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梅の咲く今日この頃、世の中では温暖化の影響で、20℃ぐらいの陽気が何日か続いている。
わたしの家の梅の木も、去年よりも早く咲いた気がする。
さてわたしは、童話集の中で旅人と斧という話を聞いたことがあります。
2人の(男=隣人)が、旅をずっとしてきた。
一緒に食べたり、飲んだり、支えあって生きてきたはずでした。
しかしある時、一本の斧のせいで、彼らは自分達が、隣人であったということに気づいたようです。
一人が斧を見つけた時、一方の男は、「俺達はみつけた。」とよろこんだが、一方の男は「俺達は、
みつけたではなく、君が見つけた、というべきだ。」
といった。
しばらくすると、斧をなくしたもの達がおってきた。
「俺達もうだめだ。」といった時に、君がその斧を見つけたんだと、言った男が、こう言ったのだそうな。
俺達ではなくて、君がもう駄目なんだよと・・・。
さて、聖書には、旧約聖書の中にエステル記という書物があります。
エステルは、紀元前473年ころペルシヤのクセルクセス王の嫁、王妃です。
当時のイスラエルは、北王国と南に別れていて、この物語は、南王国ユダが新バビロニアの王ネブガデネザル王により補囚にあった後、新バビロニア王国も滅び、ペルシア帝国ができるのですが、そのペルシア帝国の王の一人のクセルセスの時代の話です。
王妃になる前にエステルは、両親をなくし、親戚のモルデカイによって、娘としてそだてられていた。
モルデカイは、ユダヤ人で上記で書かれたとらわれの補囚の民の子孫でユダヤ人でベニヤミン族の家系
に属していたかたで後にこの国の首相になったかたです。
日本の人がイギリスの首相と王妃になってしまうようなものですが、そう簡単には当然いきませんでした。
当時王様は、ハマンという人を、同僚の誰よりも高い地位につけていた。
よっぽと゛王はこのハマンを気に入ったのようで、王宮の門にいる役人は、みな王の命令により、ハマンに対して、ひざまずき敬礼をしなければならなかった。
しかし聖書では、モーセの十戒というものや神の律法があったために、ハマンにひざまずかなかったこのことによって、ハマンの策略により、ユダヤ人は、全員殺されることになってしまった。
この時にユダヤの民を救ったのは、王妃エステルでしたが、これは、大変なことでした。
なぜならば、当時王宮の内庭にいる王に召し出されずに近づくものは、誰であろうとも、死刑です。
助かる為には、王が金のシャクを差し伸べられた時にだけ、死刑が免れるのです。
この時王妃エステルは、自分だけ、助かればいい、救われれば、いいとはかんがえませんでした。
自分の民族を救うべく断食をしてから彼女はこういいます。
「エステル記4;16 このようにさだめに反することではありますが、わたしは、王のもとに参ります。
このために死ななければ、ならないのでしたらば、死ぬ覚悟でおります。」
彼女は、王妃という立場でいれば、命のきけんもなく、また先ほど旅人と斧の童話の男のように、他人のふりさえすれば、死の覚悟もいらなかったけれど、民族を愛したエステルは違った。
自分の民族を自分自身のように愛したからだ。
まったく同じことをしてくださった方が聖書では、主・イエス様です。キリストとは、救世主と書きますが、聖書では、わたし達の原罪は、とても重い罪であるといいます。
しかし神は、死刑になるのを知っていたのにもかかわらず、わたし達の罪を赦す為に嫌われものになり、あざけられ、ののしられて、十字架の上で、わたし達人類の罪のなだめの供え物となってくださった。
そして今も、わたし達のためにとりなしの祈りを、していてくださいます。
主・イエス様にとって、この世の人々がどうなろうと、ほっとけば、自分はエステルのような王妃よりも偉い存在なので害をうけなくてすんだ。
しかし、主・イエス様は、世の罪を取り除く子羊イエスは、わたし達罪を犯し、滅びてもしょうがない戦いと争いばかりしてきた、世界の人々を無償でゆるし、無関係なものとならずに、今も忍耐して信じてすくわれるものを待っていてくださいます。
聖書では、放蕩息子の例えがあります。
自分勝手に親の財産を使い果した息子を親は、ゆるすシーンが、ありますが神は今もまっています。
心から神を信じ救われる人を教会の人達とともに・・・。
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