私は、雨の時とか、落ち込んだ時になぜか、有用性のある生き物を見るよりも、どちらかと言うならば、白黒写真や、岩や廃物に安らぎを見出す事があります。
赤い土も太陽も、もとは人間をはぐくんでくれた母だからかもしれません。
人は土に帰るから、死を見つめるものにとっては、今回安部公房さんが書いた、シャボン玉の皮と言う小説にかかれているとおり廃物が有用性に屈服する事は決してありえないのかも知れません。
よく仏教では、生老病死といいますが、生が一番の苦であるといいます。
人は誰でも幸せを探す生き物であるのにもかかわらず、人の影のように、残酷にも人には、死というものが、ついて来ます。
心がすさんできたり、悲しむ時、私が廃物に安らぎを覚えるのは、人は悲しみの時に死を見つめることで、生きること光を、覚えるからかもしれません。
私達は、有用性生物が今の世を支配しているように、感じますが、支配原理は動物よりも、植物、植物よりも鉱物にあると私は、思いますなぜならば神は、人間に全ての生き物を支配させましたが、木は私達よりも、長生きで、しかもこの木がなければ、私達人間は酸素がなくなり、死にます。
ゴミに戦いを挑んでも、ゴミの再武装を強めるだけだと、安部公房さんは言ってますが、地球以外には確かに生物は居ません。
鉱物が支配してますこの広い宇宙を創った神は、廃物の世の中の片隅に地球を人間をつくられました。
ここは、いつ滅んでもおかしくない世です。
私達は、だから自分が、罪人であることが分かります。
もし罪がなければ死もないはずですが、宇宙は廃物で溢れてしますから、私は主・イエス様に憐れみをこいます。
ゴミ捨て場から聞えて来る声は、どうやら、ゴミを食う沼にくわえこまれ、咀嚼されはじめた有用性の叫びらしい自分がゴミそのものではない自覚が、日常をささえるシャボン玉の皮なのだというけど、無常とよく仏教では言いますが、私達も100年たてば、みな廃物です・・・。
しかし、主・イエスを信じるものは、違います。
鷲のようにたかくあがり、肉体は、ゴミを食う沼にくわれても
霊は永遠の天国へとあげられます。
罪から来る報酬は死ですが、主・イエスを信じるものは、全ての罪を赦していただけます。
赤い土も太陽オリーブのかげ、母なる大地も主・イエスを信じるのならば、全てが恵みと喜びになります。
主・イエス様が十字架にかかったのは、私達に恵みとまことを供える為です。何の罪もないのに主は、こう言ってくださいました。
イザヤ53章11:彼は自分の命の激しい苦しみの後を見て満足すると・・・。
十字架にかかって私達のなだめの供えものになること、私達の罪の身代わりになって主・イエス様は、十字架で死なれました。
信じるものを救う為に・・・。
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