昔、藤野君というかたがいた、終戦の翌年満州から、最後の引揚船の中での出来事だ。
彼らは戦争が終わり、ちょうど敗北を喫し、散々なめにあい、途方にくれているときであった。
彼らは、イワシの缶詰のような状態で日本におくられてきていたが一人藤野君だけは違った。
彼だけが、空間の争奪線の中で唯一あぐらをかいたり、かかえた顎をのつけたり、悠々自適な生活を送っていた。
彼はサッカリンというお金をもっていて、だから彼は、そのお金を使い、3人の見知らぬ人から自分の場所をかいとっていたから、
寝場所を売った3人のものにとって寝場所といえば、甲板しかないです、この頃10月頃でしたので、とても寒かったと思います。
自分の寝場所を売ってしまう程、3人のものにとってお金が大事でした。
これからの生活のためかもしれないし、家族が病気だったのかもしれない。
藤野君は、お金をもっていましたから、チョコレートとか、自分のほしいものはなんでも、てに入れられましたが、しかし彼をみてうらやましがるものは、たくさんいました。
皆が、飢えているのに、藤野君だけうまいものをたべ、寝ることもできないほど、窮屈な環境の中、彼だけがお金で買い取った場所でぐっすり寝ていたから、
しかし彼はしかし一番大事なものをうしないました。
皆が飢えているとき自分だけが、食い、人が死のうと関係のない、たったわずかな引揚船のこの中のできごとで、相手を敬ったり、気遣ったり相手の 為に生きる真心が、なくなり、彼はきっと生涯一人ぼっちの人生をおくったのだろうとおもう。
今の世で自殺する方のほとんどが、寂しい、または、ひとりぼっちだった、または生きがいがない、などの理由もあると主・イエス様は、私に教えてくれています。
また私達クリスチャンは、教会をノアの箱舟にたとえ、抽象的に船といったりします、神の家族また、キリストの体だと教会の人全てが、神の体の一部であり、すべて一身胴体だということです。
私はこう思います、藤野君が実は一番悲惨で一番寂しかったのだと・・・。
人と人との交わりがなければ、どこかあそびにいっても、勉強しても、何をやっても、楽しくないでしょう。
何をしても誰も誉めてくれないし、誰も喜んでくれないそんな生活こそ、人人の中にいる孤独な人生であって、人と人との関係は、金持ちになるよりも大事なことだと思う。
本当は人間は、 神と人との恵みでささえあっていきている、服にしても、歯ブラシにしても、TVにしても、人に作っていただいたものばかりなのに、すぐ人間は、感謝の気持ちを忘れてしまう、人のあたたかさを、今の世の中が、弱く能力のないもの為皆のためには、出来てないから。
家族ということを、思うとき、私にとって好きな聖書の箇所が2箇所あります。
箴言27章25草が刈りとられ、山々の青草も集められると、子羊はあなたに着物を着させ、やぎは、畑の代かになる。
やぎの乳は、十分であって、あなたの食物、あなたの家族の食物になりあなたの召使の女達をやしなう。
昔の人々は、農家や、牧畜の生活をしており、お金よりも、物が大事にされていた。
彼らには、充分なほどの神の恵みがあり、おたがいはげましあって、いきてきたのでしょう。
ヨハネ15章の1では、主・イエス様はこうおっしゃっています。私は誠のぶどうの木であり、父は、農夫です。
また聖書で主・イエス様は御自身をブドウの木にたとえてこういいます。
「私はぶどうの木で、あなたがたはえだです。人が私にとどまり、私もその中にとどまっているのなら、その人は多くの実を結びます。」と・・・。
また私達教会では、悔い改めのため、正餐式があり、ブドウ酒とパンをいただきます。
私は何もできない罪人ですが、キリストの血とパンを頂くものは皆、農夫につながっていますから、兄弟です。
これから、信じるひとすべてが藤野君でさえも・・・。主・イエス様は赦してくださいました。そしてこの罪びとの私でさえも・・・。
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