今日は、久しぶりに少し歩いてみてしかし歩いている内に、だんだん悩みの世界に自分がとらわれていたんだなと、感じました。
そんなとき自分は、安部公房さんが書いたかばんという物語を思いだしました。
雨の中を濡れてきて、そのまま歩いてきたというくたびれた格好の青年が半年前に出された求人募集をもって会社に面接へいき、当然そこの経営者はこう思ったそうです。
(いくらなんでも、非常識すぎると・・・。)
青年は、しかし彼のいひょうのつく態度にでます。
「やはり駄目でしたか」唐突にやっときて、しかも衣服は雨でびしょびしょ、職を捜しにいくには不似合いな赤ん坊の死体なら、無理すれば3つぐらいは入るのではないだろうかとおもわれる鞄を持ってきて、来た時と同じ唐突さで帰ろうとします。
経営者はついついあわててひきとめます。
「まあ、待ちなさい」そしてなぜ、いまさら応募する気になったのか、青年に聞きます。
青年は、この時いいわけもしません、また自分のことをこの経営者に良くみてもらおうともしません。
青年は、そんなことをしても意味がないことを多分知っていたのでしょう。
彼は、きっと上京してきて、右も左もわからない中で、あてもなく仕事を捜し、ただ静かに口をぎゅっと結んで、必死に生きてきたのだ次の青年の言葉から私は、痛烈にかんじました。
「この鞄のせいでしょうね」「鞄を手放すなんて、そんなありえない仮説を立てて見てもしょうがないでしょう。」
経営者はこう言います。「手から離したからって、別に爆発する訳ではないんだろう」「この鞄のことは、誰よりも一番よく知ってます。」経営者の関心は、鞄に向きます。
高いのか ?貴重品でも入っているのか?ついに経営者は、この青年を雇いいれます。「まっいいだろう」決してこの経営者にとって納得がいったから雇ったのではありませんが、この青年の根性を買って、経営者は彼を雇いました。
青年が経営者に、「下宿から、ここまで、鞄なしで辿りつけるかな。身軽になりすぎて、途中で脱線したりするんじゃないかい。」と言われた時一言「下宿と家のあいだなんて、道の内に入りませんよ。」鞄彼は、苦しみゆえにこの鞄を持ってあるいてきた。
人は、死にたいしても、苦にたいしても、仕事がなかろうとどうしようとなやまなければ、苦ではないと聖書では、こういいます。思い悩むなと・・、そして栄華を極めたソロモンでさえ
このような花一つほどもきかざってませんでした。
経営者は、彼に下宿を紹介し、彼が鞄をおいて下宿に借りにいったあと、鞄を持ちあげてみて、鞄を持つずっしりうでにこたえたそしてしかしニ歩三歩歩きいつのまにか外へいき、経営者は、嫌ていうほどの自由だったと・・・。鞄が私を導いてくれると・・・。自分は、この二人を羨ましくおもいます、私にとって鞄の役割をしてくださるのは、主・イエス様です。
御言葉が、私の杖でありときムチでもありますが、敵おっぱらってくださるムチでもあります。
しかし、実際いろんな悩みがあり、悲しみもあり、人は、なかなか、真の自由に到達できないのは、きっと罪があるから。
またこの世では、人は、良い仕事を得たい、またいい家、良い車などが、ほしいとねがっている。
でも、このかばんの物語は、何が一番大事なのかを端的に語っている
それは、今この時自分が思い悩まずに、ただ今のかばんの重さを知り、ただ一生懸命生きるだけで良いんだ。
いずれは、かばんが、その努力が主・イエス様の恵みとなって、自分の人生を切り開いていってくれるんだということです。
また教会では、こんな歌があります。
聖霊よ我らの主よ!我らを一つにという個所をみると、人は、皆人生に思いかばんを背負っているけれども、助け合うこと、がそのかばんを皆でもつことの大切さを覚えます。
もしかしたら、真の自由は、遠いけど近いのかもしれません。
私は、希望を持って救いの確信もって歩んでいます。
希望をもって、そしてキリストの復活と信じる者の復活を述べ伝えています。
主の十字架を信じます。
主が私達の鞄を共にもってくださる方だから主が一番苦しまれたのだから、全人類のなだめのささげものになってくださったのだからイザヤ42章の3節で主イエス様はこういってるから。
彼は痛んだ葦をおることもなく、くすぶる燈芯を消すこともなく誠をもって公義をうちたてる。
彼は衰えず、くじけない今も信じてないかたがいても、主は、私達を忍耐して、信じる人のために待っています。
主は、全人類の人を愛しているのだから・・・。
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