美男、美女、で、 嫁の菊子は、とても節度のある女性なのですが、修一は、戦争にいって、すさんでしまったのでしょうか?彼は、絹子という女性と不倫関係にあったようです。
菊子も確かにいい女なのかもしれないけど、修一が本当に心を赦しきった女性は、皮肉にも絹子でした。
なぜなら、絹子の前では、修一は、わがままになり、歌などうたわせたり、していたようですが、菊子には、そんな失礼なことは、しなかったから・・・。
修一は、皮肉にも本当に心を赦せる人と、結婚してから出会ってしまったようです。
そして、かわいそうな嫁菊子をはげまし気遣う舅の信吾との人間かんけいがかかれている。
菊子を憐れに思う信吾は、修一と菊子の仲を取り持ちたいと思っていた。
そこで修一の不倫の相手はわからかったが、ある時、信吾の部屋付きの女事務員が、情報をしっているとしり、彼女とダンスにいったりし、叙叙に、修一のことについてきくと、何と事務員(英子)は、修一は絹子と関係があり、またそこの家もしっていた。
そして、たびたび、菊子さんのことをおもい、彼女は、信吾にいろいろ秘密をはなすようになった。
英子は、会社を辞めてまでして、信吾にこのことをおしえる。
この物語は、不倫相手の絹子とも無事、修一は、わかれ、家族が内面的にまとまっておわるのだが、その前に、菊子は、修一の不倫に対し、唯一修一に抗議の意味で、子供をおろす。
その時に、どんなことがあってもなかなかった菊子は、信吾がもらったお面をかぶった時にないた。
その涙は二重、三重にながれおちた。
かの女は、実家へかえって、しばらくしてまた信吾がいる修一の家にもどってきたようですが、この菊子がもっとも愛したものは、愛でなく、生活だったようです。
かの女は、信吾を父として、甘えること愛する事で、心の春をまちのぞんでいた。
しかし、そんな菊子を裏切るように、菊子の子を下ろす為のお金は、修一の愛人がだし、しかも絹子には、
修一の子かもしれない子がやどった。
真の幸せは、菊子にはなかったようなきがします。
最後、信吾に別居を勧められた時に、彼女は、嫌がります。修一を恐れて・・・。
だから信吾が息子とわかれるきがあるかと聴くと皮肉にも菊子は、修一とわかれたくないではなく、信吾
にお世話をしたいと・・・。
だんだん、信吾に対してまた信吾も、二人には、愛に近い感情が生まれてしまった。
昔信吾は、今の妻の保子の姉を愛し、妹の保子と結婚した。
保子の子に姉の面影を期待したが、男の修一が美男だった。
そして、いつしか、彼は、自分の見果てぬ愛を菊子にみるようになりそして、自分を隠すように芸者の中に偽の安らぎを感じるようになる。
また菊子は菊子で、本当の自由よりも、偽の幸せをもとめる、二人の境遇は、似ていた。
信吾は、菊子への思いを内に無意識に秘めてしまっていた。信吾はさいご菊子を、田舎に招待する家族と一緒に、
人は愛する人と自分のふるさとをみて共有したい気持ちをもつものですがしかし信吾は、見果てぬ夢を隠すようにせめて家族でいこうと・・・。
罪がなければ、私達は、きっと相思相愛の相手とだけめぐりあえ、相手を不幸にするような人間関係はなかっただろうとおもう。
この作者は彼のしんじているのは日本古来の悲しみであるとそして戦後の世相や風俗なるものをしんじないとありますが、彼が信じていたものは、神性であったのだとおもう。
確かに、見た目は、ただ、自分を主張できない子供の大人達の悲惨な物語ともいえるけど、川端さんの書きたかったことは、山の音これは信吾が深夜に得たいの知れない音を聞いたそしてその音を聞き、信吾は、死期を告知されたような恐怖を感じるというシーンにあると思う。
なぜならば、この物語には、信吾の同僚の死が、たまにでてくる。
生と死と人生の運命のいたずらによる矛盾からくる悲しいおもいやりの中に、彼がしんじている悲しみとは何かというと、
罪ゆえに見えない主・イエス様の愛をかれはほっしていたのではとおもいます。
本当は、愛されたいし、輝きたいけれどもうまく行かない現実に彼が日本古来の悲しみを信じているところに、罪ゆえにさまよい苦しむ川端氏の深い隠れたそしてゆるがない人への愛とおもいやりをかんじました。
聖書では、悲しむものは幸いであるその人は、慰められるという御言葉がありますが、きっと、悲しみの中には、人のやさしさと暖かさがあるのかもしれません。私は神から、愛とは、悲しみから逃げずにそのまま受け入れつづける時に、そして、心貧しく神への感謝の気持ちをもつ時にめばえはじめるとさとされています。
光と陰があるように、悲しみがおおければしかし、喜びもまし、そしてだから人は、無心に祈るようになるような気がします。愛ゆえに失うことを恐れる自分が大きくなる。
虚無も多くなる生と死のはざまのこの世では・・・。
自分の今いる世が、天国ではないと神からさずかった心はしっているからかも
しれません。
この本を読み、主・イエス様が我が為に十字架にかかってくださり、罪をあがなってくださった事が私を悪の道から救い、悲しみの中から神が教えてくださる恵みを、知れました。
悲しみも喜びと癒しと平安にかえられたそして信じるならば、誰でも救われるのだとしりました。
確かに、主・イエスを信じるものは、すくわれます誰でもどんなに罪は重くともかならず・・・。
|