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この一週間ずっと、雨か曇りの天気が続いている。
その一週間の中で太陽を見たのは一日か二日ぐらいだっただろうか?
伝道者の書:三章一節には、天の下では、何事にも定まった時があり、全ての営みには時があると言います。
最近の曇り空もいつかは晴れる今日も、希望をもって生きていけたらとおもいました。
さて、1247年、トスカーナ地方のラビアノというところコルトナのマルガレタという女性が誕生した。
彼女は絶望の淵の娼婦とよばれている方で、農家の家に生まれた美しく活発な少女だったといいます。
しかし七歳の時に母を失い、継母にそだてられたのだが、当然昔の貧しい農家の継母にとってみれば、マルガレタは邪魔で厄介な存在でしかなかったのでしょう。
十八歳になる迄、継母にひどい仕打ちを受けていたようです。
そんな貧しい彼女の窮乏が彼女を堕落した娼婦としての道を歩ませてしまったのかもしれない。
けれども、そんな彼女にも転機が訪れたモンテンプルチャーノの若い貴族と知り合い、息子もひとりもうけ、幸せに9年間くらす。
しかし、罪のためであろうかこの若い貴族の男は、殺されてまた、マルガレタは、子供ひとり連れ、ひとりで生きることになり、困り果てた彼女は、実家に戻ろうとするが父親と、継母に門前払いされてしまった。
実の父に捨てられ、自分のことを邪魔ものとして、虐げてきた継母に見下され、マルガレタは、身も心も真っ暗闇だった。
そんなマルガレタは、藁をもつかむ気持ちで、最後にフランシスコ修道会に助けをもとめる。
子供も、私もこのままでは死んでしまう。
以前は娼婦でしたが、その時の彼女は、きっと悔い改めて、生活のために自分を売るような事はしなかったのでしょう。
だから彼女は、コルトーナに家を与えられ、そこに住めるようになった。
彼女にとってこの出来事が大きな人生の第二の転機だったのだろう。
彼女は、主・イエス様に必死に赦しをこうものとなる。
苦行をし、自分の生まれ故郷ではづなをかけて、神に赦しを乞い、自分の顔を傷つけることも、しばしば誰かがやめさせなければ、ならなかった。
このような過激な事をしていたにもかかわらずフランシスコ修道会は彼女を受け入れてくれた。
父、継母、に捨てられ、愛する人をうしなったマルガレタ、若い頃に罪を犯し、きっと神への赦しも得られず、失意のどん底にいた彼女をすくったのは、
キリストの体としての兄弟姉妹であるフランシスコ修道会の力は、大きかったのだと思う、そして、修道会の家まで与えてくれた無条件の愛がコルトナのマルガレタの冷めた心を主・イエス様への熱心な信仰へかえていった
1297年の死ぬときまで、食べ物はほとんど口にせず、ろくに寝ないで馬巣織りのシャツしか着ないで貧しい人や苦しむ人々を助けた彼女は、絶望の淵の娼婦といわれている。
聖書では、人類最初の祖先アダムとエバが罪を犯したせいで、人は、一生苦しんで食を得なければならないという。
また聖書にはヨブという方がいたこの方は、神にもみとめられた義人であり、そんな彼には、七人の息子と三人の娘がいて、その子たちのために全焼のいけにえを捧げていたという。
神様でさえも正しいとみとめるこのヨブにも、神は全焼のいけにえを捧げさせていた。
生き物を自分の家族の為に犠牲として捧げるのですが、私たちは、普段あたり前のように肉を食べて生き物を食べて生活をしているけれども私たちの罪は、コルトナのマルガレタの犯した罪と同じ位悪いものであると、聖書には、書かれています。
聖書では、モーセの十戒という掟があるのですが、そのなかに、殺してはならない、姦淫してはならないとかいてあります。
この二つの罪に大差はないのです。
聖書には、娼婦の方も多々でてきます。
娼婦ではなかったかとされるマクダラのマリヤ、遊女ラハブ、このラハブは旧約聖書ヨシュアという義人を匿った方で勇敢な女性でした。
神の前に正しいことをした、そのおかげでしょうか。
彼女の子孫から救世主キリストは誕生します。
(サルモンはラハブによるボアズの父、このあと、数代の系図が続き、
ヤコブは、マリヤの夫、ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」となっているのです。)
今の世の中の常識では、罪を犯した人は、死刑であり、もうゆるしてもらえないという認識が一般的です。
だから私の知人の何人かは、こんなわたしでは、まだ信仰を持つのは駄目だとかいうひともいます、また私は汚れていると・・・。
しかし、そんな事は私たちの心の錯覚ではないでしょうか、ともいえるのではないですか。
なぜならば、私はしろい象と、みにくい象の話を読んだことがあります。
内容があまりはっきりしないのですが、釈迦が、ある国の王子に例え話をした話で、
たしか、白い象は、人でいうならば貧乏者の父母で、みにくい方の象は、逆に富豪の父と母をもっていた子の話を読んだことがあります。
なぜ釈迦が、このような話をしたのかと言うと、その国の王子の母が貧しい者だったようで、ずいぶんと苦しんでいたようですが、釈迦は「白い象とみにくい象どっちがいいか」と言います。
もちろん、白い象に決まっています。
この例えから教えられたのは、どんなに大きな罪を犯していたとしても、
悔い改めるならば、その気持ちがあるのならば、もうすでにその人の心は、白い象のように真っ白な心にかえてもらえるということです。
墨よりも黒き、心なれど、雪よりも白くあらわれたりという聖歌がありますが、本当に心清めるとは、神にへりくだるときにいつでも、神は与えてくれます。
そして主・イエス様はそんな人と共にいて赦してくださいます。
主・イエス様の十字架は、健康な人のためでなく貧しいものや病人のために全ての人々のためにあるのですから・・・。
ルカ五:三十一、イエスは、答えて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫なものではなく、病人です。
三十ニ 私は正しい人を招く為ではなく、罪人を悔い改めさせるためにきたのです。
罪人を悔い改めさせる為に・・・。
この人類のなかで、罪人でない人など一人もいないのですから、本当にありがたいことです。
信じるものは、誰でもこの主・イエス様の赦しを得られます。いつからでも・・・。
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