思春期に、少年から大人に変わる道を歩いていた汚れのないままに、人は皆自分を愛する者だと思います。
だから、幸せを捜しつづけるのが、いつも人の常なのかなと思います。
しかし生きていくにつれ、自分もそうですが、人は、自分の思いのままにならない経験を、誰でも一度か2度は、するのではないでしょうか?
失恋したり、部活にはいったのはいいけど、レギュラーになれなかったり、それでも手にいれる迄あきらめない人もいます。
私は、弱き器という小説を読み信仰について考えさせられました。
主人公は、町の十字路に骨董品店があり、中には12歳の少女の身丈を持っている観世音をみた。
今にも倒れかけそうなその像が倒れやしないかと思いながら、その場を過ぎたその後に見た夢で、観世音の体か゛自分の方に倒れかかってきて、長く豊かな手だけが生物のように自分の首にだきついてきた。
そして主人公がはっと飛びのくと、その像は木っ端微塵に砕けちる。
その後、そのかけらを彼女が拾うという変なものがたりだ。
私は、この小説を書いた川端康成という方は、この観世音を女に例えて弱き器と言ってますが、私は彼は、幸せを探していたのではないかと感じました。
彼にとっては幸せが女性だったのかもしれないし、わかりません。
しかし長く豊かな手だけが生物のように自分の首にだきついてきたシーンをみると、女性のことを欲していたのだろう。
大概人は、何かを得たいときには、手に入れる、手で掴んでみせるといいますが、この作者は、失敗が多かったのかもしれません。
さて、聖書では、よく主・イエス様を陶器師に例え、人間を陶器に例えて、御言葉を語ることがあります。
陶器とは、もろいものですから、すぐこわれます人の心もそうです。
昔、旧約の時代に、イスラエル人(神の民)は、エジプトのパロに奴隷のように、扱われていたようですが、ある時彼らを憐れみ、指導者モーセを神は選び、彼らを神はエジプトから、神に従えば与えるといわれた。
そして素晴らしい地カナンの地に、神はこの民を向かわせた。
いろんな事があったが40年荒野をさまよい、彼らは自分達の地を手にいれる。
しかし、彼らは主に何度もそむいてきた今日まで・・・。
バビロン補修、アッシリア補修、彼らはまた主に神にそむいたせいで、自由を奪われる。
神の民と言われる者達でさえ、このありさまですから、人間の心は本当にもろい時にこなごなになってしまうものですが、私も親や、愛する人、特に彼女が、火やぶりにされたり、殺されるならば、私の信仰はどうなるかな?不安になります。
イザヤ63章8〜10には、主の陶器師としての人間を愛するが故の葛藤がかかれてます「誠に彼らはわたしの民偽りのない子達だ。」彼らがくるしむ時には・・・、いつも主・イエスさまも、十字架にかかる前から苦しんだと昔から神は、ずっとかれらを背負いだいてこられたと・・。
しかしかれら=イスラエルは、逆らってきたのだそうです。
主は今生きておられます。
そして一人一人の中に確かにおられます。
この被造物の土器のような、弱くもろい人類の心の中に。
なぜなら手に入れられないほど、愛するものの存在をいとおしくおもうからこわれたかけらを小説では集めていたというけど、神は、私達をまっています。
生・老・病・死で朽ちてしまう、土器のようにもろい、このこわれた体を復活させてくださるかたがいます。
彼は、十字架にかかることで、この罪の壊れかけの器を、完璧なものへと、かえてくださるのです。
しんじるならば・・・。
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